本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

夫たちのこれから

2006年04月18日 00時40分49秒 | 心についてのあれこれ
先週の日曜日、小雨の降る中、永田町で行われた「夫たちのこれから 変容する家族と夫役割」という私のパートナー殿の関わっているNPO法人が主催するフォーラムを見に行ってきました。
午前10時からお昼をはさんで午後4時までたっぷりのフォーラムでありましたが、ときどき笑いも巻き起こる和やかな雰囲気の中、非常に興味深いことがたくさん話され、あっという間に時間が経ってしまいました。午前中は女性2人、男性3人による体験談が語られ、午後は精神科医の先生と、女性カウンセラー、社会学者の先生3人によるパネルディスカッション。

現在の日本の家族の実情についてと、これからの日本の家族の行方はどうなっていくのだろうか、家族というものを私たちはこれからどう捉えていったらいいのか、ということが語られました。

フォーラムを最初から最後まで総合司会のような形でリードしたのは斎藤学という精神科医の人で、40年以上もの間2万人ものクライアントを、「家族問題」を見据えながら診察してきた人であります。たくさんの摂食障害、自殺願望、DV被害女性、うつ、境界性人格障害などの患者やその家族と面接し、話を聞いてきた斎藤先生の話は、ときに挑戦的で過激、「日本において家族というのはもうダメだと私は思っているくらいですよ」とか「今の日本の少子化問題をなんとかするには、シングルマザーが生活しやすいようなシステムを作ってシングルマザーが増えるようにすればいい」なんて平気でさらっと口にします。

そんなこちらがドキっとするような話をしれっとした顔で話すのですが、そこにはどことなくユーモアが漂い、その語り口の奥には人間への暖かい愛情も感じられます。「ああ、しゃちほこばった今の日本のシステムから離れて、そんなふうに自由に考えてみてもいいのかも知れないなあ」と思えてくるのですから一種斎藤マジックであります。

午後のパネルディスカッションでは女性の側から男性への積年の恨み、といったものを一部感じさせる発言もありました。男性にとっては耳の痛い話かも知れませんが、長い間虐げられてきた女性の恨みつらみ、というものが存在するのは事実で、働きバチの夫を一生懸命陰で支えて専業主婦をしてきたのに夫に自尊心を踏みつけられたり、仕事をすればガラスの天井を感じたり、仕事と家庭を両立させようと思えば家事や子育てを一方的に背負わされなければならない不公平感を感じたり、諸々の思いが出口を見つけると吹き上げてくるのは、時に仕方がないことなのかも知れないと、女性に甘い立場で思ってしまいます。

女性に多い摂食障害、自傷などは、自尊心が低かったり父に馬鹿にされる自分の母を見て、自分の女性性を肯定的に受け入れることができない女性に多いそうですから、女性の自尊心の問題は歴史的、社会的に言っても、現在でもまだ根が深いのではないかと私は思っています。

最後の、斎藤先生の男たちへの提案は、「自分以外の者に愛情をかけること。それが自分の妻とか自分の子供であるかどうかに関わらず、車寅次郎のように、愛が報われなくても自分以外の者への愛に生きること」。

多分その会場にはいなかったであろう、永田町周辺で毎晩遅い時間まで私生活を犠牲にしてあくせく働くビジネスマンには是非聞いて欲しい話でありました。

斎藤学先生の著書はたくさん出版されていますが、最近では「男の勘違い」、新刊の「自分の居場所のみつけかた」はオススメです。

励まし役、けなし役

2006年04月15日 01時02分34秒 | 歌手活動(?)記録
実は私、こう見えても大変な上がり性であります。
人前に出ると、スピーチでも歌でも踊りでも、非常に緊張してしまうのであります。しかし、そんな私の趣味は音楽とダンスなのですから運命とは皮肉です。

なぜそんなに緊張するのか、と聞かれてもこればかりは私にも分かりません。自意識過剰なんじゃないのと言われれば、そうかも知れない、うまくやろうとするからじゃないと言われればそうかも知れない、といちいち思うのですが、自分の順番が来ると、どうにも心臓がバクバクと鳴り出し、喉は締め付けられるようになり、声が裏返ってしまったり、お腹に力が入らなかったりしてしまうのです。

そんな私なのに人様の前で歌う人になりたいと決意して練習を始めたのが2年ほど前。
いまさら歌手デビューなんていう年齢でもないのですが、家の中で口ずさんでいた歌を聞いたパートナー殿に「歌ってみたら」と背中を押され、人生は1回しかないんだから後悔しないように、と思い、一念発起して始めたのであります。

歌の技術は、少しずつ上達してきたように思っているのでありますが、人前で歌うのにはなかなか慣れることができないのであります。

そして明日は月3回通っているボーカルクラスの発表会の日なのであります。

パートナー殿は初めのうちは励ましてくれていたのですが、私があまりに毎回緊張するのであきれ果てたのでありましょうか、最近は厳しいコメントです。しまいには「歌はあきらめたら」。

しかし、私も最近はさすがにそんなことでくじけたりはしないのであります。
そして彼のことを「この人は私に嫌なことを言う役回りの人」と思うことに致しました。たぶん物事にはネガティブ面を考えてくれる人も必要なのでありましょう。そして身近な人間がそういう役回りになることが多いのかも知れません。
そう考えて、わざわざ憎まれる役を買って出る人も大変だなあと思ってみます。

そして心ひそかに励ましを期待して(!)、その悩みを親しい友人に話すことに致しました。そういうことを話して励ましが本当に上手だなあといつも感心するのは外国人の友人であります。「そういうことは慣れなんですから、練習すれば、大丈夫になっていくものですよ。」「私も若かった頃○○し始めたときはとても緊張したものです。」「ボーカリスト募集広告を見て応募してみたらどうですか。大丈夫、できますよ。」と実に力強い励ましを与えてくれるのです。どうしてそんなにポジティブなんだろう、と不思議に思うくらいです。が、多くの日本人には、このポジティブさが必要なのかも知れないと思う今日この頃。

もちろん日本人にも励まし上手な人はいます。今日の最後は私の歌の先生でもあるミュージシャンの人に心強いアドバイスと励ましをいただいて(半分ラテンが入っているような気配の人たちではありますが。)、明日は頑張りたいと思います。

その如月の望月のころ

2006年04月04日 20時00分31秒 | 風物詩
今日は先日桜について書いたブログの中で引用した西行の「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」という和歌について。

私は、桜咲く季節に(御存知のように花というのは和歌では桜のことを指す)桜の木の下にて一生を閉じたい、という西行の願いを歌った歌だとずーっと思っていたのですが、実はそうではなかったようです。

その肝心な部分は下の句、「その如月の望月の頃」という箇所にあります。
如月は旧暦の2月、望月というのは満月の頃、つまり月の15日にあたるのだそうです。
2月の望月の日とは、実はお釈迦様の入寂の日とされていて、西行は、お釈迦様がその日に沙羅双樹の木の下で亡くなったように、自分も同じ頃に桜の木の下にて、悟りを開いて死にたい、と歌った歌なのだそうです。

従って、これは仏教用語を使わずに、仏教的思想を表現した歌なのだそうです。

ということを、実は私はイスラエル人の大学の先生から今日教えてもらいました。
彼女の専門は民俗信仰で、もう20年以上も前から日本の神楽について研究しているのです。
彼女の日本語の豊富な語彙、日本の歴史や宗教についての造詣の深さには舌を巻くなあ、と最初に会ったときから思っていたのですが、今日、西行の歌について解説されたときには、すっかり日本人をやめたくなってしまったほどです。

ひょんなことから彼女が短期間日本に滞在する間、彼女の研究のお手伝いをすることになったのですが、お手伝いをすると同時に、私は日本の文化について教えていただいている、と言う感じであります。

最近日本古来の信仰に興味を持ち始めた私にとっては彼女との出会いは千載一遇のチャンスだったのでありますが、彼女と話していると、自分の日本文化に対する無知さ加減に呆れるばかりであります。
でも仕方がない、この際、日本人としてのプライドは投げ捨て、頭を垂れて教えを請うつもりでいるのでありました。

Freedom is inside

2006年04月03日 09時51分18秒 | Weblog
私は約2年前に仕事を辞めて、ブラブラしながらときどき暇に任せてこのブログを書いております。最近は以前の職場のこともずいぶん忘れてきたな~と思うのですが、嫌な思い出がたまによみがえってくることがあります。
でもだいぶ時効になって来てはいるので、今なら冷静に振り返ることができそうであります。

私の職場は女性の多い職場でしたが、私が特にイヤだなあと思っていたのは、女性の自己顕示欲でありました。
もちろん全ての女性ではないけれど、自分はいかに有能であるか周りの人間に分からせよう、自分がいい人間であるとデモンストレーションしなければ、という態度の女性が周りに多くて、疲れて果ててしまったのであります。
今思えば、私がひとりっ子で育ったため、兄弟間の競争のようなものに慣れていなかったというのも要因だったかも知れないとは思うのですけれど。

もちろん職場のためになることであれば、各人職場ではどんどん能力を発揮するべき、と思ってはいるのですが、でもそれはあくまでも自分自身との闘いであって、他人を出し抜こうとかということになると、ちょっと違うのじゃないかと思うのです。しかも、それが仕事のときだけでなく、一緒に飲みに行っても、料理やワインのことにはちょっと詳しいからといって知識をひけらかしたり、誰かが言ったことに負けじと対抗してみたり、何気ない会話でも「自分が自分が!」という態度をとられると、すっかり閉口して辟易してしまうのであります。

こんな風に感じてしまう私は、「負け犬的」ということになるのかも知れないですけれど、でも、そんな不毛な会話でみんな心から楽しんでいるとはとうてい思えないんですもの。
真に楽しい会話とは、お互いの違いを認め合って、自分の足りないところは謙虚に認め合って相手から学ぶ、という姿勢から来るのじゃないでしょうか。
だって、みんな若い頃には自分の自慢ばかりするオヤジを軽蔑していたんじゃなかったでしょうかね?

でも、そんな風に自己主張に躍起にならざるを得ない陰に隠れているものも何か分かっているつもりであります。それは一言で言えばself esteemの低さ、真の自信のなさの裏返しです。

自分さえ良ければ良い、という考えでみながひたすら自分のエゴを押し通そうとする社会は優しくない、息苦しくて生きづらい、と感じるのは私だけではないでしょう?エゴを主張している当人だって苦しいはずです。

でも、気が付くと、最近周りにはそんな不毛な競争に嫌気がさして、自分の魂が真に喜ぶ道を模索する女性が増えているような気がします。
その人たちは世間的に見れば「負け組」なのかも知れないけれど、精神的には自由を勝ち得た人たちだと言えないでしょうか。

そういう人が、女性にも男性にも増えてくることを、希望の光としたいと思う今日この頃であります。

花-2

2006年04月02日 08時40分54秒 | まちの風景
昨日は夕方自宅を出て、いつもの川沿いの散歩コースへ。
この日の目的は、折り返し地点にあたる東京都との境のところに数本あるはずの桜を見ることであります。
目黒川ほど豪勢ではないけれど、やはり桜の美しさはどこも一緒です。
桜のゲートのようになっている道を歩きながら、素面であるのに雲の中を歩いているような浮き立った気分になってきて、体まで軽くなる気が致しました。
行き交う人は、目黒川よりも家族連れや年配の人が多いでしょうか。
一人で歩いている年配の方も多く目にしましたが、人生の風雪が刻まれた顔も、このときばかりは柔和な表情になっているように見えました。
子供の頃は、毎年咲くものなのに、なんでみんなそんなに騒ぐのかなあ、くらいに思っていたのに、最近では年々桜の美しさが心に沁み入るように感じます。
そう言えば、前の職場の先輩だった女性で、桜の季節になると毎日ウキウキして子供みたいにはしゃいでいたのがキュートだったなあ。

「願わくば花の下にて春死なん その如月の望月の頃」

西行の詠歌は日本人みんなの共通した気持ちであるやも知れません。