エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

 おしどりはかなしからずや

2016年09月30日 | 雑感

2016年9月30日

 

宝が池を家内と散歩した。

最後私は速歩になったので中間点の池の正面に家内より先に着いた。

 

                               

遅れて到着した家内が云った。

「おしどりは悲しからずや、空の青、池の緑に混じりてただよう」

「なんのこと?」と聞くと、

「おしどりが数羽見事な三角の波線をたてて鯉の横をスーと通っていったのよ。だから一首」

 

                                   

家内が手にしているのは数日前にもらった敬老乗車証だ。

昔、空にも海にも染まず漂う白鳥にあこがれた彼女は、数日前に70歳になった。

 

”白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ”

 

 

わたしも実篤より盗作

       老おしどりの仲良き事は美しき哉

 


芦生演習林 - ブナ原生林の危機

2016年09月29日 | 雑感

2016年9月29日

 

9月26日の朝日新聞夕刊に京大の芦生演習林がシカ食害でピンチになっているとの記事が第一面に載っていた。

 

                                          

芦生演習林とは京大が実地演習・研究のために京都府北部の地元から1921年に99年契約で借りたものだ。

広さは甲子園球場1000個分の4186ヘクタール、標高355-959メートル。日本海側からと太平洋側からの気候が混じりあうところにある原生林で、特にブナの林で知られている。

 そのブナやトチノキの若木を鹿が食い尽くすものだから次世代がそだたない。

新聞には、芦生原生林は今では鹿を防ぐ柵のなかだけでしか見られないと書かれてあった。

 

ある研究者が以前言っていたことだ。ブナ林はある程度以上の緯度か高度が必要で、芦生がブナ林生息の南限だ。気候温暖化が進むとブナの種が落ちても発芽しないから、これからの芦生のブナは苦しい、と。

 芦生はどうなって行くのだろう、芦生だけではない、すべての里山が荒れている。

 

芦生に初めて行ったのは中学生のときだから60年以上前だ。以来、高校山岳部の友人と大学を卒業するまで年一回は行った。

きれいな由良川源流の横でテントを張り、焚き火を囲んで酒を飲み、歌をうたい、山間をぬって上を見上げると満点の星空。

尺を越えるウグイが群れをなして泳いでいた。むろん彼らは賢くて、我々の釣り技術は役にたたなかった。しかし、ヤマメ、オイカワ、ハヤなどが簡単に釣れた。

 当時は入山時に演習林事務に許可をもらいに行くだけでよかった。

新聞によれば、今では大学の許可を受けたガイドの案内などで毎年7千人ほど、そして無許可で入る人も数千人いるらしく、これらのハイカー対策も問題となっているとのことだ。

 あの頃はハイカーにはまったく会わなかった。むろん他の高校の山岳部なども入っていたのだろうか、遭遇することはなかった。

 我々は幸せにも芦生がより自然な原生林だった時を知っている。

昨日ブログに書いたが、時はもどらない、昔にはもどれない。

 

追記:鹿は京都市内でも珍しくない。私がいつもジョギングをする宝ヶ池であるとき見た光景は“奈良公園だ!”と思うようなものだった。

われわれの高校山岳部の山小屋での植樹も鹿の被害を受けて惨憺たるものだ。


タイム・ネバー・リターンズ

2016年09月28日 | 雑感

2016年9月27日

 

 家内は結婚前に友達と行った与論の話を今でも時々する。その友達とは中学から今に至る友人で、学校を卒業してからの旅行はいつも二人で行っていた。

 

 二人の旅行には全く計画性がなかった。

あるとき、“日本の一番南の端に行ってくる”、とだけ親に言い、沖縄が日本に返還されていなかった47年前、南の一番端の島、与論に行った。

鹿児島から船で30時間ほどかけてたどりついた。

 夜11時ごろ与論に着くと、船着き場では民宿の人たちがたくさん提灯をもって迎えにきていて、その提灯の明かりはくらくらっとするほど幻想的だった。

きれいな海、しずかな波音、じゃみせんの音色、夜になれば民宿のおじさんを囲んで泡盛を飲みながら、みな車座になって唄を歌う。

“木の葉みたよな わが与論 なんの楽しみないところ、すきなあなたがおればこそ、いやな与論も好きとなる。”

その当時は島のあちこちに“みだらな格好はしないでください”という看板がたてかけてあった。 普通の水着だ。いまでは考えられない。

二週間ほど過ごした家内の記憶にあるあの時の与論は、決して還ることが出来ないはるかな遠い所なのだろう。

 

 もうひとつの彼女の記憶の中の場所は明日香だ。

彼女は高校時代、国語の宿題のレポート作成のために同級生と明日香に行った。

大学卒業後、秘書として勤務していた大学の研究室のT先生に、 あるとき、

“本当にあの頃の明日香は素晴らしかった、人もほとんどいなくて、岡寺、橘寺・・・・、石舞台は雄大で自由に近づけて、古代の奈良はこんなだったのか・・・と思いました”と云った。

 

              

              (写真はそのレポートの1ページ)

 すると、ツルのように痩せて背が高く、博学で、そしてあらゆることに辛辣な見方をするT先生曰く、

「今の明日香など、私が知っていた40年前の明日香にくらべたらひどいものですわ・・・」

 

 Time never returns.  

昔はもどらない。

だから昔を知っている人は例外なく、私も含めて、昔を知らない人に対して“昔はこんなんじゃあなかった、私は良き昔を知っている”風の優越感を持ちがちだ。

 

“なにごとも 古き世のみぞ慕わしき”  『徒然草』

 


曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓

2016年09月27日 | 雑感

                                   2016年9月27日

先日NHKのテレビ番組で秀吉関係の番組があったので京都博物館横の豊国神社に行った。

 

               

 

神社の横に方広寺がある。この寺は昔は巨大な寺で、奈良の大仏をしのぐ大仏殿があったというが今は何もない。

 

               

 

ただ、“国家安康”、 “君臣豊楽”(写真・左上に白枠で囲ってある)という文句に、

“家康という名を分断し、豊臣が栄えるのか”といちゃもんをつけられた大きな梵鐘があるだけだ。

これによって、大阪城外堀を埋められて豊臣滅亡につながった鐘だ。

重要文化財で、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘とされていて歴史上極めて有名だが、

その割にはここには観光客はあまり来ない。

我々の子供の頃秀吉は、立身出世の代表としてもてはやされていたものだが。

 

神社の前には朝鮮出兵で敵の首級の代わりに耳を取ってきたという“耳塚”がある。

それはまさに秀吉の晩年の陰惨さの象徴のようにも思えたりする。

 

               

 

さて、この話の本筋はTVの中で出て来た曲直瀬道三(まなせどうさん)だ。

この人は戦国時代から桃山時代にかけての名医で、毛利元就、織田信長、足利義輝などの手当てをし、

皇室に出入りしていた。

番組によれば、 “医者は権力にとらわれず、ただ医術に徹すればいい” という考えで、権力に頼ろうとした

弟子の全宗とたもとを分かち、後にキリシタンになったという。

この墓を探して豊国神社から転々と車で北にあがり、寺町通に沿って今出川通りを越えて、ずいぶん北の十念寺まで行った。

頼み込むと、快く承知してくれて若いお坊さんがお墓まで案内してくれた。

この寺にはものすごく沢山の古い墓がある。

                         

日本医学中興の祖として”医聖”と称される曲直瀬道三の墓は夫人の墓と並んで墓地の奥にあったが、アッと驚くほどの粗末な墓だった。

墓不要論の私にしても気持ちのよい墓だった。

同じ墓地内に弟子の全宗の墓もあるという。

 

2016年1月18日記


目玉の松ちゃん

2016年09月26日 | 雑感

                                                                                   2016年9月26日                                                      

 

                                                                        

 

 

これはシルバーどころか、ゴールドエイジ、もしくはその上のプラチナエイジ(?)にしか通じない話だろう。

いつものように高野川沿いに下がって行って、鴨川(加茂川)との合流点に着いたときにトイレに行きたくなった。

たしか高野川と鴨川との間の、下賀茂神社に行く道の横に公衆トイレがあったことを思い出した。トイレがある所は小さな広場で、鴨川公園と名付けられている。

用をたして出てくると、家内がある方を指さしている。見ると胸像があった。

 

「目玉の松ちゃん」と家内が言う。

その名前は私も子供のころに聞いた。なぜ私より5歳下の彼女が「松ちゃん」を知っているかといえば、 「宝塚ファンのお母さんが、実は松ちゃんのブロマイドをこっそり持っていて、それを見つけたおじいちゃんに叱られた」という義母の若かりし頃の話を聞いていたからだ。

「目玉・・・」というからにはどんな目をしているのだろう、とよくよく見たがただ鋭いだけでなんということはない。

 散歩から帰ってネットで調べた。

尾上松之助(1875年から1925年)、本名中村鶴三(かくぞう)、歌舞伎界から牧野省三に薦められて映画界に入り、日本初の映画スターとなる。大スターらしかった。実物を見た人は、今では優に100歳を越えているだろう。

目玉をギョロリとむいて敵に対峙するのがうけて、「目玉の松ちゃん」の名がついた。

人間的にも立派で、貧乏な家から出て、映画でお金をいただいて裕福となった。そのお礼にと京都市、赤十字その他に巨額の寄付をした。

亡くなった時、葬儀に参列したのは数万人、沿道は棺を見送る人で埋め尽くされたという。

彼が貧しい人のために建てた府営住宅が老朽化して立て直されることになった時に、時の京都府知事・蜷川虎三が、松之助の功績が忘れられるのを惜しんで、余った金で建てたのがこの胸像だという。1966年のことだ。

慾にまみれた話が蔓延している現代、こういったいい話を聞くと心が和む。

そこらへんをうろついていると、意外に近いところで興味あるものに出会う。

 

2014年5月21日記