本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

アラ?アラヤ識

2006年02月05日 22時56分06秒 | 心についてのあれこれ
このブログのタイトルの説明でも書いていますが、人生いつも「本日も晴天なり」とは行かないものであります。誰しも辛い時期は必ず存在することでしょう。
失恋したり、病気になったり、他人から不当に扱われたり、他人に嫉妬心を抱いたり、年老いて体が弱ってきたり、愛している人が亡くなったり...
でも、そういう時期を、できれば精神を病んだり、不必要に自分をいじめたりすることなく過ごせたら、まさに不幸中の幸いだと思うのです。

でもそれはなかなかムズカシイことであります。もちろん、私はあまりくよくよしない性分だから、どんな苦難もそんなに苦にならないわ、という人もいるかも知れませんが、私は弱虫なので、苦難にあっては毅然としていたいとは思えども、やはりなかなかそうは行かないこともあります。

しかし、それでも、長びく悲嘆、憎悪、怒りなどは、精神を痛めつけます。
それが高じれば健康にも影響して来ます。
次にそんな苦難を迎えたときのために、いろいろな対処法を持っていて、いざというときには賢く乗り切りたい、とそう願っています。

最近、昔読んだ遠藤周作の「ほんとうの私を求めて」という本をもう一度読み直してみました。
その中にはいろいろと参考になることが書いてありますが、私がなるほど、と思ったことの一つに、仏教の「アラヤ識」についての考え方、というのがあります。仏教用語で、アラヤは溜っている場所、そしてアラヤ識、とは心の中でいろいろなものが溜っている無意識のことを指す言葉なのだそうです。仏教には前世という考え方があります。仏教では、前世での生き方が今生にも大きく影響を与えていると考えるのだそうです。これを業といい、前世からの業の影響力が今生でも人のアラヤ識の中で働いているというのです。

以下、原文を引用いたします。
「前世からの業だけでなく、現在のあなたの思いや行動もあなたのアラヤ識の中で影響力をもった種子をつくりだします。そしてそれらの種子が渦まいては意識に噴出し、行為をうみ、その行為がまた新しい種子をアラヤ識のなかで生むのだと唯識論(仏教の学派)は言っているのです。」つまり、「あなたの心の奥底には「アラヤ識」(無意識)という場所があって、それがあなたの表面の心(意識)につよい力を与え、あなたの行動を作り出しているのだと思えばよいのです。」

そして、筆者は、「アラヤ識(無意識)がそれほど我々の心(意識)や行為に強い影響力を与えるならば、逆にこのアラヤ識を利用すれば人間は幸福を掴めるのではないか。アラヤ識をいつも暗いものにせず、明るいものにしておけば、心の方も明るいものに変わるのではないか」と考えたという無能唱元という人の話に触れています。

それは具体的にどんな方法かというと、「一本の蝋燭の火やコップを前にして、できるだけ楽な座り方をして、じっとその火かコップを見つめるというやり方です。もちろん、部屋は静かでうす暗いほうがいい。そういう姿勢をとっていると心の雑念が追いはらわれて、少しずつ無心の状態になります。この時、まぶたの裏にあかるい、希望にみちた夢のイメージを具体的に思いえがけというのです。そうすれば、それがアラヤ識の種子となり、その種子がかならず、その夢を実現させてくれるというのが無能さんの考えです。」

以上、だいぶ原文を割愛してしまいましたが、筆者が言わんとしていることはお伝えできたでしょうか。もっと詳しく知りたい方は「ほんとうの私を求めて」を読んでみてください。

なるほど、自分ではどうしようもない哀しみや怒り、苦しみを感じて、それがなかなか去って行かないとき、この「アラヤ識」に働きかけてみる、というのも一つの手だなあ、と考えたのでありました。

もし、これを読まれた方で、私は困難にあったとき、こんな風に工夫している、ということがあったら後学のためお知らせ下さい。

余談ですが、この間マドンナについての記事を読んでいたところ、彼女のコメントで、「内側からの幸福感が大事だと気付いたのでそれを大切にしている」とありました。それはまさに、「アラヤ識」のことではないでしょうかねえ。さすがマドンナ