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『甘い生活』 旅の友・シネマ編 (6) 

2018-07-01 19:44:25 | 旅の友・シネマ編



『甘い生活』 La Dolce Vita (伊)
1960年制作、1960年公開 配給:イタリフィルム モノクロ
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネリ、ブルネロ・ロンディ
撮影 オテロ・マルテリ
音楽 ニーノ・ロ-タ
主演 マルチェロ … マルチェロ・マストロヤンニ
    シルヴィア … アニタ・エクバーグ
    マッダレーナ … アヌーク・エーメ
    スタイナー … アラン・キュニー
    ロベルト … レックス・バーカー
    エンマ … イヴォンヌ・フルノー
    ファニー … マガリ・ノエル
    ナディア … ナディア・グレイ
    パオラ … ヴァレリア・チャンゴッティーニ
    パパラッツオ … ワルテル・サンテッソ
主題歌 『甘い生活』 ( La Dolce Vita ) 演奏・サウンドトラック
挿入歌 『パトリシア』 ( Patricia ) 演奏・ペレス・プラード楽団

作家志望のマルチェロは夢を抱いてローマに来たが志破れて今ではゴシップジャーナリストである。大富豪の娘
マッダレーナと一夜を共にしたり、ハリウッド女優のシルヴィアとトレヴィの泉で戯れたりの空虚な生活が続く。
同棲しているエンマが自殺を図るが後悔の気持ちも長くは続かない。マルチェロは友人のスタイナーの華麗な
生活を羨ましく思っていたがスタイナーは子供を連れて無理心中してしまい残された夢も消えてしまった。
ある夜海辺の邸宅で乱痴気パーティーが繰り広げられマルチェロもその狂乱の輪に入り込む。夜が明けて
連中と共に海に出るがそこに打ち上げられて腐敗した怪魚は彼等そのものの姿であった。その対岸から清純な少女
パオラがマルチェロに何かを叫んでいるが聞き取れない。マルチェロは少女の忠告に背を向けて別荘に戻っていった。



まず、この作品も前出の『8 1/2』と同様にストーリーを観る映画ではありません。主人公の視点で象徴的な表現を
加えながら日常を出来事を脈絡なく繋いでいる起承転結のないドラマです。
この映画でフェリーニは目的を失った上流社会人、マスコミの愚劣さ、形式ばかりの宗教、激しい貧富の差など、
経済高度成長の影で退廃し果てた大都会ローマの裏面の病根を鋭い視線によって現実の空虚さを描いています。




当時のイタリアは戦後の目覚ましい経済成長の真っ只中で、退廃的な世を自覚しながらもそこから抜け出せない人々の
魂の迷いはラストシーンにおいて見事に表現されています。
遥か対岸から少女パオラが何かを叫んでいる、それを聞き取れずに少女に背を向けて別荘に戻るマルチェロ。
魂の救済を求めながらも挫折する人間の弱さを痛烈に表現しながらも、明日への希望を捨てさせないラストです。

映画『甘い生活』のラストシーン 【YOUTUBE】より



この作品も強烈な訴えを映像で見事なまでに表現しており、まさに映画の本質は映像表現そのものでした。
ただ、これだけびっしりと詰め込まれた三時間は観る側にとってはかなり厳しい上映時間でした。
フェリーニの映画作法に興味のない方にとっては地獄の三時間だったかもしれません。

  *****

大ヒットにはなりませんでしたが、この主題歌も映画とともにとても印象的でした。

映画『甘い生活』より サウンド・トラック(ニーノ・ロータ楽団) 【YOUTUBE】より



個人的にはサントラ盤よりもファウスト・パペッテイ楽団がお気に入りです。

映画『甘い生活』より ファウスト・パペッテイ楽団 【YOUTUBE】より



『嘆きのテレーズ』旅の友・シネマ編 (5)

2018-06-27 22:27:40 | 旅の友・シネマ編



『嘆きのテレーズ』 Therese Raquin (仏)
1952年制作、1954年公開 配給:新外映 モノクロ
監督 マルセル・カルネ
脚本 シャルル・スパーク、マルセル・カルネ
撮影 ロジェ・ユベール
音楽 モーリス・ティリエ
原作 エミール・ゾラ 「テレーズ・ラカン」
主演 テレーズ … シモーヌ・シニョレ
    ローラン … ラフ・ヴァローネ
    ラカン夫人 … シルヴィー
    カミーユ … ジャク・デュビイ
    元水兵 … ローラン・ルザッフル
    ジョルジェット … マリア・ピア・カジリオ



身寄りのないテレーズは生地店のラカン夫人に引き取られ夫人の息子カミイユと愛のない結婚生活を送っていた。ある日、
トラック運転手のローランが深酔いしたカミイユを店に送り届けたことでローランはラカンの生地店に出入りするようになる。
病弱で遊び好きなカミイユに大きな不満を抱いていたテレーズは必然のごとくローランと恋におちる。ローランとテレーズは
カミイユに不倫の真相を告げて離婚を承諾させようとしたが、テレーズを家政婦のように利用していたカミイユはそれを拒み
テレーズを一時的にパリの親類に幽閉しようと企んで、テレーズとともにパリ行きの夜行列車に乗り込む。しかし、不穏な
雰囲気を察知したローランはなんとか列車に追いつきカミイユがまどろんでいる間にテレーズを列車のデッキに誘い出した。
だがその密会現場にカミイユが現れ、小競り合いとなりローランはカミイユをデッキから突落してしまった。
警察は殺人と事故死の両面で捜査したが目撃者もなく事故死として処理されたが、ラカン夫人は息子が死んだショックで
脳卒中を引き起こし口もきけない全身不髄になってしまった。しかし夫人の目はテレーズを疑うように毎日厳しく睨み続ける。
事件も一件落着かと思われたが、その当夜にテレーズたちと列車で同室だった復員水兵が生地店に現れ、当日見たことを
ネタにしてローランとテレーズをゆすり口止め料を要求、二人もこれに応じるしかなかった。取引の日、復員水兵は身の安全の
ために真相を書き記した手紙を宿泊先のホテルの女中に托し、自分が五時までに戻らなかったら手紙を投函するようにと頼む。
取引が成立し金を受け取った復員水兵が店を立ち去ろうとしたとき暴走してきたトラックに轢かれて息を引き取ってしまった。
やがて五時の鐘が鳴り、あどけなさを残した女中はポストへと向かい、郵便夫の集配袋にその手紙を入れる。



戦前・戦後にかけてルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャック・フエデー、ジャン・ルノワールと共にフランスの
映画界を支えたマルセル・カルネ監督の代表的傑作です。
マルセル・カルネは運命の皮肉をテーマにしたいわゆる知的ペシミズムに強烈な心理リアリズムを融合させる作風なのですが
この作品においては以前のカルネに見受けられていたペシミズムの中に垣間見えていたロマンチシズムを完全に押し殺し、
冷ややかで突きっぱなしたリアリズムによって感傷のかけらすら見せておらず、人間の煩悩と運命の深渕を簡潔に描きあげ、
全編鋭さで貫かれた運命的心理サスペンスの傑作に仕上げています。
この原作はエミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」なのですが、筋書きに大きな変更を加えて、現代風にドラマティックな側面を
持たせるため原作になかった復員水兵を登場させてサスペンスとしての深みを強調し、原作とは全く違った意外なラストに
至るまで強烈な緊張感を持続させています。




*****

1930年当初、トーキーの出現をきっかけに映画に真の芸術を求める動きが鈍り、音を得たことによってハリウッドではさらなる
商業主義が加速する一方、ヨーロッパ映画は芸術と興行の折り合いを求めることになり、芸術の香りのするリアリズム劇映画が
誕生してヨーロッパ映画の主流となっていきました。
この『嘆きのテレーズ』はそういった背景の経緯から作られた最高傑作の一つでもありましょう。


『情事』 旅の友・シネマ編 (4) 

2018-06-22 17:31:25 | 旅の友・シネマ編



『情事』 L' Avventura (伊)
1960年制作、1962年公開 配給:イタリフィルム モノクロ
監督 ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本 ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ
撮影 アルド・スカヴァルダ
音楽 ジョヴァンニ・フスコ
主演 クラウディア … モニカ・ヴィッティ
    サンドロ … ガブリエレ・フェルゼッティ
    アンナ … レア・マッサリ
主題歌 『トラスト・ミー』 ( Trust me ) 演奏・サウンド・トラック (ジョヴァンニ・フスコ楽団)



若い建築家のサンドロは上流階級の娘アンナと結婚の約束はしているもののすでに二人の愛は倦怠にむしばまれていた。
ある夏、二人は仲間数人とシチリア島の近くにあるエオリエ群島へヨット旅行に出かけたが突然アンナが姿をくらました。
サンドロはこの旅行に同行していたクラウディアとアンナを捜している間に深い仲になる。警察もアンナの捜査を打ち切り、
友人たちがシシリーに戻った頃には誰もアンナの事件を口にしなくなっていた。ある夜、クラウディアはサンドロが見知らぬ
女と抱き合っている現場を目撃する。二人は底知れぬ虚無感に包まれてエトナの夜明けを迎える。



この作品は知的ネオリアリズムの鬼才といわれたアントニオーニ監督による『太陽はひとりぼっち』、『夜』と共に愛の不毛
三部作と称されていてその中でも最高傑作と呼ばれています。
物語の筋はというと、無人島の見物に出かけた一行のひとりの女性が突然姿を消し、一組の男女がその行方を探し回る…
ただ、それだけだで起承はあっても転結がなく、物語性は全くありません。アントニオーニはこの作品によって映画は物語を
見せるものではなく、登場人物の心理を映像表現する映画へと進化させていきました。
感情を映像で表現するという作風は知的リアリズムと称されます。その論理をもってすれば下手なストーリーは不要なのです。
ストーリーがあれば観客はその進展に気を取られすぎて逆効果となって映画の本質を見失ってしまいます。
アントニオーニは説明を一切せずに、心のつながりを失って孤立し漂流する現代人の不安と孤独や癒しきれぬ真実の愛への
渇きを、背後に広がる無人の冷淡な風景を多用しながら、表向きでは繋がっている男女も実際は互いに隔絶し冷たい浮遊の
個にすぎないという愛の不毛を映像で表現、追随を許さない独自の映像芸術を確立しています。
ラストシーンは冷ややかなカメラが二人を傍観するように冷酷に締めくくられていて、まさに映像美学と映像表現の教科書、
映画の本質は映像表現という言葉がぴったりの作品でした。



今や映画はストーリー中心の劇映画が本流で、興業的に成功するためには、起承転結の筋書きドラマという制約が伴います。
劇映画という前提で作品を見ると「何だこの映画は!!」、「失踪した女はどうなったんだ!!」で終わってしまうでしょう。
普通に物語を追って映画を観ている人にとっては物語の転結を説明してもらわないと納得できないでしょうね。
残念なことに巷ではアントニオーニ作品は難解だといわれています。映画を筋書きのあるドラマだと決めつけてこの作品を
見ると難解にしか見えないでしょう。
この映画が難解にしか思えないということは映画に臨む自己勝手な思い込みに起因するのかもしれません。
素直な心で映像に向き合っていただければアントニオーニ作品がなぜ高評価されているのかという理由が
チョットだけでも分かるのではないかと…

  *****

大ヒットにはなりませんでしたが、この主題歌も映画とともにとても印象的でした。

映画『情事』より サウンド・トラック(ジョヴァンニ・フスコ楽団)による『トラスト・ミー』 【YOUTUBE】より


映画『情事』より ファウスト・パペッテイ楽団による『トラスト・ミー』 【YOUTUBE】より


パペッテイ楽団の邦題は『情事のテーマ』でリリースされていました。



  *****


高校一年の終わりごろにこの作品を観たのですが、これまでの映画の概念が破壊されてしまうほどの衝撃でした。



『処女の泉』 旅の友・シネマ編 (3) 

2018-06-13 23:20:34 | 旅の友・シネマ編



『処女の泉』 Jungfrauskallen (瑞)
1960年制作、1961年公開 配給:昭映フィルム モノクロ
監督 イングマール・ベルイマン
脚本 ウラ・イザクソン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
音楽 エリク・ノルドグレン
主演 テーレ … マックス・フォン・シドー
    カリン … ビルギッタ・ペテルソン
    インゲリ … グンネル・リンドブロム
    メレータ … ビルギッタ・ヴァルベルイ

十六世紀の山村の豪農テーレの一人娘カリンは養女インゲリと二人で遠く離れた教会にローソクを捧げに行くことになり
二人は馬に乗って出発した。教会までの道は長く途中で異教徒で身重のインゲリは小川の小屋で待つと言う。カリンは
一人で馬を進めたが道中で少年を含む三人の羊飼いの男に会う。その男たちはカリンを暴行したうえ殴り殺してしまった。
夕刻になりカリンを待つテーレの家にカリンを殺した三人の羊飼いたちが現れ一宿一飯を乞うので彼らを受け入れたが、
男たちががカリンから剥ぎ取った衣服をカリンの母メレータに買ってくれと頼む。テーレはようやく事態を察して三人を
殺してしまう。テーレは片隅に隠れていたインゲリに事のあった場所に案内させた。
テーレはそこで変わり果てたカリンを抱き上げるとその場所から奇跡のように泉が湧き出した。テーレは復讐の罪の償いに
ここに教会を建てると誓うのであった。



中世説話の映画化なのですが、ベルイマン作品の特徴でもある神と人間とのかかわりあいに対する疑念とこれらから
派生する人間不信を北欧独特の神秘主義という視覚的な造形として見事に映像化しています。そしてその純潔清澄な
映像が表現したのは最も暗い人間の根源的な罪であり、絶望的な世界に救いを見出す人間の姿そのものでした。
理不尽な事件にもなぜに神は沈黙されるのかというやり場のない怒り、そのために自分もまた罪を犯したという連鎖。
人間の原罪と、神の不在に向き合うベルイマンの叫びが響きわたる傑作です。
特にモノクロームならではの光と影のコントラストによる映像美が他に類を見ないほどの完璧な出来栄えとなりました。
ベルイマンの【神の沈黙】というテーマは後の『沈黙』『鏡の中にある如く』へと挑戦を続けていくことになります。




『8 1/2』 旅の友・シネマ編 (2) 

2018-06-08 13:19:38 | 旅の友・シネマ編


『8 1/2』 Otto e Mezzo (伊)
1963年制作、1965年公開 配給:東和=ATG モノクロ
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本 フェデリコ・フェリーニ、トゥリオ・ピネリ、エンニオ・フライアーノ、ブルネロ・ロンディ
撮影 ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽 ニーノ・ロータ
主演 グイド … マルチェロ・マストロヤンニ
    クラウディア … クラウディア・カルディナーレ
    ルイザ … アヌーク・エーメ
    カルラ … サンドラ・ミーロ
主題歌 『8 1/2』 ( Otto e Mezzo ) 演奏・サウンド・トラック



映画監督のグイドは新作のクランクインが迫っているが、その構想も準備もできず精神に変調をきたし始めたため
湯冶に出かける。彼を追うように妻のルイザや愛人のカルラが押しかけてきて煩わしいばかりで治療どころではない。
グイドにとって心の拠り所であるクラウディアも儚い夢でしかない。現実を現実として掴みきれない焦燥は少年時代の
郷愁を求めたり自分勝手な妄想することで逃避しようとしたものの映画監督としての現実に戻らざるをえなかった。
そして混乱した自分自身をありのままに受け入れる決意をして、これまでに自分の人生に影響を与えた人たちを
オープンセットに集め、力強い指示を出しながらみんなの輪の中に飛び込んでゆく。



この映画は一人の映画監督を通じて、過去ヘの郷愁、幻想、それに空虚な現実を織り交ぜて魂を失った現代人の
不毛を象徴主義的に映像化、人生の意義を問うフェリーニの自叙伝的作品で、ベルイマン監督の『野いちご』に並ぶ
トーキー芸術映画の頂点を極めた最高傑作です。
冒頭の渋滞した車の中から空に向かって飛び出すシークェンスは主人公グイドの逃避願望が抽象的に映像化、
また、貧しい娼婦のサラギーナにルンバを躍らせるシーンは少年時代の強烈なノスタルジーを込めて描きあげ、
そして妄想の中のハーレムでは抑圧された欲望を心の底で爆発させています。
映画はこれらの断片を現実と平然と同居させながら、自分自身をさらけ出すようにして人間の本音・人生の意味、
そして人間存在の本質を語り掛けています。
ラストシーンではドロドロとした現実の社会の中にあっても人間の真の純真な心を忘れてはならないという決意で
少年時代のグイドの無垢な姿で映画を結んでいます。
フェリーニ自身、「私はこの作品で、一種の混乱の中に自分を失い精神秩序の乱れている映画監督、つまり私自身を
撮りたいと思った。この作品はきわめて切実な告白である」と語っています。

映画『8 1/2』より ラストシーン 【YOUTUBE】より


この作品には意外と多くの台詞がありますが、台詞を一つ一つ理解しながら物語を追おうとするとかえって映画の本質を
見失ってしまいます。やはり、映画の本質は物語ではなく映像表現です。いかにして訴えたいこと(魂の叫び)を、映像で
表現するかに尽きます。ラストシーンは純真な頃への深いノスタルジーそして強烈な魂の叫びそのものでした。
劇中で、プロデューサーが「君の映画は意味の無いエピソードの羅列だ。独りよがりは困る。観客にわかる映画でないと。」
とグイドに語り掛けるシーンがありますが、それに対する無言の回答がこの『8 1/2』に他なりません。

映画『8 1/2』より 『サラギーナのルンバ』 【YOUTUBE】より


主人公のグイド(フェデリコ・フェリーニ監督自身)の少年時代の忘れられない思い出としてこのシークェンスが
強烈なノスタルジーを込めて描かれています。
第二次大戦直後、トーチカで暮らしていた身寄りのない貧しい娼婦のサラギーナは、まだ分別のわきまえもない
少年グイドが初めて接する大人の女性だったのでしょう。
映画でのサラギーナはメタボリックで鬼のような形相をしていますが、きっと厚化粧をしたグラマーな女性で
少年グイドにとってあこがれ的な存在であったのかもしれませんね。

  *****

ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカで口火を切った現実直視型のイタリアン・リアリズムはやがて知的リアリズム
あるいはネオ・ロマンティシズムとしてフェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ピエトロ・ジェルミ、ヴァレリオ・ズルリーニ
たちへと引き継がれていきます。
中でも、ロッセリーニ門下生のフェリーニはイタリアン・リアリズム的描写の真実味を芯に独自の世界を繰り広げました。
冷酷な現実を追求しながらもラストでは未来に希望を…というロマンティシズムとの融合は彼の作品の特徴でもあります。