港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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『5月10日』その1

2019-05-09 14:13:08 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆アナトール・リトヴァク Anatole Litvak (1902.5.10~1974.12.15)



ロシア生まれの多国籍映画作家で、情感を重視した重厚な作品群を撮り続けた映画監督です。
ユダヤ人で銀行家の父親のもとに帝政ロシアのキエフで生まれました。14歳の時にペトログラード(レニングラード)に移り
1923年に劇団で俳優兼助手となり、同年にドイツに渡りアレキサンダー・ヴォルコフの助監督などをつとめた後、1930年に
"Dolly macht Karriere" を初監督、『女人禁制』など二本の作品を監督しましたが、1933年にナチス政権が誕生したことにより
パリに亡命しました。そこで1935年に『最後の戦闘機』、1936年『うたかたの戀』などの佳作を発表しましたが、戦雲が
怪しくなりアメリカに脱出、第二次大戦中はハリウッドで時局映画などを制作しました。
戦後はハリウッドでスリラーなどを撮っていましたが、60年代はアメリカ資本ながらもヨーロッパに撮影の本拠を構えて
欧風色の濃い作品を撮り続けました。

【主要監督作品】
1931年『女人禁制』 Nie wieder Liebe
1935年『最後の戦闘機』  L' Équipage

1936年『うたかたの戀』  Mayerling

1940年『凡てこの世も天国も』 All This, and Heaven Too
1948年『私は殺される』 Sorry, Wrong Number 
1948年『蛇の穴』 The Snake Pit

1951年『暁前の決断』 Decision Before Dawn
1955年『愛情は深い海の如く』 The Deep Blue Sea
1956年『追想』 Anastasia

1961年『さよならをもう一度』 Goodbye Again

1962年『真夜中へ五哩』 Le couteau dans la plaie

1963年『将軍たちの夜』 The Night of the Generals 


☆クラレンス・ブラウン Clarence Brown (1890.5.10~1987.8.17)



ロマン派を継承する美しい画調でサイレント時代からMGMの大監督と呼ばれたハリウッドの映画作家です。
マサチューセッツ州クリントンシティに生まれ、テネシーのノックスヴィル大学卒業後に第一次大戦が勃発し飛行士として
従軍しました。帰還後は自動車会社の技術者、自動車会社の経営者となりましたが、映画好きでたまらなかったため、総てを
投げ出して1915年にハリウッドへ行き当時ロマン派の総帥と呼ばれていたモーリス・トゥールヌールの門を叩いて助監督と
なりました。1920年にはモーリス・トゥールヌールとの共同による『モヒカン族の最後』で監督となり、この作品によって
以後の作品群にみられる美しい画調をトゥールヌールから学び取ったといわれています。
一本立ちとなって1924年にMGMと契約し、1924年の『燻ゆる情炎』で高評価を得た後、売り出し中のグレタ・ガルボを
迎えて1926年に『肉体と悪魔』を監督、「MGMにC.Bあり」といわれる大監督へと昇っていきました。
その後もガルボ主演作品などで活躍しましたが、ガルボ作品としてはルビッチ、キューカー、マムウリアンなどに比べると
映画としての評価は高くなかったようです。
しかし、興行的には安定した集客力があり、堅実な創作への情熱によって大御所として30年間MGMに君臨しました。

【主要監督作品】
1920年『モヒカン族の最後』 The Last of Mohicans

1924年『燻ゆる情炎』 Smouldering Fires

1926年『肉体と悪魔』 Flesh and the Devil

1928年『恋多き女』 A Woman of Affairs
1930年『アンナ・クリスティ』 Anna Christie

1933年『夜間飛行』 Night Flight
1935年『アンナ・カレニナ』 Anna Karenina

1936年『妻と女秘書』 Wife vs. Secretary
1937年『征服』 Conquest
1943年『町の人気者』The Human Comedy

1944年『ドーヴァーの白い崖』 The White Cliffs of Dover
1945年『緑園の天使』 National Velvet
1946年『仔鹿物語』 The Yearling

1947年『愛の調べ』 Song of Love


☆アルフレード・ワイデンマン Alfred Weidemann (1916.5.10~2000.6.09)



独軍のプロパガンダ映画出身で、戦後は劇的構成で実在人物を描いた映画監督です。
シュツットガルトに生まれ、芸術短期大学を経てドイツの名門誌『ベルリーナ・イルストリールテ・ツァイツング』の通信員を
務めた後にドイツ軍の宣伝部門で広報と映画部門の部門長を務め、1935年には脚本家兼監督としてヒトラーの宣伝映画を製作、
1943年にはプロパガンダの長編映画である "Junge Adler" を監督しました。
1945年のベルリン陥落でソ連軍の捕虜となり解放された後は児童書などを執筆していましたが、1953年頃から映画界に復帰して
1954年にはカナリス将軍を描いた『誰が祖国を売ったか?』、1957年には対米軍機撃墜記録を持つマルセーユを主人公とした
『撃墜王アフリカの星』を監督、実在人物を素材にして劇的構成で描く映画作家として話題をまきました。
しかし、1958年のロミー・シュナイダー主演の "Scampolo" (スカンポロ) 以降はB級娯楽映画に専念、1970年代に入るとTV
ディレクターに転身してしまいました。

【主要監督作品】
1956年『誰が祖国を売ったか?』Bumerang
1957年『撃墜王アフリカの星』Der Stern von Afrika

1959年『裏切り』Bumerang
1963年『女と男のある限り』Das Grobe Liebesspiel

1965年『ヴィエナ超特急』Secret Agent 11011 Our Man in Vienna



『5月10日』その2

2019-05-09 14:03:14 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆マリナ・ヴラデイ Marina Vlady (1938.5.10~ )



エキゾチックで清楚な美しさと妖艶さを兼ね備えたフランスのバイリンガル女優です。
父親はロシア生まれのスラブ系人の画家で、4人姉妹の末っ子に生まれました。(その後4人姉妹はともに女優)
幼いころからバレエの訓練を受けプリマになることを期待されていました。少女時代には姉のオディール・ヴェルソワと
一緒にオペラ座の踊り子として舞台に立ちました。そんな時、オディールが一足先に映画デビューを果たしたため、その
影響を受けて女優の道を選ぶことになりました。
チャンスはすぐに巡ってきて、1949年、11歳のときにヴェルソワと共に『夏の雷雨』に出演し映画デビューを果たしました。
さらに1954年にアンドレ・カイヤット監督の話題作『洪水の前』で斬新な娘役リリアヌを演じ、もの憂い表情と見事な金髪で
爆発的な人気を得て一躍スターの座に昇りました。
1956年には『野性の誘惑』において、野性的でアンニュイなムードと、はちきれるような肢体で若い世代にアピールしました。
同年にはロベール・オッセンと結婚、同監督の『悪者は地獄へ行け』で復讐心に燃えるファム・ファタールを演じて人気は
さらに増し、1960年の『飾り窓の女』でゾクゾクするほど妖艶なムードの美しい娼婦役をこなしました。
1963年のマルコ・フェラーリ監督の『女王蜂』以降は、出演映画を選ぶようになり、1970年代には映画よりもTVドラマに
活躍の場を求めました。

【主要出演作品】
1949年『夏の雷雨』Orage d’été (右は姉のオディール・ヴェルソワ)

1954年『洪水の前』 Avant le déluge

1954年『恋愛時代』Giorni d'amore

1956年『野性の誘惑』La Sorciere

1955年『悪者は地獄へ行け』 Les Salauds vont en Enfer

1956年『不良の掟』 Pardonnez nos Offenses
1956年『罪と罰』 Crime et châtiment
1959年『悪党ども』Les Canailles
1960年『飾り窓の女』La Fille dans la Vitrine

1961年『クレーヴの奥方』 La Princesse de Clèves
1962年『新7つの大罪 』Una Moglie Americanax
1963年『女王蜂』 L'Ape Regina 

1963年『黒い情事』 Les Bonnes Causes
1964年『輪舞』La Ronde
1965年『甘い大陸』Una Moglie Americana
1966年『彼女について私が知っている二、三の事柄 2 Ou 3』 Choses Que Je Sais D'Elle 
1970年『哀愁のパリ』Sapho


☆マリー・フランス・ピジェ Marie-France Pisier (1944.5.10~2011.4.24)



トリュフォー監督の映画『二十歳の恋』に清純なイメージで銀幕に現れたフランスの女優です。
当時フランス領インドシナの植民地高官の父親の赴任先ベトナム・ダラットで生れました。
第二次世界大戦で日本がインドシナを支配したとき家族は半年間にわたって強制収容所生活をしたという話もありますが
定かではありません。戦後、一旦フランスに帰国しましたが、父親の赴任先のニューカレドニア・ヌメアので育ち、12歳の
ときに母親と妹と一緒にニースに戻りました。1960年代初頭にニース大学で法律と政治学を学びながらアマチュア劇団に
在籍していたときにフランソワ・トリュフォー監督の目にとまり、映画『二十歳の恋・パリ編』で主役のコレットを演じて
一躍注目を集めました。その後も女優として活動していますが、日本での公開作品は多くありません。
近年までTVや映画を中心に活躍していましたが、別荘のプールで原因不明の溺死事故でこの世を去っています。

【主要出演作品】
1962年『二十歳の恋』 L'amour à vingt ans

1964年『殺人者に墓はない』 La mort d'un tueur 
1968年『うたかたの日々』 L'écume des jours
1968年『夜霧の恋人たち』 Baisers volés


☆フレッド・アステア Fred Astaire (1899.5.10~1987.6.22)



ジンジャー・ロジャースとの黄金コンビでミュージカル映画全盛期に輝いたダンサー、歌手、映画俳優です。
ネブラスカ州オマハ生まれで、5歳の時に姉のアデールと共にダンス学校に入り、その二年後にはプロ・ダンサーとして母と
姉に連れられて全米を巡業、1916年にはブロードウェイに進出し、舞台『バンド・ワゴン』で名をあげました。ところが
姉のアデールが結婚して芸能界から引退したため、舞台から映画界への転進を決意します。
1933年にMGM映画『ダンシング・レディ』へのゲスト出演し、次ぐ『空中レヴュー時代』ではジンジャー・ロジャースと
コンビを結んで華麗なダンスを披露し、主役のドロレス・デル・リオとジーン・レイモンドのコンビを食うほどの人気を得て
脚光を浴びました。1934年『コンチネンタル』以降の作品群で人気はさらに大沸騰し、アステア・ロジャースのコンビは、
映画史上最高のダンシング・ペアとされドル箱スターとなりました。
しかし、1950年代後半になるとミュージカル映画も下火になり、体力の限界に襲われはじめたため、繰り返して引退を表明し、
1959年の『渚にて』では傍役に徹するなど、徐々に映画から身を引いていきました。

【主要出演作品】
1933年『ダンシング・レディ』 Dancing Lady
1933年『空中レヴュー時代』 Flying Down to Rio
1934年『コンチネンタル』 The Gay Divorcee
1935年『トップ・ハット』Top Hat
1935年『ロバータ』Roberta 

1936年『有頂天時代』 Swing Time

1940年『踊るニュウ・ヨーク』 Broadway Melody of 1940

1942年『スイング・ホテル』 Holiday Inn
1946年『ジーグフェルド・フォリーズ』 Ziegfeld Follies
1948年『イースター・パレード』 Easter Parade
1953年『バンド・ワゴン』The Band Wagon
1955年『足ながおじさん』 Daddy Long Legs

1957年『パリの恋人』Funny Face
1957年『絹の靴下』Silk Stockings

1959年『渚にて』 On the Beach
1962年『悪名高き女』 The Notorious Landlady
1974年『タワーリング・インフェルノ』Towering Inferno


『5月10日』その3

2019-05-09 13:53:16 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ロベルト・フィルポ Roberto Firpo (1884.5.10~1969.6.14)


ピアニスト及び楽団指揮者で、アルゼンチン・タンゴ創生期を支えた最大の功労者です。
ブエノスアイレス州のフローレス地区に生まれ、17歳の時にブエノスアイレスに出て働きながら音楽を学びました。やがて
アルフレド・ベビラクア(インデペンデンシアの作曲者)の門を叩きピアニストとして腕を磨き、1906年にトリオを結成して
カフェ・アンセンにてプロ・デビューを果たしました。
この頃はまだタンゴは創生期でもあり、音楽としての方向性も定まっておりませんでした。街角の路上でも演奏して踊れる
音楽であったため、基本的にはヴァイオリン、バンドネオン、ギター、フルートなど持ち運び可能な楽器でなければならず
持ち運びができないピアノはタンゴの基本楽器ではありませんでした。フィルポは室内演奏を目的としてピアノを取り入れて
いわゆるティピカによる楽器構成(Orquestatípica)を創作、これ以後ピアノはタンゴになくてはならない存在となりました。
やがて1910年にタンゴの四大描写曲として知られる『夜明け』の作曲、1914年には『アルマ・デ・ボエミオ』の作曲して
古典的なタンゴ音楽の革新者となりました。
1916年にモンテビデオに巡業公演したときに、地元の青年マトス・ロドリゲスが作曲した『ラ・クンパルシータ』を編曲、
第二パートしかなかった原曲に第三パートを付け加えるとともに第一パートに裏旋律を加える大胆なアレンジでこの曲を
初演し、世界に知られる名曲となりました。
1936年には名バンドネオン奏者のファン・カンバレリを擁して四重奏団を組織し、あくまでも古典スタイルにこだわり、
1959年に引退するまでタンゴの伝統主義者の中で最も保守的なマエストロとして大きな影響を与え続けました。
また、作曲家としては1916年のエドゥアルド・アローラスとの合作『花火』(これもタンゴの四大描写曲のひとつ)をはじめ
生涯で約40曲を作曲しています。

↓はロベルト・フィルポ楽団の『夜明け』 【YOUTUBEより】


↓はロベルト・フィルポ楽団の『花火』 【YOUTUBEより】


↓はロベルト・フィルポ楽団の『ラ・クンパルシータ』 【YOUTUBEより】



☆ディミトリー・ティオムキン Dimitri Tiomkin (1894.5.10~1979.11.11)



ロシア生まれながら、アメリカ人よりもアメリカ人らしいと呼ばれたハリウッドの映画音楽家です。
ユダヤ人家族のもとに帝政ロシアのウクライナ・クレメンチュークで生まれ、幼いころから母親にピアノの指導を受け、
サンクト・ペテルブルク音楽院でクラシック音楽の基礎を学びました。その後、ロシア革命が起こったためドイツに渡り、
そこでベルリン・フィルのピアニストとして公演デビューを果たしました。1927、1930年に二度にわたってアメリカ公演に
参加していましたが、1937年に腕を骨折してピアニストとしての夢を絶たれてしまいまた。失意のどん底に落ち込みましたが
以前のアメリカ公演にMGMから誘いを受けていたこともあり、心機一転してハリウッドに渡る決意を固めました。
1937年の『失はれた地平線』が高評価を得るとその後もクラシック音楽に基づいた映画音楽を作曲し続け、当初は欧風音楽の
伝統に影響されていましたが徐々にアメリカナイズドされ、『真昼の決闘』『ジャイアンツ』『OK牧場の決斗』『アラモ』
などの作品を重ねるにつれて顕著に現れてゆき、ついにはアメリカ人よりもアメリカ人らしいアメリカの映画音楽家と呼ばれる
ようになりました。

【主要映画音楽作品】
1937年『失はれた地平線』  Lost Horizon
1938年『グレート・ワルツ』 The Great Waltz
1939年『コンドル』Only Angels Have Wings
1942年『疑惑の影』Shadow of a Doubt
1946年『白昼の決闘』Duel in the Sun
1948年『赤い河』 Red River 
1949年『チャンピオン』Champion
1952年『真昼の決闘』 High Noon【YOUTUBEより】

1956年『ジャイアンツ』Giant【YOUTUBEより】

1956年『友情ある説得』Friendly Persuasion
1957年『OK牧場の決斗』Gunfight at the O.K. Corral 【YOUTUBEより】

1958年『老人と海』The Old Man and the Sea
1959年『リオ・ブラボー』Rio Bravo【YOUTUBEより】

1960年『アラモ』The Alamo
1961年『ナバロンの要塞』The Guns of Navarone 【YOUTUBEより】

1961年『非情の町』Town Without Pity
1963年『北京の55日』55 Days at Peking 【YOUTUBEより】

1964年『ローマ帝国の滅亡』The Fall of the Roman Empire

映画ではありませんが、TVシリーズ『ローハイド』も彼の作曲によるものです。【YOUTUBEより】



☆マックス・スタイナー Max Steiner (1888.5.10~1971.12.28)



百編を悠に超えるスコアを書き上げてハリウッドに君臨した映画音楽の巨匠です。
オーストリア系のユダヤ人の家系の子息としてウィーンで生まれました。ウィーン帝室音楽院でグスタフ・マーラーの教えを
受け、14歳の時にオペラ『美しいギリシア娘』を作曲し指揮するまでになりました。
ロンドンやパリで指揮者として招待されていましたが、1914年にアメリカに渡りブロードウェイの編曲や指揮を手がけ、
トーキー時代に入った1929年にRKOから映画『リオ・リタ』の音楽を担当するためにハリウッドに進出します。
その後、RKOで『若草物語』『キングコング』などを手がけた後にワーナーの音楽部長に就任、ワーナーの大作はほとんど
マックス・スタイナーの総指揮によるものです。(ただし、一時的にデヴィッド・O・セルズニックに頼まれてリパブリック
やMGMなどでも映画音楽を担当)
彼はメロディー・メーカーではありませんが、映画の内容、進行に沿うように作曲しており、特に映画のクライマックスを
オーケストラでさらに盛り上げる技は名人芸でありました。

【主要映画音楽作品】
1929年『リオ・リタ』Rio Rita
1931年『シマロン』 Cimarron
1933年『若草物語』 Little Women
1933年『空中レヴュー時代』
1933年『キングコング』 King Kong
1934年『痴人の愛』 Of Human Bondage
1937年『スタア誕生』 A Star Is Born
1939年『愛の勝利』 Dark Victory
1939年『風と共に去りぬ』 Gone with the Wind【YOUTUBEより】

1942年『カサブランカ』 Casablanca
1948年『黄金』 The Treasure of the Sierra Madre
1956年『トロイのヘレン』 Helen of Troy
1959年『避暑地の出来事』 A Summer Place【YOUTUBEより】

1959年『縛り首の木』 The Hanging Tree
1960年『二十歳の火遊び』 Parrish【YOUTUBEより】

1962年『恋愛専科』Lovers Must Learn
1961年『スペンサーの山』 Spencer's Mountain


【ご命日】

★イヴ・ロベール Yves Robert (1920.6.19~2002.5.10)



ユーモアと風刺と効かせた作品で独特の存在感を示したフランスの映画監督、俳優。
主な監督作品として『わんぱく戦争』『わんぱく旋風』『ぐうたらバンザイ!』などがある。


★ジョーン・クロフォード Joan Crawford (1905.3.23~1977.5.10)



サイレント時代にフラッパー女優として一時代を築いたハリウッド女優。
主な出演作品として『ローズ・マリー』『グランド・ホテル』『雨』『大砂塵』『何がジェーンに起ったか?』などがある。