本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

シンクロニシティ

2007年03月25日 19時22分15秒 | Weblog
スピリチュアルなことに興味が出だしてから、毎日いろいろなシンクロニシティ - 偶然の出来事とでもいいましょうか - がたくさん起こっています。
そういうものなんだそうですが、何度起こっても、その意外な出来事には、毎回ホ~っ、と感心やら感動やらさせられてしまいます。

全くそんなことに興味のない人には話をしても、ふうん、そんなのただの偶然なんじゃないの、と思われてしまうことが多いのですが、偶然は必然なのだ、ということが分かってくると、本人にしか分からない興奮と深い感動を感じます。

最近では、パートナー殿は仕事から家に帰って来ると、「今日は何かスピリチュアルなことあった?」と尋ねてくれるのが合言葉のようになっています。

一番最近の大きなシンクロニシティは私のスペイン語の先生とレッスンで話をしていたときのこと。
彼女はチリ人のカトリック教徒です。信仰に篤いけれどもリベラルな考え方をする人なので、スピリチュアルな話題にも興味を示し(信仰に篤いからこそ、とも言えるかも知れませんが)、私の話を面白そうにいつも聞いてくれます。
2ヶ月ほど前、私がチャクラ(人間の魂と心と体とをつないでいる伝達機関とされています。体の中心軸に7ヶ所あると言います。)についての本を読んでいたときは、彼女がチャクラについて何も知らないと言うのに、私がつたないスペイン語と身ぶり手ぶりで夢中で説明し、途中で自分でも気が付いて、「私、どうしてこんな話を一生懸命彼女にしているのかしら。」と可笑しく思ったりしました。それでも退屈な素振りもみせず、熱心に聞いてくれるので、「良い人だなあ」と思っておりました。

そして先週の金曜日。その前の週に会ったときには、急に知り合いから頼まれて、何かのセミナーでプエルトリコから来日する人達の通訳をすることになった、と聞いていました。何についてのセミナー?と聞いても、演劇関係、というだけで何も知らないの、と言うことでした。
それで、金曜日に、そのセミナーは一体どうだったの?と聞いてみたのです。すると、なんと、プエルトリコから来たという講師の人達が、日本人の俳優に、体のチャクラやそこから出る感情エネルギーについて説明したり、その感情エネルギーを使って演技する方法を指導する、というセミナーだったそうです。
参加者の中にはテレビに出演している有名女優や俳優もいたとか。

主催者が事前に何の資料もくれなかったので、用語が分からなかったり、全く勉強不足で通訳が大変だった、と彼女は言っていましたが、少なくとも私のつたないチャクラについての説明は、少しは役に立ったようでありました。

ほとんどスピリチュアルについて知らなかった彼女に私が色々な話をして、ちょっとずつ彼女も興味を持ち出して、それが2ヶ月後に偶然に彼女にスピリチュアル関係のセミナーの通訳の話が舞い込むなんて、シンクロニシティじゃなくて、一体なんでしょうか。

私は基本的には、親しい友人にスピリチュアルのことを話して分かってもらったり興味を持ってくれたら嬉しいけれど、そうじゃなかったら無理に勧めたり、その話を持ち出したりしないで、その人との以前からの関係の方を大事にしよう、と考えています。
でも、今回の出来事は全く私の関知しないところの話しですから、ああ、彼女もそっちの方向に行きなさい、と導かれているのかも知れないなあ、と思ったら、ちょっぴり嬉しくなったのでした。


自分自身の鏡

2007年03月03日 13時41分13秒 | 心についてのあれこれ
先日、学生時代グループで仲良くしていた友人の一人に偶然道で会ったのだが、そのときに、彼女から、グループの人たちに対する不信の気持ちを投げつけられたのは辛かった。
もちろん、はっきりと言葉にはしないが、「あなただってそのうちの一人だからね」と暗示する意味もあったのかも知れない。

いろいろなことが積み重なって、彼女の心には当時の仲間に対する不信感が、十何年経った現在でも根強く残ってしまったらしい。

「でも、最近はそういう関係は切っていくことにしたから。」と冷たく言い放った彼女。

そうは言っても、そんな言葉を攻撃的な調子で私に投げかけるところは、彼女の心にまだ憤怒の炎がくすぶっている証拠ではないかと思う。彼女の攻撃的な言葉にひるみながらも、恨みの気持ちから心を引き離そうとすること自体は、悪いことではないかも知れない、とも思い、「そうね、その方が良いかも知れないね。」と答えた。

私には、何年経っても昔のことが忘れられなくてどうしても昔の仲間が許せない、という彼女の気持ちがよく分からない。私から見たら、そのグループの友人がそれほどひどいことを彼女にした、と言う風には思えないのだ。ただ、確かにみんな過去に、気が利かなかったり、想像力が足りなかったり、若さゆえの傲慢さで、思いやりが足りなかったということはあるかも知れない。

現在はもうみんな大人になり、それぞれに違う道を歩いていて、一人一人が、日々いろいろなことに遭遇して、苦しんだり、悲しんだりしながらも一生懸命生きているのを知るにつけ、みんな弱くて不完全な一人の人間、というだけなのに、どうしてそんなに強い憎しみをいつまでもその人たちに抱き続けるのかしら、と思ってしまう。

ただ、他人の心の中は私には計り知れないものであり、彼女の中に、その感情を持ち続けなければならない理由があるのだろう。

もしかしたら、彼女の、他人に対する不信感は、自分に対する不信感を投影しているのかも知れない。自分を信じることのできない人は、他人を信じることができない。自分を許すことのできない人は他人を許すことができない。
他人は自分自身の鏡なのだそうだから。

そんなことを考えながら、自分についても思い当たった。そんな彼女と偶然再会したということは、あなた自身の中の怒りや恨みについて、振り返ってみる必要がありますよ、というメッセージなのかも知れない。