本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

カリスマはもういらない

2007年09月28日 11時33分49秒 | 世の中の出来事
今回の時津風部屋のリンチ事件は本当にひどい、と思いました。
国技とされているスポーツの稽古場で、どうしてビンビールで殴ったり、タバコを押し付けたり、ということが起こるのでしょう。しかも、親方が率先して。

そして、そういう行為をテレビに出て修行の一環として正当化しようとしている他の親方もよく理解できません。
何十年もそういうやり方でやってきて、それが当然だと考えているのでしょうが、それは何十年もおかしいことをやり続けて来たのが、今世間に露見した、というだけのことではないでしょうか。昔からやってきたから当たり前のこと、と正当化することはできないと思います。暴力は暴力です。

今回の時津風部屋のリンチ事件にしろ、最近身の回りでおこる出来事にしろ、最近はカリスマ、指導者という問題について考えさせられます。力や能力があって、他の大多数の人よりもそれが秀でていて、地位もお金も名声もある人は確かに素晴らしいかも知れないけれど、そういう人たちは他の人たちよりも特別扱いされるべきで、人間としても秀でているのでしょうか?能力があるからと言ってそれが他の人を虐げても良いという理由になるのでしょうか?

最近世の中で起こる出来事は、カリスマや偉大な指導者と呼ばれる人たちも、しょせん一人の人間であって、弱い部分があり、完璧ではない、と示すようなことが多い気がします。カリスマも病気をすれば、家庭内不和にも陥るし、実は家庭内では温かみのない夫であったり、暴力をふるう夫であったり。

世間はカリスマが大好きで、暗い部分には目を覆い、その人の社会的な活躍にしか目を向けない傾向があるけれど、でも、今その暗部が表出し始めているような気がします。
確かに人は自分が弱いから、カリスマに頼りたくなる、という部分ももちろんあるのだと思います。
カリスマは、その人をおがんだり持ち上げたりチヤホヤする周りの人たちがいるからカリスマになるのであって、そうでなければ、ある特殊な分野において能力の強い人、というだけではないでしょうか。
そういう特殊能力を持たない凡人は下に扱われるべきですか?人間として価値が劣るのでしょうか?

カリスマをおがむのはもうやめたい、と思います。
現代はカリスマの時代を通り過ぎ、ようやく一人一人が自分の中の聖なるものを信じて生きていく時代になったのだそうですから。

サッカーにみる国民性(?)

2006年06月21日 02時02分45秒 | 世の中の出来事
この間のワールドカップサッカー、日本対クロアチア戦は残念でした。中田英寿くんも言っていたけれど、「勝てる試合をまた落とした」という感は否めません。どうしても、日本の決定力不足、というのはいつも課題になるようであります。ゴール前の日本選手の弱気は今に始まったことではありませんが、今回は少しは成長しているだろうと思って見ていた側にはとてもじれったいものでありました。

それに比べると、外国チームのフォワードは、「俺が点を入れるんだ、邪魔だ、どけ!」と言わんばかりの、野性味あふれる顔つきの狩猟民族的な感じの選手が多いような気がします。どうも日本人は、外国人に比べると、性質が穏やかなような気がしますから、スポーツ競技で勝つために闘志を奮い立たせる、というのは、外国の選手よりも大変なのかも知れません。

見ている方は無責任だから、「日本チームのメンタリティは弱い」だの、やいのやいのと言いますが、かく言う私だって他人と言い争ったりするのは苦手なんであります。あんな大きな図体の恐い顔をしたオジサンが(まだ20歳そこそこだったりするけど)、「どけ~!」と威嚇的態度で迫ってきたら、そりゃあ恐いことでしょう。

でも、もちろん、穏やかな国民性は悪いばかりではありません。

この間イスラエル人女性の友人と話していたところ、彼女が日本に来たばかりの頃の話になりました。
その頃彼女は日本語があまりできなかったので、夜遅く、京王線に乗って自宅に帰るときに、知らずに快速に乗ってしまったのだそうです。降りるはずの駅が通り過ぎていくのを呆然と見送り、次の停車駅で降りたときには、もうすでに戻る電車はなくなっていたそうなのです。何が起こったのか、どうすれば良いのか分からずに途方に暮れている彼女に、一人の、ツッパリ風の悪そうな青年が近づいて来て、彼女は思わず身の危険を感じ、身構えたそうなのですが、その青年は彼女の前に来ると、「May I help you?」と礼儀正しく聞いてくれたのだそうです。

外国でワルそうな風貌をしている男性が夜近づいてきたら、間違いなく「金を出せ。」といわれるに違いないのに、思いがけない言葉をかけられて、彼女はすっかり気が抜けてしまったそうです。「Strange country」と彼女は言いますが、でもおかげでその時は助かったんだものねえ。
穏やかな国民性はまんざら悪くもないんじゃないですか。

氷の上に春

2006年02月26日 15時54分45秒 | 世の中の出来事
この間の木曜日は、もうすぐ春なのかも知れない、と感じさせるような暖かいいい日和でありました。風もちょっとありましたが、全く寒く感じませんでした。
知人と会うために原宿に出かけた私でありますが、その日はその知人とともに出かけた場所で素晴らしい出会いと興奮があり、そこから私の精神的ハイ状態は始まりました。
その夜はわがパートナー殿と彼の学生時代からの友人との気の置けない飲み会でした。お酒が入ってますます楽しい気分に。思えばそれは何かの予兆であったのか。

そしてふわふわとした気分のまま12時過ぎにふとんに入った私は、次の早朝、フィギュアスケートの女子シングルのライブを見ながら、さらに大興奮!

その日5時に起きた私は、眠い目をこすりながら、十何人目かの選手の滑走からずっとテレビを見ていました。しかし、荒川選手の滑りだけは、他の選手の誰とも全く違っていて、まるで別世界で滑っているかのようでした。本当に美しかった。
確かに彼女だけは、そこで行われているはずの競技の世界とは違う、彼女だけの美の世界にいました。彼女の演技を見ながら、思わず涙がポロリ。「ああ、綺麗だなあ」とひとりつぶやいていました。
彼女の衣装は彼女の美しいプロポーションをよりいっそう引き立て、踊ったときに一番美しく見えるよう計算し尽くされていました。
その衣装を着た彼女は、堂々としていて、風格さえ感じさせました。

女性には多いのかも知れないけれど、私も子供の頃からフィギュアスケートを見るのが大好きで、ドイツのカタリーナ・ビット、アイスダンスのトービル・ディーンなどの選手の演技が今でも心に残っています。

大人になってからも、あんな風に美しく踊れたらさぞかし気持ちがいいことだろう、とずっと思っていました。子供の頃にはダンスをする機会が得られなくて、もう私はダンスとは関係のないところで生きていくのだわ、と思っていたのに、20代の終わりからサルサという音楽と出会ってダンスを始めたのには、フィギュアスケートに対する憧れも全く関係がないとは言えません。

渡辺絵美以来、日本の選手も頑張ってはいたけれど、どうもその芸術性においては、ロシアを初めとする他の欧米の選手にはかなわないんだよなあ、といつも残念に思っていたのです。日本の選手はプロポーションも欧米の選手とは違うし、感情表現も下手な民族だから仕方ないのかも知れないなあ、とも思っていました。

でも、いつの間にやら、いつの間にやら!日本の選手のプロポーションは見違えるかのようにキレイになり、顔の表情や手を使った表現も、格段に素晴らしくなりました。
そして今年、トリノオリンピックに、女子シングルの選手を3人も代表で出せたことは、素晴らしい快挙だわ、ととても嬉しく思っていたところだったのでした。

今日もまた、テレビではしきりに荒川選手を取り上げた番組を放送しています。
私はそんな番組を懲りずに何度も見てしまいながら、自分が金メダルをとったわけでもないのに、何度も涙が出てきてしまうのであります。

荒川選手、バンザイ!努力が報われて、本当に本当に良かったね。