本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

ある一兵卒のはなし

2006年01月28日 19時03分57秒 | Weblog
時は昭和の初め。
東北の貧しい村に男の子がいた。
その男の子は一家の長男で、当時としては珍しくないことだが、下には6人もの弟妹がいた。
男の子が11歳頃、父親が死んだ。
そして男の子は近くの大きな屋敷に丁稚奉公に出された。
家族から離れ、つらい丁稚奉公の中で、その男の子を慰めたのは歌を歌うことだった。畑仕事をしながら、一人で歌を口ずさんでいる時が唯一の心休まる時間だった。
そのうちに戦争が始まった。男の子は19歳の青年となっていた。
青年は召集令状を受け取り、兵隊訓練に行くことになった。
兵隊訓練は厳しいものだった。幾人か毎に班に分けられ、それぞれの上官が指揮をしていた。上官の命令には絶対服従。一人が何かミスをするようなことがあると、連帯責任で回りビンタという罰が全員に与えられた。みなで円になり、隣の者の頬を何十回も力いっぱいビンタする。円になっているため、全員がビンタをし、されている形になるので回りビンタという。その罰を命令されると、本当に目から星が出ると思うほど痛かった。

つらい兵隊訓練の中でも余興があった。ときには慰労のために開かれる宴会があった。当時は自由も、遊ぶ手段も今のようにはない。青年は歌が上手かったため、宴会の時にはいつも歌を歌わされた。彼の所属する班の上司はことさら彼の歌が好きで、宴会の席ではいつも歌え歌えと催促された。そのうちには各班で歌の上手い者が代表となり、班対抗の歌合戦までになった。
そうしてそこに集まった男たちは、毎日の辛い訓練と明日への不安を慰めていたのだ。

青年にとっても兵隊訓練は辛いものだったが、歌を歌うことにより、今までの人生の中で一番人から必要とされ、賞賛される喜びを感じられた日々でもあった。上官が彼に目をかけてくれ、回りビンタのときも、直前に上官が彼に用事を言いつけて、その罰を逃れさせてくれるようなこともあった。階級も、他の者よりも早く上がることができた。そんな日々の思い出は彼の心の中に深く刻まれた。

その後、結局彼は兵役検査で不合格となり、出征することはなかった。
そして日本は敗戦した。

ずい分昔に読んだ「夜と霧」の中で、ヴィクトル・E・フランクルは、第二次世界大戦の際にユダヤ人だった彼はドイツ強制収容所の中で、精神科医として自分や周りを徹底的に客観視し分析し、それに集中することで現実の辛さを乗り越えられることができたと語っていたような気がする。

過酷な状況の中で人が人としてあり続けるために必要なものは何なのだろうか。

冬枯れの寂しい景色の中、浮かび上がる白梅の美しさが思い浮かんだ。

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1 コメント

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実は (ちえ蔵)
2006-02-03 15:27:56
これを読まれて、なんだ、いきなりこの話は?と思われた方も多いと思います。

実はこれ、私の父親の話なのです。

今は認知症になってしまった父ですが、当時の話だけはしっかりと記憶していて何度も嬉しそうに話します。

それで、名もない彼の物語を誰かに聞いてもらいたかったのであります。
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