エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

 良き哉老友

2016年11月20日 | 雑感

定期健診のためにK大病院に行った。

 2年前に肺がんの手術をし、最初のうちは毎月検診、だんだん期間が長くなって、今回は4か月ぶりだ。5年で無罪放免らしい。

 1階でCT、2階で採血(写真)をし、4階の呼吸器外来の受付で検査終了を報告して体重と血圧を測る。

                                      

あとは診察を待つだけだからその間に一階食堂で朝食をとる。ここの朝食、サンドイッチ、コーヒー、サラダ、ヨーグルト付きで以前より少し値上がりして500円だが、とにかく安い。コーヒーのお代わりも無料だ。

食事が終わって、4階待合所に戻る。

歳とった人は夫婦づれが多く、みなそれなりに付き添いが必要のようだ。

私は一人で充分なのだが、いつも家内が付いてきてくれる。

 

診察室前の待合に座ると、前に私より少し歳上、80歳くらいの男性二人が談笑していた。

めずらしい組み合わせだ。

一人は体格がよくてしゃれた身なり、もう一人は少し小柄でタレント蛭子氏に似た風貌。

おしゃれな方がなにかと連れに声をかけて注意する。

ずいぶん待たされていると見え、看護師さんに “まだかかりますか?”  “あとどれくらいでしょうか?” などと聞いている。 これへの返答がおもしろい。 “はい、それなりに順序どおりすすんでいます”

 

やがて小柄な方が呼ばれて診察室に入って行った。

お互いどちらからともなく会釈する。すると彼は、我々に “いつから来ているのか”と聞いてきた。 “8時半からです。CTなどありましたからね、” と言うと、 “うわぁ、それは大変だ”。

 “お宅はなんで来ておられるのですか” と聞くと、 “いや、ただの付き添いです”。

しかし、小柄な老人も付き添いが必要とはとうてい思えない。

気の合う友人同士なのだろう。

 

小柄な方が戻って来た。“5分もかからへんかった”と苦笑い、

“それでどうだった?”

“風邪らしい、薬を出してくれるようや”

“そうか、まあよかった”。

 “おさきに” とおしゃれな方がにこっと一礼して、二人で帰っていった。

 

それを見ながら家内が云った。「あなたとTさんもまさにあの関係ね」

Tとは同じ産院で生まれ、それ以来の友達だ。

 

 結果良好、心配した肝臓も今のところなんとかセーフ。酒飲みの私にはこれが何より嬉しい。

帰り道、秋の陽光に照らされた並木がきれいだった。

                     

帰ったら、Tから家でとれたという“ゆず”が門の中にほり込まれていた。


〝戦友″真下飛泉とフォレスタ

2016年11月15日 | 雑感

 

“ ここはお国を何百里   離れて遠き満州の  赤い夕陽に照らされて  友は野末の石の下・・・”

真下飛泉の軍歌 “戦友” の碑は、京都、知恩院の北入口に建っている。

1824名の飛泉を追慕する者が昭和2年に建てた。

                            


この歌は、日露戦争に従軍した友人Kたちの父の話をもとに作ったということが、飛泉の遺稿集 「飛泉抄」(夫人の鷹子さん発行)の “戦友” の音符・歌詞のところに載っている。

                       

        

 

1905年(明治38年)、日露戦争末期か直後に作られたものだが、連綿と太平洋戦争まで受け継がれている。

この歌はほとんど反戦歌に近いという点で特異な歌だ。与謝野晶子の“君死にたもうことなかれ”も 日露戦争のころに作られている。

                 

この歌、かつては、BSで〝フォレスタ″がうたっていた。

榛葉樹人氏の朗々とした歌声に家内はいたく感激して、毎月曜日、チャンネルを合わせていたが、番組で聞かれなくなって久しい。

“昨年安保法案が国会で成立した頃から軍歌の類はだんだん聞かれなくなった気がする、単なるぐうぜんかしらね?” と家内は云う。 グループの新しい方向性へのスッテプであるならしかたない。 しかしこの時代の歌を愛する人たちも多い。 とりわけ70歳以上の人間にとって、この変化はさみしい。

                

           


    へその緒

2016年11月14日 | 雑感

 2016年11月14日

今年はじめに母が亡くなった。

葬儀社の人が納棺の折にへその緒を入れるので持って来いと言う。そんな風習があるとは知らなかった。 わたしは自分のへその緒が三姉妹弟と共にお棺におさまり、そしてあの世に行くという現実にとまどった。それはある種原始的な感覚であると同時に、わたし特有の事情でもあった。

が、とにかく母は4人の子供のへその緒に囲まれて、あの世に凱旋していった。

                       

後日、大学の恩師の奥さんにこの話をした。

 奥さんとは50年以上の付き合いだ。優秀な story teller で、90歳のいまでもその話はきわめて面白い。

 へその緒について奥さんは自分の思い出を話しだした。奥さんはどんな話題にもつながる種を出せる引きだしを持っている。

 奥さんは4人きょうだいの末っ子だった。長女一人、男二人。上の三人は極めて優秀でいつも首席だった。それに比べて自分は全くだめで、いつも父から“お前はばかだ、ばかだ”と云われ続けた。たしかに本当だった、自分でもそう思っていた。

 だから、小学校のころ、なぜなのだろうと悩んで悩んで、とうとう母親に“私はどこでひろわれたの?”と訊いた。

 “あのころは橋の下に捨てられていたとか、いろいろ言ったでしょう”と奥さんは私に言う。

するとお母さんは、「上の三人は先妻さんの子、あんただけが私のほんとうの子・・・」と言って、小さな箱に入ったへその緒を持ってきた。

 その小さな“スルメの端切れ”みたいなものを見て、奥さんは“自分はバカだけど、この人のほんとの子供だ”と得心したという。

お母さんの機転だ。

 晩年のお母さんの世話は、奥さんら子供達が交代でした。

わたしは学生のころ先生宅でのお母さんを見たが、にこにこして善男善女の善女そのものだと思った。

 しかし奥さん曰く、“とんでもない、昔から見栄っ張りで愚痴が多くて、父が苦労していた。自分も小さい頃からずいぶん苦労させられた。そして痴呆が出てきてからは脱走を繰り返して皆を困らせて、最後足を折ってくれたから助かった。“とあっけらかんと言う。

 しかし、その話し方には愛情がこもっていた。

奥さんがあの世に行けば、この厄介なお母さんと出会って、また苦労をかけられながら仲良く暮らすのだろう。


東京オリンピック52年前

2016年11月13日 | 雑感

 昨年夏、京都工芸繊維大学美術工芸館で展覧会があった。

5年ほど前から始まった京都・大学ミュージアム連携”の展覧会シリーズの一つだ。

 歴代のオリンピックポスターも展示されていた。

 

                                 

 

                            

最初の二つの写真は、東京オリンピック(1964年)のポスターだ。

 

 マラソンではアベベがローマ大会に引き続き、哲学的な顔でひたひたと走り勝ち、円谷幸吉が最後にイギリスのヒートリーに追い抜かれた劇的なシーンがあった。

 黒い弾丸“ボブ・ヘイズが10秒0で100メートルを制した。

 

あの頃日本は希望に燃えていた、そしてあのオリンピックはすばらしかったと私は思う。

 “開会式がよかったわね…、美しい、ということばがぴったり”、とポスターを見ながら家内が云う。

 もっとも彼女は、日本でのオリンピック開催は時期早と反対派だったらしい。

 

聖火台に点火したのは坂井義則さん、シンプルで荘厳な開会式だった。自衛隊のジェット機が五輪の輪を青空に描いた。

 

 1984年のロス五輪から開会式がどんどん派手になってきたが、どこまで趣向を凝らすのか際限がなくて見ていてうんざりする。      シンプル イズ ベスト。

  

“おもてなし”をキャッチフレーズに始まったなにかと話題の多い今度の東京オリンピック、いったいどうなることやら。

最初の国立競技場デザインでの躓き、エンブレムの問題、膨れ上がる費用、その他、その他。

 胡散臭さは重なり重なって、ばかばかしい狂想曲が鳴り響く。

  

リオオリンピックでの日本チームの400メートル銀メダルはよかった、ボルトもよかったが、

私個人としては心を躍らすものがない今の薬漬けのオリンピックにもう関心はない。

 

 〝美しくて、まことで、かなしいひびき“(川端康成)と云われる遺書を残して命を絶った円谷の写真が京都達磨寺にある。

                                   


 


年寄りの遊びー穀つぶしのひまつぶしー

2016年11月10日 | 雑感

  

2年前の1月のある日、Mからメールが入った。

 腰痛でテニスもなにもできないから1区間切符で琵琶湖を一周してくるという。

 今回はたった3時間程度のコースだ。

 それだったら行こう。

これにもう一人、Tがテニスの練習をやめにして話に乗ってきた。

 MもTも高校からの友達だ。

  

Mと私は以前からJR線の1区間切符で京都→大阪→和歌山→奈良→滋賀→京都の旅をやろうと話をしていた。

1区間切符の旅は合法的なもので、沢山の人がやっているという。

ただし、京都から出発では関西領域線内ということが条件で、福井県にまでは入れない。

 Mはその緻密な性格から、すべてのダイヤを調べて計画を立てた。しかし13時間近くかかる長旅に、私が躊躇したものだから、それは計画倒れとなった。


さて、今回のトライアルだ。

京都駅2番乗り場にそれぞれ弁当・ビールを持参して集合。

湖西線敦賀行11時45分発の快速敦賀行に乗り込んで出発。

 

                                          

行きは近江塩津まで、帰りは北陸線で米原まで来て東海道線と合流する。

                     

                      

 列車は比良山系にさしかかる。

雪の比良が美しい。 右手は琵琶湖だ。

遠くに雪をかぶった伊吹山が見える。

 

Tが言うに、「このまま敦賀まで行ったらどうや」

M、「そんなことしたら、そこまでの運賃をはらわんとあかん」

「そんなもん、敦賀駅から出んと戻ってきたらばれへん」

Mにとっては、Tの云うごまかしは論外だ。

”それやったらキセルになる”、この旅の目的が違う。

“これはゲームであって、合法的な中で、どれだけのことができるか” ということがMの云わんとするところだ。

 

同じ道を往復するのは乗車規則違反だ。たとえば、一区間券を買って京都から大阪まで行き、外に出ずに京都に帰ってくるのと同じで、それは乗っていないことになって不法行為だ。

近江今津13時01分着、そして同じホーム4番に待機していた列車に4分後に乗り込み、帰途につく。せわしい。

 乗り込んで、すぐに食事開始。

アルコールが入っていろいろと話がはずむ。

14時33分大津に到着。 一区間の旅は実質ここで終わる。

なぜなら、京都駅に戻るためには、往きに通過した京都と山科間を通らなければならないからだ。

 

大津から京都までの切符(190円)を買って再び乗り込む(最後の写真)。

そして京都着。

 

“190円で琵琶湖一周”は正確にはそうではない。

京都に帰ってくるために、さらに190円出さねばならないから、合計380円になる。

もしまともに近江塩津まで行って、一旦外に出て京都に帰ってくるとすれば、3000円ほどかかるようだ。

 

退職して久しく、生産性ゼロの我々3人は、“穀つぶし”

“穀つぶし3人の暇つぶし”といえようか。