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『幸福』(しあわせ) 旅の友・シネマ編 (11) 

2018-08-01 17:26:18 | 旅の友・シネマ編



『幸福』 Le Bonheur (仏)
1964年制作、1966年公開 配給:日本ヘラルド カラー
監督 アニュエス・ヴァルダ
脚本 アニュエス・ヴァルダ
撮影 ジャン・ラビエ、クロード・ボーソレイユ
音楽 (モーツアルト)
主演 フランソワ … ジャン・クロード・ドルオー
    テレーズ … クレール・ドルオー
    エミリー … マリー・フランス・ボワイエ
    ジズー … サンドリーヌ・ドルオー
    ピエロ … オリヴィエ・ドルオー



真面目な働き者のフランソワは日曜日には妻のテレーズや二人の子供とピクニックに出かけるのが楽しみであった。
ある日、フランソワは郵便局で窓口のエミリーと出会いお互いに愛し合うようになるが、彼に罪悪感は全くなかった。
フランソワにとっては家庭にいる時は妻子を愛していたし、逆に愛する女性が二人になったことに幸せを感じていた。
そんな中、家族でピクニックに出かけたとき、フランソワは何の罪の意識もなく妻にエミリーのことを告白し、テレーズも
それを受け止めたように見えた。しかし、フランソワが昼寝から目覚めた時にはテレーズは池で溺死していた。
そして季節は秋に移り、エミリーがフランソワの家族として溶け込み何事もなかったかのように新しい幸福が始まっていた。



セーヌ左岸派でヌーヴェルヴァークの旗手の一人でもあるアニュエス・ヴァルダの問題作で、見事な色彩感覚の映像により
日常生活にしのび込んできた波紋の中に真の幸福の姿を問いかけた哲学的な傑作です。
物語というと、妻子ある幸せな家庭の夫が不倫し妻が溺死(事故なのか自殺なのかは不明)、不倫相手の女性が亡くなった妻
と入れ替わって何事もなかったかのように幸せな家庭が再スタートする。そんなアンチモラルな内容のために反発も多かった
ようでが、これは不倫を肯定する作品ではありません。それぞれの幸福を求める愛が生き生きとしています。
この作品を撮るにあたってアニエス・ヴァルダは「幸福」とは儚いものだけれど、そのなかに何か尊く美しいものをもたらしたい
という言葉を寄せています。
人は生きている限り幸福を求めるものであり、いくらその幸福が残酷で罪深いものの上に成り立っていたとしてもそれが時には
悲しく、美しく、虚しく、残酷であることに気づかされるという、まさに日常に潜む狂気でもあります。
一つの家族の日常を綴りながら人生の残酷さを嫌味なくいともあっさりと描き切っています。



何といっても、この作品の最大の魅力は色彩映画としての史上屈指の映像美学でありましょう。
画面はたえず花と緑に彩られていてそれが幸せのシンボルであるかのように映し出され、花、衣装、部屋の壁、町の看板など
計算しつくされた色彩配置によりカメラワークも一層冴えわたっています。
ヴァルダが「印象派の絵画ような映画にしたかった」と述べた言葉のように、調和のとれた印象派絵画に仕上げています。
あのミケランジェロ・アントニオーニが初めての色彩映画『赤い砂漠』を撮るにあたって、主人公の心理状況を具象化するため
あえて不調和の色彩で撮ったのとは真逆でもありました。
左岸派が特に敬意を持っているといわれるジャン・ルノワール監督の『草の上の朝食』を劇中のテレビで放映させたのも、
印象派の絵画にかなり影響されていたものと思えます。



また、カメラの長回しやフォーカス、パン、フェードなどいたるところにも美術写真家としてまたヌーヴェルヴァークの旗手としての
アニエス・ヴァルダの映像処理に関する見どころが満載で、ラストシーンのピクニックに出かけたワゴン車のテールランプの
片方が光らないという演出までもが心憎いです。
逆に自由奔放なヌーヴェル・ヴァーグであるにも拘らず「ピクニックで始まりピクニックで終わる」という映画文法を守っており、
そのことによりラストシーンの残酷さを一層増幅させる結果となっています。





音楽の方は映画主題歌というよりもクラシック音楽で、冒頭のひまわりのタイトルバックに使われたのはモーツァルトの
「アダージョとフーガ・ハ短調K.426」を短くまとめたもので、引き続いてのピクニックのシーンでは同じくモーツァルトの
「クラリネット五重奏曲イ長調 K.581 第1楽章」が使われおり、レコードとしてはこの「クラリネット五重奏曲」が映画主題歌
『幸福のテーマ』としてリリースされています。

『幸福』のタイトルバックおよび『幸福のテーマ』サウンドトラック 【YOUTUBE】より



  *****

ひまわりの映像や画像を見ると、デ・シーカ監督、ソフィアローレンの『ひまわり』を思い起こす方が多いかもしれませんが
私にとってひまわりといえばこの“ Le Bonheur”です。






『禁じられた遊び』旅の友・シネマ編 (10) 

2018-07-26 13:59:03 | 旅の友・シネマ編



『禁じられた遊び』 Jeux Interdits (仏)
1952年制作、1953年公開 配給:東和 モノクロ
監督 ルネ・クレマン
脚本 ジャン・オーランシュ、ピエール・ボスト、ルネ・クレマン
撮影 ロベール・ジュイヤール
音楽 ナルシソ・イエペス
原作 フランソワ・ボワイエ 「木の十字架・鉄の十字架」
主演 ポーレット … ブリジッド・フォッセー
    ミッシェル・ドレ … ジョルジュ・プージュリー
    ドレ家父親 … リュシアン・ユベール
    ドレ家母親 … スザンヌ・クールタル
    ベルテ・ドレ … ロランス・バティ
    ジョルジュ … ジャック・マラン
    フランシス・グーアル … アメデー
    司祭 … ルイ・サンテーブ
主題歌 愛のロマンス (Romance de Amor) ギター演奏・ナルシソ・イエペス



第二次大戦下のフランス、ドイツ軍の機銃掃射で両親が被弾し、戦争孤児になった五歳のポーレットは愛犬の屍を抱いたまま
森の中をさまよっているうちに農民のドレ家の少年ミッシェルに出会いそこに引き取られる。やがてドレ家の家族に可愛がられ
一家に溶け込んでいく。ポーレットはミッシェルに愛犬の屍を土の中に埋めてもらったことからいろんな動物の墓づくりをはじめ、
ミッシェルは墓には十字架が必要だと言って霊柩車や教会から十字架を盗み出し、二人だけのお墓遊びが始まった。しかし、
あちこちの十字架がなくなる不審な事件もミッシェルが犯人だと知れて父親からそのありかを問い詰められるがミシェルは口を
割らなかった。翌朝、ドレ家に憲兵が訪れてミシェルの必死の懇願にもかかわらずポーレットは孤児院に引取られることになる。
ポーレットは混雑する駅の中で「ミッシェル」と叫ぶ声を聞くと、ミッシェルの名前を叫びながら雑踏に呑み込まれていく。



この作品は、戦争孤児になった少女と農家の少年の純心な交情を綴ったフランソワ・ボワイエの原作小説の映画化で、
ルネ・クレマン監督は子供たちの純粋さを通して戦争の悲惨さを訴え、ほのぼのとした農村の牧歌的な雰囲気の中に強烈な
冷酷を秘めることでより一層の悲哀を訴え、反戦映画の金字塔と称される傑作に仕上げました。
特に直接的な戦争シーンを避けて、無垢の少女の眼を通して戦争の悲劇を表現し、詩情豊かに反戦を訴えています。
そしてボーレットの本当の悲劇はこれから始まるという残酷なラストシーンに反戦の意思を集約しています。
絵画的な画面作りのために数多くの複写を取り寄せて光と影による明暗の効果を再現したといわれる映像構成も見事です。



映画のラストシーン 【YOUTUBE】より


また、主題歌の『愛のロマンス』はナルシソ・イエペスのギターがしっとりと哀愁を漂わせて最大限の効果を上げていました。

『愛のロマンス』 ナルシソ・イエペス 【YOUTUBE】より


  *****

「旅の友・シネマ編」途中報告

私が選んだトップテンは以下のようになりました。
(皆様方とはかなりズレていると思っています)

①野いちご (瑞) イングマール・ベルイマン
②8 1/2  (伊) フェデリコ・フェリーニ
③処女の泉 (瑞) イングマール・ベルイマン
④情事 (伊) ミケランジェロ・アントニオーニ
⑤嘆きのテレーズ (仏) マルセル・カルネ
⑥甘い生活 (伊) フェデリコ・フェリーニ
⑦第七の封印 (瑞) イングマール・ベルイマン
⑧自転車泥棒 (伊) ヴィットリオ・デ・シーカ
⑨オルフェ (仏) ジャン・コクトー
⑩禁じられた遊び (仏) ルネ・クレマン

ここで、改めまして私の個人的な映画観を示しておきます。

基本論として映画の本質は映像表現です。
私の評価は芸術の基本要素である『技術・思想・創造力』に準じて『映像美学・魂の叫び・映像表現』に重きを置いています。
それら三つの要素で仕上げられた映像が媒体となって鑑賞者の心を揺り動かすことのできる映画を求めています。
すなわち、オリジナルな映像美学によって、作者(監督)が何をどのように訴えたいのか、そして時空を利用したそ映像を
用いてその感覚をいかに表現することができたか、ということに尽きるということです。

私にとって映画はストーリーを観るだけものではありません。
ストーリーをもって映画を評価するなら、映画になる以前にシナリオでその価値が決まってしまうことになります。
また、アメリカ映画に代表される物語中心で起承転結が明確でなおかつ勧善懲悪、とどの詰まりは正義の押し売り、
スターをヒーローに仕立て、お涙頂戴でハッピーエンドというパターンにはどうしても【映画】としての価値を見出せません。

この後も「旅の友・シネマ編」を続けますが、私の独断と偏見によって上述のように選定しておりますので、皆様のご期待に
沿えないかもしれませんが、ご容赦いただけますようお願いいたします。


『オルフェ』旅の友・シネマ編 (9) 

2018-07-21 14:39:57 | 旅の友・シネマ編



『オルフェ』 Orphee (仏)
1950年制作、1951年公開 配給:新外映=東宝 モノクロ
監督 ジャン・コクトー
脚本 ジャン・コクトー
撮影 ニコラ・エイエ
音楽 ジョルジュ・オーリック
主演 オルフェ … ジャン・マレー
    プリンセス … マリア・カザレス
    ウルトビイズ … フランソワ・ペリエ
    ユリディス … マリー・デア
    アグラオニケ … ジュリエット・グレコ
    セジェスト …  エドゥアール・デルミ



詩人オルフェの通う詩人カフェに王女と呼ばれる女性現われ、オートバイにはねられた詩人セジェストの死体をオルフェに
手伝わせ彼女の館に運んだ。そこでセジェストは一旦蘇り王女の導きで鏡の中に消えてしまった。王女とセジェストを追った
オルフェは鏡にぶつかって気を失い、目覚めたときには鏡も館もなくなっていた。オルフェは妻ユリディスの待つ自宅に戻ったが
夢うつつで王女の美しさの虜になってしまった。ユリディスはオルフェの愛が離れてしまったことを悲観する。そのユリディスも
オートバイにはねられて死の国へと旅立ってしまった。オルフェは不思議な手袋の力で冥府との境界の鏡を通り抜けると
王女にユリディスを現世に蘇らせてほしいと懇願する。王女は死の国から現世に戻る途中に絶対に振り返って妻の顔を見ない
という条件で現世に連れ戻すことを許した。しかし、王女に嫉妬したユリディスはオルフェにわざと自分の顔を見させて
再び姿を消した。ひとり現世に戻ったオルフェだったが詩人仲間たちからセジェストを奪ったと非難されて殺されてしまう。
オルフェに愛を覚えていた王女はオルフェの死を知って死の国の入り口でオルフェを待っていたが、自らの愛を棄てて
オルフェ夫婦を生の世界に戻すべきだと決心して二人を現世に送り返した。



ギリシャ神話のオルペウス伝説を基に、死と生の境を彷徨する詩人の姿を幻想的に映像化した感覚的な作品です。
原作のギリシャ神話では、オルペウスの妻エウリュディケーが毒蛇にかまれて死に、オルペウスは妻を取り戻すために
冥府に潜入して物悲しいの竪琴を奏でながら冥界の王ハーデースと王妃ペルセポネーに妻を現世に戻してほしいと哀願、
その結果「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件でオルペウスの愛が認められた。
しかし冥界からあと少しで抜け出すというところでオルペウスは後ろを振り向いてしまい妻と永遠に別れることになる。
というものなのですが、これをコクトーが現代風にそして詩的に大胆にアレンジして見事なファンタジーに仕上げています。



コクトーは夢想した唯美主義を映像化するためにトリック撮影をふんだんに盛り込み、造形的でかつ魔術的な視覚表現に
彼自身の詩が重ね、鏡を媒介にして冥界と現世が詩的に交差するという俗世を超越した夢幻の世界を築き上げました。
詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家など数他の肩書を持つコクトーは1932年にシュルレアリスムによる
『詩人の血』という前衛的な短編映画を作っていますが、その『詩人の血』も現世から異次元に入り込んで夢想の世界を
垣間見るという内容でしたが、 『オルフェ』においてもその想いが語り継がれています。


(このシーンのトリック撮影は『詩人の血』でも実験済みでした)

コクトーは映画製作に関して「スクリーンは私の夢の実態を映し出す真の鏡である」と語っており、また、「詩人はつねに真実を
語る嘘つきである。」そして「芸術は意識と無意識の融合である。」という名言を残しています。
『オルフェ』はそんなコクトーの自由な発想と私的な感性が実を結んだ耽美的な幻影であるがゆえに、映画を観るというよりも
コクトーの俗世を超越した夢幻の世界にただただ浸り込むだけでよいのかもしれません。



『自転車泥棒』 旅の友・シネマ編 (8) 

2018-07-15 14:11:34 | 旅の友・シネマ編



『自転車泥棒』 Ladri di Biciclette (伊)
1948年制作、1950年公開 配給:イタリフィルム=松竹 モノクロ
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本 チェザーレ・ザヴァッティーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ他
撮影 カルロ・モンテュオリ
音楽 アレッサンドロ・チコニーニ
主演 アントニオ … ランベルト・マッジォラーニ
    ブルーノ … エンツォ・スタヨーラ
    マリア … リアネーラ・カレル
    バイオッコ … ジーノ・サルタマレンダ
    アルフレード … ヴィットリオ・アントヌッツィ



戦後間もないローマ。アントニオは長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事を得た。しかし、ふとしたすきに
仕事に必要な自転車が盗まれてしまう。被害を警察に訴えたが取り合ってくれない。こうなれば自分で盗まれた自転車を
探すしかない。アントニオは息子のブルーノと町の古自転車の市場に出かけたがそこでも見つけることはできなかった。
偶然、自転車を盗んだ男に似た若者アルフレードを発見して問い詰め警察を呼んだものの証拠がない。
途方にくたアントニオは息子を先に家に帰れと言って見送ったあと、サッカー場の外に置いてあった自転車を盗もうとするが
即刻取り押さえられた。自転車の持ち主はブルーノの涙に負けてアントニオの罪を放免する。放心して手を繋いで歩く親子に
ローマのタ暮が迫る。



第二次大戦後、ハリウッドが華麗で夢物語的な完全娯楽作品を量産する一方で、戦禍にまみれ廃墟と化した祖国の恥部
ともいえる現実を冷淡に直視したリアリズムで描かれたイタリア作品が公開され始めました。ここにペシミズムとは一線を
画する悲劇の実録であり映像が時代の証人となるイタリアン・リアリズム映画の誕生です。これは世界映画史上最大の
衝撃となり、真の映画作家たちが映画の使命を再認識して、さらなるリアリズム芸術の追求が加速されるきっかけとなります。
その先鋒となったのがロベルト・ロセリーニの『無防備都市』、ルキノ・ヴィスコンティの『妄執』、そしてこのデ・シーカでした。

映画は、自転車を盗まれたというたったそれだけのドラマなのですが、現実を単に表面的に取り上げず現実の内部をえぐる
ことによって、現実を歪曲することを徹底的に避けるという姿勢、すなわちイタリアン・リアリズムの根本的な特質でもある
現実との対決・凝視を貫くことに主眼を置いています。その結果として、救いようのないやりきれない現実におちいって
さまよう親子の背景に戦火で荒れ果てたローマが重ねて映し出されています。
映画が主観で作られたものではなく、そこには感傷を排した現実が社会の底辺の叫びとして強く訴えられています。



ただ、デ・シーカには厳しすぎる現実ながらもそれを究極の悲劇とせず、少なくとも未来は明るくあってほしいという願望が
うかがえます。やむを得ずに自転車泥棒になってしまった父親が釈放されるラストシーンにその傾向が現れています。
同じイタリアン・リアリズムのロセリーニが撮っていたならラストシーンは警官に厳しく連行される父親を見つめる息子が
石畳の上で泣き崩れるといったシーンではなかったのかなと想像してしまいます。
冷酷な現実を追求しながらも未来に希望を与えるデ・シーカのこの作風はネオ・ロマンチシズムと称されるフェリーニへと
受け継がれていくことにもなります。


『第七の封印』 旅の友・シネマ編 (7) 

2018-07-08 13:18:24 | 旅の友・シネマ編



『第七の封印』 Det Sjunde Inseglet (瑞)
1957年制作、1963年公開 配給:東和=ATG モノクロ
監督 イングマール・ベルイマン
脚本 イングマール・ベルイマン
撮影 グンナール・フィッシャー
"音楽  エリク・ノルドグレン"
主演 アントニウス … マックス・フォン・シドー
    ヨンス … グンナール・ビヨルンストランド
    ミア … ビビ・アンデルセン
    ヨフ … ニルス・ポッペ
    死神 … ベント・エケロート

中世のスエーデン。騎士アントニウスとその従者ヨンスは十字軍の長期の遠征を終えて帰国するが、黒死病が蔓延しており
神に救いを求める民衆の哀れな姿であった。と同時にアントニウスは背後にいる死神の存在に気付く。アントニウスは死神に
死の猶予を得るためにチェスでの対決を申し入れた。死神もこれを受け入れ、居城への道のりの最中も勝負が続けられた。
その道中でアントニウスは様々な人々に出会う。家族を疫病で失った少女、火刑に処される魔女、妻に駆け落ちされた鍛冶屋、
そして素朴な旅芸人のヨフとミアの夫婦。その間にもチェスの勝負は続いたが、居城を目前としたある夜、アントニウスはついに
チェスでの敗北を認める。それはアントニウスの傍らにいるすべての者の死でもあった。その様子を見ていたヨフは身の危険を
感じて妻子とともに一行から離れる。ようやく城に戻りついたアントニウスは妻と再会し一同は食卓を囲んで祈りを始める。
アントニウスの妻が聖書を開きヨハネの黙示録を読み上げる。「而して小羊、第七の封印を解き給いたれば…」 そのとき、
死神が現れてその場に居た者全員の命を奪ってしまう。
難を逃れたヨフが見たのは、死神に先導され死のダンスを踊るアントニウスら犠牲者たちの姿であった。




【前置きとして、「ヨハネの黙示録」における七つの封印とは】
七つの封印とは、「ヨハネへの啓示」いわゆる「ヨハネの黙示録」に記されている神の黙示であって、神から授かった七つの
巻物を子羊の手によってその封印が一つ一つ解かれ、その度に、戦乱・飢餓・疫病などの災いが地上に降りかかり、最後の
七つ目の封印が解かれたとき人類は滅亡、その後メシアが地上に降臨すると殉教者はよみがえり最後の審判が開始される、
というものです。
「ヨハネの黙示録」第六章において第一から第六の封印について、第八章において第七の封印について記述されています。
 


ベルイマンは少年時代に古い教会の壁に描かれた「ヨハネの黙示録」の説話的な絵を見てそれがいつまでも忘れることが
出来なかったと回顧しており、その絵を題材にして『木の壁に描いた絵』という一幕ものの演劇として取り上げたことがあり、
この作品のシナリオはそれをベースにして書き下ろされたものです。そのため、この作品はベルイマン独自の固定概念が
生々しく表現されています。
また死神がチェスをする異様な光景もその壁画に描かれていたそうです。



映画は世界の終末をイメージする黒死病(ペスト)の蔓延と、神に救いを求めても手に入れられない民衆の狂乱する姿に
神の不在というテーマを重ねながらも、死は敬虔な気持ちによって迎えられるべきものであるという意思をも示しており、
神と人間との対話の中に、人間の生の本質を問いかけるように投影しています。
モノクロームによる際立った白黒の陰影による映像美もさることながら、ラストにおける信心深い旅芸人のヨフとミア夫婦、
そして無垢な赤ん坊に未来を託すという軽いロマンチシズムも演劇出身のベルイマンらしい演出でしょう。
ちなみに、旅芸人の家族の名前はヨフ、ミア、赤ん坊のミカエルとなっています。これはヨセフ、マリアそして天使を意味
しているともいわれており、神の不在、神の沈黙という題材を掲げながらも、父が牧師でその実は敬虔なクリスチャンで
ある証左かもしれません。


  *****


欧米の人々の思想や行動は、『聖書』によって大きな影響を与えられています。
当然のごとく西洋の芸術家の人々にも幼いころから聖書の教えが刷り込まれています。
したがいまして、西洋芸術に対しての理解を深めるためには、どうしても『聖書』の知識は不可欠であり
『聖書』は必須アイテムだと考えています。
今回紹介しました『第七の封印』に関しましても、『聖書』の知識があればそれなりに理解を深めることができたのでは
ないかと思う次第です。
私は単なる無宗教者でクリスチャンではありませんが、西洋芸術の理解を深めようと思われる方には『聖書』の一読を
お勧めします。