本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

ニキ・ド・サンファル

2006年05月22日 00時48分30秒 | Weblog
昨日の日曜日は良く晴れて暖かく気持ちのいい日だったので、午後からうちのパートナー殿と東御苑に散歩に出かけ、その後東京駅の大丸デパートにニキ・ド・サンファルという女性アーティストの展覧会を見に行って来ました。

ニキ・ド・サンファル、1930年パリ生まれ、その後アメリカに移住、10代後半でモデルとして「ヴォーグ」、「ライフ」誌などの表紙を飾ります。その後アーティストに転向、「ナナ」、「タロット・ガーデン」など、数々の作品を作り、2002年に71歳で亡くなっています。

展覧会では、彼女の作品が初期の頃から晩年まで、年代順に並べられていましたが、時期によって作風がガラッと変わり、彼女の心象風景が手に取るように分かるようでした。
初期の作品は、暗く、自分の中の叫びや苦しみ、葛藤、怒りを吐出したようなものが多いのですが、途中から作風がガラッと変わって、非常にカラフルで伸びやなものになって行きます。私はその辺りから晩年までの作品が、生への喜びとユーモアに満ち溢れていて魅力的でとても好きだと思いました。

実は、彼女は11歳ぐらいの頃から、父親から性的虐待を受けていました。そのことに対する混乱、怒りと苦しみ、憎しみなどが渦巻いて初期の作品を形成しているのが見て取れます。しかし、彼女はそのことを64歳になって初めて自伝の中で告白しているので、その当時は言葉にできない感情を、作品にぶつけていたのでしょう。

しかし、ある時点で彼女はそれを突き抜け、次のステージに進んだのです。
そして赤、黄色、緑、水色など、スペインの色使いを思わせるようなカラフルな色を使って、豊満な体のユーモアあふれる可愛い女性像をたくさん作りました。それを見て、私はとてもいとおしいと思いました。
ああ、彼女は自分の「女性」という性を受け入れたのだな、と思いました。

女性が自分自身でどのように自分の性を受け入れているかを見るには、自分や他の女性の体に対する考え方を聞くとよく分かる、というのが私の持論です。
女性の体のふくらみを受け入れることのできない人、というのは、それが自分の体であっても他人の体であっても、「女性」としての性をどこかで恥じていたり、憎んでいたり、受け入れることのできない人が多いと思っています。そういう意味では、最近の若い女性にはそういう人が多いのかも知れません。

ニキ・ド・サンフェルは、父親に性的虐待を受けなければならなかった女性としての自分や自分の体を、初めは憎み、忌まわしい、と考えていたに違いありません。しかし、彼女は表現することによって自由を手に入れ、それによって自分の女性という性を受け入れられるようになったのです。

彼女は人生の苦難という「挑戦」に対し、見事に「応戦」した人であります。

カミングアウト!!?

2006年05月20日 15時37分09秒 | 歌手活動(?)記録
自分の中では大事に思っていることでも、何となく他の人に言うのははばかられて、心の中にしまいこんでいることって誰にでもあるのではないでしょうか。

私の場合、それは(もう大きい声で言ってしまいますが)昔の歌が好き、ということであります。
もちろん10代、20代の時はロックや流行のポップスなども聴くには聴いたりしたのであります。でも、それらは全て一時期だけのもの。時が来れば自然に遠ざかってしまうのが普通です。流行が過ぎても自分の心に残る曲というのは、実はほんの一握りしかありません。

そしてさらに、ふと落ち込んだり悲しかったりした時、自分の中にひとり閉じこもって口ずさむ曲を厳選したあげく、実はそれが子守唄であったり、昔子供の頃に歌った唱歌などの歌に限られてくるということに気が付いたのは20代も半ばを過ぎた頃でしょうか。
昔の歌の旋律や詞には、単純だけれど叙情的でロマンティックなものが多い気がします。「おぼろ月夜」「月の砂漠」「椰子の実」「荒城の月」「五木の子守唄」などなど、情景がまぶたに浮かんでくるようであり、そしていつもそんな歌を口ずさんでいると、いつの間にか心が落ち着いていることに気が付くのであります。
ああ、なんか私って実は選曲のセンスがないんだろうか。どうしてまだ若いのに(その頃は)、こんな時代とはるかかけ離れた歌に最終的に心落ち着いたりするんだろうと、ちょっとした自己嫌悪になったことも。
でも、「オールウェイズ」というアメリカ映画の中で、ホリー・ハンター演じる女性が恋人であるリチャード・ドレイファスに、「私って、昔の歌が好きな時代遅れの女なのよ」と告白しているシーンがあって、おお、なんだ、私だけではなかったのか、良かった良かったと安堵し、「なるほど、このように開き直ってしまうのもありなんだな」と、それからは少し自信を回復できたような記憶があります。

その後、20代の後半からサルサというラテン音楽にはまるのでありますが、そのはまった理由も、「聞いていて気持ちが良かったから」であります。聴いているうちに心が高揚し、楽しい気持ちになって肩の力がふわっと抜けたような気がしたのです。
それ以降、私の音楽の趣味は、「聴いていて気持ちの良いこと」が大前提であります。もっと言うと、その音楽を聴いていると自分の体の細胞全体が喜ぶ、そんな音楽しか受け付けない体になってしまいました。

サルサを聞き始めてはや10うん年、難しい音楽理論などは何も知らないし、CDを買い漁ったり、アーティスト情報を逐一チェックしたりと、一部の音楽通のようにはなりきれないではおりますが、多くのラテン音楽は、聞いていて人が心地良いと感じる部分を知り尽くした旋律、リズム、ハーモニー等で構成されているなというのが(もちろん異論もありましょうが)、常々私が感心しているところであります。

そして現在に到るのでありますが、それでも、最近のサルサは音が過剰で技巧に凝りすぎていたり、リズム重視でメロディーラインが楽しめない.... と思ってきている私。そして、最近ではキューバやメキシコの昔の曲にうっとりしていたりしております。その中には昔のラテンブームを経験した世代にはお馴染みの曲も。しかし私には新鮮なのであります。つくづく、昔の歌に回帰していく性質なのだろうか... うーん。

もちろん、念のため(?)、最近のものでも好きな曲もあることをお伝えしておきます。

名もなき小さな花を愛す

2006年05月07日 22時33分48秒 | 洋画・海外ドラマ
昨日「ヴェラ・ドレイク」というイギリス映画のDVDを見ました。
久しぶりにビデオでも見るか、と思ってうちのパートナー殿と家から徒歩10分のところにあるTSUTAYAに出かけたのが先週の日曜日。そして何を見ようかと考えながらビデオ/DVDの陳列棚の間をウロウロとしばらく彷徨ったあげく見つけたのがこれであります。その映画の監督である、マイク・リーの前作「秘密と嘘」があまりに良い映画だったので、この監督の映画をまた見たいと思ったのであります。なぜそれが1週間もして返却日ギリギリに見ることになったかと言うと、うちのパートナー殿はどうもDVDケースのカバー写真のなにやら地味な雰囲気に、暗そうな映画のようだと見当をつけたようであり、一緒に見るのを渋っていたからであります。

それがどんな話かというと....今回の映画の舞台は第二次世界大戦後間もないイギリス。
主人公はあまり裕福ではない家庭の中年の主婦、ヴェラ・ドレイク。彼女は若くもないし、美人でもなければ頭がいいというわけでもありません。だけど働き者で心が優しい。夫と成人した息子、娘と共にアパートの一室に4人で暮らしていますが、貧しいながらも家族は仲良く幸せに暮らしています。
ヴェラは昼間は家政婦をして働きながら、年老いた気難しい母親の家に毎日通って世話をしたり、近所に一人暮らしの気の良い男性がいれば、夕食に誘ってあげたりと、いつも他人への気配りを忘れない人です。
しかし、彼女には家族にも話していない秘密がありました。
彼女は当時妊娠中絶が違法だったイギリスで、望まない妊娠をした女性を助けるために堕胎を手伝っていたのです。
ある日、堕胎を手伝った女性が体調が悪くなって病院に運ばれたことから、医師の告発によって彼女の存在が明らかになってしまいます。
警察による捜査が行われ、とうとう彼女の家に警察が来てしまうのです....

といったあらすじです。
大変重いテーマですが、見る側が深刻な淵に沈む間もなく淡々とお話は進んで行きます。しかし、ところどころに制作者の価値観が押し付けがましくなく散りばめられます。

例えば、ヴェラの夫とその弟の会話。ヴェラの夫も気の良い男性でヴェラを非常に愛しています。夫の弟も気の良い人で、親を亡くしてから自分の親代わりをしてくれた兄とヴェラを心から慕っています。彼は車の修理会社を経営し、若くて美人で派手好きな奥さんと贅沢に暮らしています。その二人の会話。「兄さんはいい奥さんをもらったよね。彼女の心はまるでゴールドのようだ」すると兄は言います。「ゴールド?いいや、彼女はダイヤモンドだよ」

この監督の作品は、非常に平凡で地味な生活の中で、優しい心を持って暮らしている人たちをいつも愛情を持って描いていて、感心させられます。
派手で目立つことばかりが優先されてしまう現代の世の中で、ヴェラ・ドレイクのように、お金にも才能にも名誉にも美しさにも縁がなくても、美しい心を持って一生懸命生きている人を素晴らしいと思って映画の主人公にする、というのはなかなかできることではないでしょう。

でも、こんな視点の映画が、もっと増えてくれたらいいなと思います。

ちなみにパートナー殿のこの映画を見終わってのコメントは、「え?これで終わりなの?こんなのやりきれない~~!!!」でありました。
結末が気になる方はどうぞ本編をご覧下さい。

返球求む

2006年05月02日 13時38分22秒 | Weblog
いつもこのブログをつらつらと書くときに思うのは、願わくば他の人が読んでいてできるだけ気持ちのいいブログを書きたいなあ(これはままならないことが多々ありますが)、ということと私の心の奥の声がなるべく柔らかい響きを持って相手の心に一時的にでも仮住まいさせてもらえますように、ということであります。
それは、歌を歌っていく上でも、これから人の前で歌うことがあったとして、多分同じことを願って歌うんじゃないかなあと思っています。

実はこのブログを読んでいてくれる友人何人かに、「ブログときどき読んでいるよ」という返事を個人的にもらうことがあります。そんなときは非常に嬉しいんですねえ。
ああ、私のことをちょっとでも気にかけてくれているんだなあとウルウルします。できれば、これを読んでくれている方に、ときどき一言でもコメントなどいただければ、今後の励みになるかと思っているんですけどねえ.... 

(あ、上の写真は、今日家のベランダのハンギングに植わったパンジーが雨に濡れているもようを撮影したものであります。)


アラヤ識....その後

2006年05月01日 01時24分15秒 | 歌手活動(?)記録
以前のブログで、人間のアラヤ識(無意識)に働きかけることについて書きました。
実は私はもうだいぶ前から朝起きると瞑想を日課にしているのですが、遠藤周作の本の中にあったアラヤ識についての記述を読んで以来、できる限り瞑想の時間に明るい幸せなイメージを思い描くようになりました。
そのせいかどうかは分かりませんが、最近はいい出会いや幸運に恵まれることが多くなりました。

私が歌の勉強中だというのは前にも書いたのですが、最近では、もうちょっと集中して練習して上手くなりたい、できるだけ人前で歌う機会が欲しいけれど、どうしたものか、と思案していたのでした。
それをスペイン語の先生に話したところ、彼女の友人のメキシコ人のマリアッチの歌手の人を紹介してくれる、ということになりました。メキシコ料理のレストランなどで演奏をしているという人です。それは助かります、是非紹介して下さい、ということになり、あれよあれよと話は進み、この間彼と一緒に渋谷のスタジオで練習をしました。

彼は一目で、いままで大変苦労してきたけれど、人に優しく実直に生きてきました、と感じさせるような人でありました。
初めて彼の前で歌うので緊張する私をニコニコしながら励まし、上手に褒めながらいろいろ教えてくれるのでありました。私は緊張すると、筋肉が硬直し、喉が絞まって声が出なくなってしまうことがよくあるのですけれど、彼がギターで伴奏しながら一緒に歌ってくれるうちに、自分でも信じられないくらい声が出るようになっていることに気が付いて嬉しくなってしまいました。

帰りに「レッスン料を払います」、という私に、「日本人はお金を儲けるために遅くまで家族を犠牲にして働くけれど、人生にはお金より大事なものがあるんだよ。それは友情です。」と言って受け取ってくれませんでした。
その言葉になんだか胸がじーんとなってしまいました。

私のスペイン語の先生もそうだけれど、日本にいる外国人の人には、日本の社会で大変苦労をしていながらも、人に尽くそうという気持ちの人が多くはないけれど時々います。そういう人に遭うと、私は頭が下がるような気持ちになるのであります。

「弟子の心が整うと師が現れる」という言葉を何かで読みました。しばらく彼について歌の勉強をさせてもらうつもりでおります。