本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

母の歌と消化不良

2006年02月03日 12時10分55秒 | Weblog
キューバのとある若い女性歌手のCDの中で、1年以上前から私がとても気に入っている曲があります。曲調がとてもロマンティック、ドラマティックなのでうっとりさせられてしまうのです。
掃除のときなど折々に口ずさんでいたところ、スペイン語の歌詞もすっかり覚えてしまいました。
でもここにきて、その歌詞の中身で少々唸っているのであります。
その歌詞の内容とは、こんな感じです。
「はっきりと認めましょう。あなたが私の心の中にいるからこそ私はいつも笑顔になれたことを。私の笑顔だけであなたの愛に報いることができないのは知ってるわ。だけど、私には笑うということは、いつもあなたを讃えることなの。
あなたがいなければ喜びはどこへ行ってしまうでしょう。
どうして喜びがあるでしょう。
もしあなたがいなければどうやって生きていったらいいか分からない。
ああ、恋する人であり、娘であり、女であり、そして私の母であるあなたよ。」
拙い訳で申し訳ないのですが、大体こんな意味です。
そしてその歌詞の前には”para mi madre” 英語で言えば”for my mother”、”私の母に”、とあります。これは母を讃える歌なのです。
この歌詞が、私にはどうもしっくり来ないのであります。それは私の個人的な問題なのか、それとも日本人的感情としてこんなに正面から堂々と母を讃えられると面映いと思ってしまうのか。
例の私のスペイン語の先生によれば、スペイン語圏では、それが大人の歌であっても母を讃える歌は珍しくないのだと言います。そしてこの歌は、決して見返りを求めない母の大きな愛情に対して、娘が感謝の気持ちを歌っているのだということでした。チリでは母の日になると子供たちは学校で母を讃える歌を教わるのだそうです。そして家に帰って家族の前でそれを歌う、するとお母さんは目から涙をポロポロ流して喜ぶのだそうです。

そんな話を聞きながら、私は自分の子供の頃のことを思い出しました。
それは私が小学校4、5年生だった頃でしょうか。その日は母の日で、私は小学校でやはり母に感謝する歌を教わりました。

母の優しい暖かな胸に抱かれすくすくと
伸びた手と足この体
母はお日様お月様
わたくしたちの力です。

その頃はまだ純情で素直だった私は感動し、なんていい歌なんだろうと思いました。帰宅した私は、さっそく母にその歌を歌って聞かせました。すると母はたいそう感動し、その日は何度も何度もその歌を聞きたがり、私は母の前で何度も歌いました。でも私は子供ですから、そんなことは次の日にはすぐ忘れてしまいます。しかしその後も、何かある度に母はその歌を歌ってちょうだい、と私に言うようになりました。私の中では、その歌は母の日に歌ったらそこで終わり、という感じだったので、え、どうして?という感じでした。何度も何度も歌わされるうちに、私はだんだん恐くなってきました。どうしてこの歌を何度もしつこく歌わされるんだろう。そして、それはまるで、「私に感謝をしなさい、感謝をしなさい」という無言の圧力のように思えてきました。次第にそれを歌わされるたびに、私は母の愛情にからめとられ、そこから逃げ出せなくなっていくような気持ちになり、息苦しくなって行きました。そしてしまいには、この歌を母の前で歌ってはいけなかったのだ、と思うようになりました。

今から思えば、私の家はそのとき大変な状況にありました。父はいつも出張で家におらず、母は経済的な心配や孤独を抱えて一人苦しんでいたのだったろうと思います。そして一人娘の私が歌うその歌を、心の慰めとしていたのでしょう。今なら平静にその頃の母を一人の苦しむ女性として見ることができますが、その頃子供だった私には、それが大きな負担としてのしかかったのでした。そしてやはり、それはその後の母と私の葛藤を象徴する出来事であったと思います。

話をはじめに戻すと、私が感じたキューバの歌の歌詞に対する違和感は、その歌詞に表現されている感情と私の実の母への気持ちがあまりに違うために、私の中で消化不良を起こしている、ということなのかも知れません。

もしかしたらこの歌を人前で歌う機会があるかも知れず、私は目下この消化不良感を抱えて唸っている最中なのであります。