本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

自分を大事にする(ふたたび)

2006年10月17日 13時04分16秒 | 心についてのあれこれ
人生において、自分が学ぶべきテーマというのは、放っておくと何度も何度も立ち代り現れる、と言います。

最近私の前にふたたび現われたテーマは、「自分を大事にする」です。

ライブの成功でかなり気分を良くし、自信もついてきて元気も出てきたし、よ~し、いいカンジ~、と思っていたところだったのですが。

自分のことはちょっと横に置いておいて苦しそうな人のお世話をしようとすると、途端に調子が悪くなったり、うまく物事が進まなかったり。

まだ、あなたにはそれはできない、と言われているのか...
それともあなたにそれは向いていない、ということなのか...

苦しそうな人の側にいて話を聞いたりしていると、その人の気持ちに入り込みすぎて、どうしても自分も引きずり込まれてしまうようであります。

まだまだ「自分を大事にする」のテーマは続くようであります。
今は楽しいことをたくさんする!ことに集中することにします。

目に見えないロープ

2006年10月11日 12時36分05秒 | 心についてのあれこれ
この間、電車に乗っていて発見したこと。
電車に乗っていて周りを観察していると、なんとなく、目についてしまう人って誰でもいるんじゃないでしょうか。

私はこの間、「あ、この女性の服のセンスがとってもイヤだな」とか、「このオジさん、人相が悪いから近寄りたくないわ」と瞬間的にはっきり心で思ってしまったことがあって、そうしたら、その後、電車を降りて乗り換えたり、デパートに入った後も、その人が私の目の前に現れる、ということが何度もあったのです。

ふうん、面白いなあ、と思いました。なんだかイヤだなあと思ったものってついてくるんですねえ。

ちょうど何かの本で、「イヤだイヤだと思っていると、逆にその相手とつながる目に見えないロープを太くしてしまうものなのだ」という文章を読んだばかりでした。それが証明されたみたい。

それを断ち切るにはどうしたらいいかな~。やっぱりとりあえず「ありがとうございます」でしょうか。


訣別

2006年10月08日 01時04分49秒 | 心についてのあれこれ
以前私がとても尊敬していた人に久しぶりに会った。
尊敬していたけれど、やむなき事情で寂しい物別れの結果となってしまった人だった。
久しぶりにその人に会うのに、私の心は不安で少し揺れていた。
その動揺を映すかのように、その日はどしゃぶりだった。

久しぶりに会う面々の中、その人の話には苦渋が滲んでいた。
その人の話を聞きながら、私はその人との距離がさらに離れたことを知った。

尊敬していた人の人生哲学は、自分の人生哲学とは全く違うものであると改めて知ることは、私には少し辛いことだった。

頭の中に、「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉がなぜか浮かんできた。
以前、その人の近くにいたときにも、なぜかいつも何度となく浮かんでくる言葉だった。

その意味について考えてみた。

人はパン代のみを稼げればいいわけではないのだ、パン代を稼ぐための環境、心の潤う環境だって人間には必要不可欠なのだ、ということだと思った。

その日はまた少し開いてしまった心の傷を抱えるようにして家に帰った。

次の日はその傷を拭うかのような澄んだ秋晴れの一日だった。


夢でもし逢えたら

2006年10月04日 12時27分37秒 | 心についてのあれこれ
実は、今年の3月くらいから、夢日記なるものをつけています。
朝起きて、見た夢を覚えていたらすぐそれを日記に書きとめる、というものです。
余裕があれば、夢の内容の他に、現実の出来事も付け足しておきます。
その夢をみたときには、現実にはどんな状態で、どんな精神状態だったかを思い出すためです。
今までの人生の中であまり日記というものをつけて続いたためしがないので、ときどきボカっと大きく日にちがあいたりしてしまうのではありますが、なんとか息絶え絶えな感じでも続いております。

一時期、日替わりで昔の友人・知人が夢に出てきていたときがありました。
もうずい分何年も会っていない中学時代の友人やら、職場の人やら、親戚のいとこの子やらが次々と登場するのです。
もう最近は全く関わりのなくなっている人たちも多かったので、始めはどうしてこんな夢みるのかしら~?と思っていたのですが、そのうちだんだん楽しみになってきて、「今晩は誰に会えるのかな~?」と思うようになってきました。

ある夢では、私がハバナにあるキャバレーの踊り子をしていて、(でもお店の中はフランスみたいで、フレンチカンカンみたいなのを踊ってたけど)そこに来たお客さんが昔の職場の人で、偶然彼を見つけて再会を喜んでいました。

またあるときは、昔の彼とメキシコのカンクンにいて、以前に同じ場所に旅行に来たときにケンカをしてしまったこと(これは現実だったんだけど)を私がまだ気に病んでいて、仲直りしようとして洋服店でアロハシャツを選んであげていました。その後レストランに入ると現在のパートナー殿が私たちの席の側に隠れて待ち伏せをしている...という夢。

以前の職場で働いていた頃に比べると、最近は夢の内容自体もバラエティに富んできていて、なかなか面白いんであります。

現実にはもうなかなか会えなくなってしまった懐かしい人たちと、夢で再会するのも悪くないな、なんて、時折ひとりでニヤニヤしております。

これを読んでくれる友人の方々、今夜夢でお会いしませんか。



災い転じて

2006年10月01日 15時57分02秒 | 心についてのあれこれ
このところずっと過去の辛い体験に関わることについて書いてしまいましたが、なぜそんなことを今頃やっているか、という視点を少し忘れていたような気がします。
それは、自分の中にあるネガティブなものを解放していくためのプロセスなのでありました。

子供時代、大変そうだった両親を心配し、私がしっかりしなければ、と思ったときにどこかで大人になってしまって、子供としての自分の気持ちを押しつぶしてどこかに置き去りにしまったのでありました。表出する機会を失って自分の中に溜ってしまったネガティブな気持ちを、解放するための、いわば心の中の旅なのであります。

先日、昔の職場に関係のある友人と話していて、当時の色々なことを思い出しました。
人としての品に学歴や肩書き、収入は何の関係もない、ということ。社会的地位が高く、経済的にも豊かだからといって、心も満ち足りているとは限らないこと。狭い世界の中での狭量な競争や不寛容さ、思いやりのなさ。
それに比べると、現在私の周りにいる人たちは、お金持ちではないかも知れないけれど、少なくとも精神的にはとても豊かで、人生を楽しむことを知っていて、他人に思いやりをかけられる人たちなのであります。そしてそんな人たちに私は愛をたくさんもらい、大切にしてもらって、現在はとても幸せです。
でも、昔の職場での苦い経験があったからこそ、現在のありがたみが分かるのに違いありません。

それと同じく、子供時代の辛い記憶は記憶。その事実は消すことができないけれど、でもそれが全く無駄だったわけではないのです。
それがあるからこそ、現在の自分の幸せのありがたさをしみじみと感じることができるのでありました。

人生とはなんと驚きと喜びと美しさに満ち溢れているものでしょうか。
辛かったときには将来こんなふうになるとは夢にも思いませんでした。

愛をくれる周りの人たち、どうもありがとう。
神様どうもありがとうございます。
そして自分にも。いままで頑張って来てくれて、どうもありがとう。

これからも、よろしくね