桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった城である。江戸時代は伊勢国桑名藩の藩庁が置かれた。
桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていた。歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれている。 城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されています。
平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元した。二重櫓であり、一階は水門管理所となっているが、二階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。
蟠 龍 櫓 展望台から一の鳥居を望む
熱田から桑名まで海路七里あったことから「七里の渡」と呼ばれている。 当時は東海道 五十三次の42番目の宿場町として大変なにぎわいを見せた。 ここに立つ大鳥居は、 ここから伊勢路に入ることから「伊勢の国一の鳥居」と称される。
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
伊勢の国一の鳥居 七里の渡 本田忠勝公の像
九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので、園内では桑名城ゆかりの様々な遺構を見ることができる。堀は公園全体の約6割を占め、水が張られている。堀上には多数の橋が架けられています。園内には、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜などの桜が約450本あり、三重県下屈指の桜の名所となっている。また、ヒラドツツジ、オオムラサキツツジといったつつじが約550本、伊勢系、肥後系、江戸系の花菖蒲が約4000株あます。
九 華 公 園 桑名城九華公園案内絵図
桑名の焼き蛤」で知られる「時両蛤」や東海道随一の難所「東海道桑名の渡」で有名な 桑名は、
伊勢への玄関口であり、物流の要衝、譜代大名の城下町、宿場町であった桑名の 町並みですが、
戦災と伊勢湾台風の被害によってそのほとんどが消失していました。人災と自然災害のこわさを実感・・ 写 楽 老 人
桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていた。歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれている。 城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されています。
平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元した。二重櫓であり、一階は水門管理所となっているが、二階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。
蟠 龍 櫓 展望台から一の鳥居を望む
熱田から桑名まで海路七里あったことから「七里の渡」と呼ばれている。 当時は東海道 五十三次の42番目の宿場町として大変なにぎわいを見せた。 ここに立つ大鳥居は、 ここから伊勢路に入ることから「伊勢の国一の鳥居」と称される。
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
伊勢の国一の鳥居 七里の渡 本田忠勝公の像
九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので、園内では桑名城ゆかりの様々な遺構を見ることができる。堀は公園全体の約6割を占め、水が張られている。堀上には多数の橋が架けられています。園内には、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜などの桜が約450本あり、三重県下屈指の桜の名所となっている。また、ヒラドツツジ、オオムラサキツツジといったつつじが約550本、伊勢系、肥後系、江戸系の花菖蒲が約4000株あます。
九 華 公 園 桑名城九華公園案内絵図
桑名の焼き蛤」で知られる「時両蛤」や東海道随一の難所「東海道桑名の渡」で有名な 桑名は、
伊勢への玄関口であり、物流の要衝、譜代大名の城下町、宿場町であった桑名の 町並みですが、
戦災と伊勢湾台風の被害によってそのほとんどが消失していました。人災と自然災害のこわさを実感・・ 写 楽 老 人
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