本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

マリー・アントワネット

2007年01月31日 12時57分02秒 | 洋画・海外ドラマ
昨日、六本木ヒルズで上映中の「マリー・アントワネット」を観てきました。
監督はソフィア・コッポラ。評判の女流監督ですが、実は私は彼女の作品を観たのは初めてでした。

マリー・アントワネットと言えば、知らない人はいないでしょうが、オーストリアからフランスのルイ16世に嫁いで、贅沢を極め、貧しい民衆の怒りを買ってフランス革命で断頭台に送られた悲劇の王妃であります。
後世の人々から彼女は、「アリとキリギリス」のキリギリスの世界的な代表のように思われていますが、それを、ソフィア・コッポラは、楽しいことが大好きな現代の女の子風に描くことで、彼女に理解を示そうとしています。
豪華な衣装や建物、美しいお菓子や庭園の風景などがとても目に愉しい映画でした。
しかし、これは現在豊かな日本のような国で上映されるからこそ、理解される映画かも知れません。

私は世の中が重苦しい雰囲気だったり、個人的に苦しい状況にいたりするときには、ドラマでも映画でも絵でも(人間でも)、明るくて美しいものが特に見たくなったりするのであります。そうそう、私も!という方には、この映画はオススメです。

本日はごきげんなり

2007年01月21日 15時03分23秒 | 心についてのあれこれ
京都の旅行から帰ってきてから、とっても気持ちの晴れ晴れとした毎日を送っています。
やっぱり旅は心身をリフレッシュさせてくれるものなのでしょうか。
これから行き詰まりを感じたときには旅をすることも一つの選択肢に入れようと心に決めました。

知恩院での早朝のお勤めが良かったのか、見慣れぬ風景に夢中になっているうちに日常の雑念から心が離れたのが良かったのか、神社でのお祓いの儀式が良かったのか、道中での友人との語りが良かったのか...

いろいろと考えてみましたが、多分どれか一つが一番良かった、というわけではなく、それぞれが総合的に私の心に効いたのだと思います。

夕べは友人のミュージシャンのライブに出かけ、踊り、また1曲歌わせてもらったのですが、ああ楽しい、ああ幸せ、という気持ちを、いつもよりももっと強く感じることができて、感激でした。

どんどん幸せになっていこう!

京都・内観の旅

2007年01月19日 03時50分58秒 | Weblog
先の火曜、水曜と、友人と一緒に京都に一泊旅行に行ってきました。

彼女は時々フラ~っとどこかに旅行に行きたくなるらしく、時々それに私もお供させていただく、というカンジなのですが、今回も、「京都に行きたいと思ってるんだけど、一緒に行かない?」とお誘いをいただいて、それじゃ、この機会に気分転換をしようかな~と思い一緒に行くことにしたのでありました。

実はその友人とは去年も伊勢神宮に一緒に行ったので、彼女とはまるで巡礼仲間のようであります。

今回は浄土宗の知恩院の宿坊に宿を取り、朝のお勤めにも参加する
というので、ますますそんな感じでありました。

しかし冬の京都は寒かった!東京は今年暖冬なので、京都も少しは暖かいかも、とナメていた私は甘かった!大学時代も別の友人と冬に京都に来たことがあって、そのときも寒さに凍えたはずだったのに、どうも学習できていなかったようです。

たった1泊の旅行だったので、たくさんある神社仏閣の中から訪ねたのは、下鴨神社、上賀茂神社、八坂神社、東寺だけになりましたが、それでも学生時代に習ったきり、すっかり忘れていた日本の歴史のおさらいをしたような気分になりました。

おのずと今回の旅のテーマは「宗教」となり、友人とも宗教についてたくさん語り、自分自身でも宗教についていろいろ考えた旅でした。

私は特定の宗教には属していないけれど、エステやカウンセリングやワークショップや瞑想など、現代の日本で手に入るやり方で自分の中のネガティブなものを手放して行こうとしています。
上賀茂神社では、魔を払うという木のお札が目に留まり、説明文に従いながらやってみることにしました。体や精神の穢れがお札に移るようイメージし、その後お札を二つに折って橋の上から捨てる、というものでした。
それをやりながら、ワークショップで行うヴィジュアライゼーション(視覚化)に似ているな~、と思って感心しておりました。
昔の日本人も、神社やお寺で祈って、自分のネガティブなものを浄化しようとしたのだろうなあ。
その木のお札を橋から捨てたら、なんだか胸のモヤモヤがスッキリしたような。(暗示にかかりやすい私....)

それから、ふと立ち寄った小物のお店で陶器を眺めていたら、ふ~っとメッセージが降りてきました。それは、「人に好かれようとして、他人の顔色ばかりうかがっていたら、自分の本当に作りたいものは作れないでしょう?」というものでした。歌のことについてか、ブログについてか、はたまた他の人に自分の意見をはっきり主張することについてなのか... いずれにしろ思い当たる節が多すぎて、現在の私にはとても意味深いものでした。厳しいけれど、愛情あふれたメッセージだと思いました。

その他にも、たくさん気付きのあった、冬の京都・内観の旅でありました。
と~っても良かったのですが、あまりに寒かったので、最後、同行の友人には「もう2度と冬の京都には来ないわ!」と宣言したのでありました。

女神の時代

2007年01月15日 12時15分54秒 | 心についてのあれこれ
前回、前々回のブログに対して、読んでくださった女性の方から賛同の趣旨のコメントをいただきました。それから、女性の友人・知人にその話しをしたところ、「大変よく分かる、私もそんな経験がある」という言葉をもらったりしました。

ということは、やはりこの間の話は私個人に限った感情や不満ではなく、他の女性の間でも共有できるものなのだろうという意を強くしました。
コメントをいただいたみなさん、どうもありがとうございました。

こういうときに発揮される女性の思いやりや共感能力にはいつも驚かされます。
他人のことを我が事として考えることができるというのは、女性の優れた特徴の一つではないでしょうか。
長い間、そうやって女性同士はお互いに慰めあって励ましあってやって来たのだと思います。

でもね、そうやって今まで何とか乗り切ってきたけれど、現在、女性の多くは疲れ果てててしまっているような気がします。長い間、男性を立て、家庭を守り、子供のために尽くしてきたけれど、あまりにも自分を犠牲にして尽くしてきたのに男性は自分の業績は自分の力だけでやり遂げたことだと思い込み、もっと拡大できる、もっと豊かになれると信じています。女性は男性に理解されず、ないがしろにされるばかりで、精も根も尽き果ててしまっているのでは、と感じることがよくあります。
その行き場の無い怒り、哀しみ、ストレスなどが、自分より弱い立場の女性や男性へのイジメや、子供の虐待へとつながってしまっているのではないでしょうか。

私はアメリカのように男性と同じことをやって力で男女平等を勝ち取ろうとするようなフェミニズムはあまり好きではないし、ヒステリックに女性の権利を声高に叫ぶのも好きではありません。男性をやり込めようとか、ギャフンと言わせてやろうとかいう感情も健康的だとは思いません。
ただ、男性も女性も、より快適に暮らしていける社会になるには、事実は事実として明らかにするべきなのではないかと考えてはいます。

私が男性に望みたいことは、女性の陰のサポートの力、思いやりの力、愛情、といった目に見えない力にもっと気が付いて、女性を、それから自分の中の女性性を大事にしてもらいたい、ということであります。男性が自分の力だけでやり遂げた、と思っている業績のその陰には、女性の献身的な協力があった、ということが少なくないのではないでしょうか。
賢い男性はそのことにもちろん気が付いているはずです。
もし男性が女性の持つ目に見えない力に気が付き、感謝して女性を大事にすることができるなら、そのとき女性は自分の傷を癒すことができ、夜叉の面の顔から女神の面の顔へと戻ることができるのではないか、とそんな風に私は考えています。

西暦2000年に入り、占星術の世界ではうお座からみずがめ座(アクエリアス)の時代になったのだそうで、それには女性性の時代の到来という意味があるそうです。
2000年もの長い長い間女性が虐げられてきた時代は終焉を向かえ、これからは女性性が大事にされ、平和が尊ばれるよい社会になるように希望を持ちたいと考えている今日この頃でなのであります。

男女の間の深い溝

2007年01月10日 15時55分22秒 | 心についてのあれこれ
前回のブログは、お正月に体験したあることがあって、それについて怒りをぶつけたものでした。実はあれからときどき心の中で自問自答を繰り返しています。

私にとって男女間の齟齬の問題はどうしようもなく無視できない大きな問題で、一つのテーマなのであります。

自分なりにいろいろな本を読み、また、自分の個人的な経験とも引き比べて考えた結果、最近では、現代の世の中のさまざまな問題(家庭内暴力を含む暴力、摂食障害、ひきこもり、いじめ、戦争、環境破壊、汚染もろもろ)は、男女間の力の均衡が極端に男性側に傾いているために起こっていると考えています。

でも、その考えは私の周りの男性諸君に話しても、なかなか理解してもらえない。
いいえ、理解はしてくれるのです、頭では。「なるほど、なるほど、そうだ、そうかも知れないねえ。」と同意はしてくれるのでありますが、それが行動にもつながるとは限らない。
男女が何人か集って会話を楽しんでいるときに、男性同士が盛り上がって知識のひけらかし競争を繰り広げ、無意識にしろ女性や弱者を無視し、「女子供は引っ込んでろ」と言わんばかりの態度を示すのは、さきほど女性の立場に理解を示した同じ男性だとは思われません。その様子が、現代社会の縮図ではないかと思うのはおおげさすぎるでしょうか。

去年の12月23日、ある女性支援グループの主催者に依頼されて、そのグループのクリスマス会で、集った女性たちにサルサを教える機会がありました。そのクリスマスパーティにゲストで来ていた社会派映画を作っているある女性監督が、イラク戦争後の人々の病気の問題や、青森の六ヶ所村の原子力発電所の問題について講演をされました。その監督は、「この世の中では、女性であるということがすでにまず問題なんです。」と言われました。
私は全く同感でした。そこにいた多くの女性たち(家庭内暴力の被害者の人たちです)も同感だったに違いありません。でも、多分この悔しさは、男性にはなかなか分かってもらえない感情でしょう。
「男性が女性の気持ちを分かるには、ハイヒールを履いて通りを歩いてみなければならない」という格言をどこかで聞いたような気がしますが、まさしく、その通りです。

古の権力者は何人も女性を身の周りに置いて女性に囲まれている必要があった。戦や政治で男性性を思い切り発揮した彼らは、私生活で女性性とのバランスをとることを必要としたからでしょう。
また、現代においても、ボディビルや格闘技をする男性には、プライベートで女性の下着を着けたりする嗜好の人が少なくない、というのも、同様に、過剰な男性性を発散した後には、女性性が必要となるからでしょう。

女性性というのは、かくも男性にとって必要なものであるはずなのに、常に闇に葬られ、忘れ去られ、大事にされないこと甚だしく、私はどうしてもときどき憤りを感じてしまうのであります。

かと言って、私だって何もいつもいつも、女性が無視されている、とか、抑圧されている、とか言い立てたいわけではありません。
常に女性の権利について声高に語るのもうんざり、という部分だってあるのです。男性にはなかなか理解されず、あまりうるさく言えば煙たがられるし、女性だっていつも味方ではありません。なにしろ女性は男性偏重社会の価値観でしばられているため、それをはねのけようとする元気のある人は少数で、それを普通のことと受け入れていたり、そのことに気付いてさえいない人たちも多い。

そんなことをつらつら考えながら、昨日、家から30分くらいある河原の土手まで散歩をしていました。すると、「それでもあなたは他の人に自分の考えをきちんと説明する必要がある」という考えがどこからか浮かんできました。ああ、そう、そうなの、説明しないとダメなのね。
ふうん、そうか、やっぱりやらなきゃいけないのか。

家に帰って夕食後読んだ本は特に男女の問題に関する本ではありませんでした。でもその本の中にも男女の力のバランスの不均衡について書かれている部分があって。ちょうど今日そこを読むなんて。
「やっぱりこの問題は避けて通れないわけなのね」
というのがこの日の私の感想でありました。


男性の会話術に関する偏見に満ち溢れた一考察

2007年01月05日 20時51分52秒 | Weblog
よく、女性だけの会話に男性が一人入るのは難しい、とおっしゃる殿方がいらっしゃいます。ファッションやら美味しいレストランやらペットの犬やらについての中身のない話しにはなかなかついていけないとのこと。
しかしながら、それについては逆もまたしかり、と言えるのではないでしょうか。男性同士が自分の信念やら思想やら知識やらを引き合いに出して語りだすと、女性同士の話しに匹敵するか、時にそれ以上の排他性を発揮することがあると考察いたします。

そういった場合、男性にとっての会話はスポーツと同じであります。
まず、誰かが一つの話題について、自らの見識を披露します。それは、理屈としてはほぼ非の打ちどころのないものであり、それについて他の人は「はあ、さようですね。」と言うしかないものであります。すると、別の一人はそれに関係のある話題で、自分の持っている別の知識を披露します。そうやってボールは次々と繰り出されて話しは続いていくのでありますが、これはスポーツでありますから、もちろんきちんとしたルールがあります。

まずは「カットイン」というルールであります。これは、往々にして女性の間では反則技なのでありますが、男性の間ではどうやら当たり前のルールのようであります。
他の人が大体のことを話し終えたと見たら、相手がしゃべっている途中でも「カットイン」をしてボール(話題)を奪うことができる、というルールです。相手が話しているところに割って入るのですから、相手の話を全部聞かずに次に自分が話すことを常に考えているということじゃないの、本当に相手の話を聞いているの?相手の反応や会話のキャッチボールをしようと考えているの?と私などは思ってしまうのでありますが、とにかく自分の信念、見識をその場で発表できればいいらしいのであります。それとも男性とはかくも頭の回転の速度が私とは違う素晴らしく優れた生き物なのでありましょうか。

また、これは紳士のスポーツでありますので、男性同士は攻撃し合わない、という暗黙のルールがあるようです。たとえ相手の論理にちょっとした矛盾を感じたとしても、あえてそこは無視する、というのがスポーツマンシップなのであります。ただし、「例外のないルールはない」という諺どおり、会話の中に女性や若年者が混じっている場合はこの限りではありません。紳士のスポーツの最中は、「女子供には合わせられない」のであります。
しかし残念ながら、そのルールは暗黙のものあり、女性が参加しようとすれば、「空気が読めない」、「言葉の行間が読めない」という非難を受けることになります。女性はルールが分からずコートの外でウロウロしているか、やっきになってコートの中に入ろうとして取り乱し、感情的になって嘲笑を買う、という無様な醜態を演じることになりかねません。

万一女性がそのゲームに参加するのであれば、それ相応の見識を持って、男性のルールに乗っ取って会話をしなければなりません。もちろんボールを自分のところに引き寄せるには、一段大きな声を出し、これから自分が話す出すことを誇示しながら他の人の話しにカットインするテクニックを使わなければなりません。

時に果敢にも男性のルールに挑戦して突撃していく女性も少数いるようではありますが、成功例は少ないように思われます。その他大勢の女性は、その試合に加わろうとすることがいかに困難か、自分を愚かしく見せてしまうかを知っているため、はなから諦めてその試合から離れたところから眺め、二等市民に甘んじるのであります。

以上、これは非常に偏見に満ちた考察であり、賛同されるもされないも読者の方々の自由であります。ただし、このブログに対しての苦情は受け付けておりません。悪しからず。

明けましておめでとうございます。

2007年01月05日 19時32分52秒 | Weblog
このブログを始めてから、ほぼ1年になろうとしています。

最近はかなりこのブログをさぼっておりますが、すこぶる元気にしております。

実は友人のブログに比べたりするとあまりにコメントが少ないので、あんまり私の書く話題は他の人の心にはヒットしないのだろうか...と考えたりもしておりました。
しかし、今年もらった年賀状の中には、「ブログときどき読んでるよ!」「楽しみにしてるよ。」と書いてくれた昔からの友人もいて、ああ、分かってくれてる人もいるんだ、と知って嬉しくなりました。
去年このブログを始めるにあたっては、万人に分かってもらわなくても良い、できるだけ正直に、まずは自分のために自分の心を綴っていこう、と思って始めたので、実は時にコメントしづらいブログになることは、当初から予期していたのであります。それでも、やはり時々はくじけそうになってしまう自分がいるのでありました。

でも、少なくてもこのブログを読んでくれて、何かを感じてくれる人がいる、ということを励みに、また1年、頑張って書いていこうと思います。

みなさん、今年もどうぞよろしくお願いします。