やっちゃんの叫び

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満州従軍看護婦実話(1)~ねずさんのひとりごと より

2012-10-09 22:43:02 | 日記

埼玉県さいたま市西区(元の大宮市)に、青葉園という公園墓地があります。

そこに「青葉慈蔵尊」があります。

お地蔵さんは、ふつう「地蔵」と書きます。
青葉慈蔵尊は、「慈蔵」と書いている。

なんのお慈蔵さんかというと、満州従軍看護婦の慰霊のためのお地蔵さんです。

このお地蔵さんの建立には、堀喜身子(ほりきみこ)さんという女性の方が関係しています。

以下は、すべて実話です。

~~~~~~~~~~~

掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが好きだったのだそうです。

彼女は、女学校を出ると、昭和11(1936)年、満州に渡ります。

そこで満州赤十字看護婦養成所に入所し、甲種看護婦三年の過程を修めて、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰り、樺太庁立病院の看護婦になります。

昭和14(1939)年の春、彼女は医者である堀正次と結婚します。

結婚して1年目の春、堀喜身子さんのもとに、召集令状がやってきます。
彼女は、令状を受けた一週間後に単身で、任地である香港の第一救護所に出発しました。

そしてまもなく、彼女は任地が上海に移り、ついで満州国牡丹江から、さらにソ連との国境に近い虎林の野戦病院に、48名の同僚とともに配属されています。

彼女が出征して6か月目、その虎林の野戦病院に、夫の正次も令状を受けてやってきます。

ふたりはそこで医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療をして過ごしながら、同時に長男静夫(しずお)、長女槇子(まきこ)の二人の子だからにも恵まれます。

ところが昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って、突然満州に攻め込んできます。

戦況は激しく、爆撃の危険から、虎林の野戦病院では、患者全員を長春に移すことに決定します。

ところが患者のうち70余名は、伝染病の重患なので一緒に連れて行くことができません。

そこで野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんを残して、ある程度元気な者のみ、長春に向かうことにします。

掘喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に長春に向かいます。
そして二人は、これが今生の別れとなった。


虎林を出発した病院の医師、看護婦、患者たちの一行は、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に、ようやく長春にはいります。

そしてそこで終戦の玉音放送を聞いた。

日をおかず、長春はソ連軍に占領されます。
当時、ソ連軍に占領された町がどのようだったかは、
≪奉天駅前事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1100.html
をご参照ください。

長春がソ連軍に占領された後、掘喜身子さんは、将校夫人や子供たちと一緒に、女ばかり76名で合宿所に入れられます。

そして身上調査がはじまった。

調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けます。

月給はひとり200円。
彼女たち34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合い、一緒に収容されている将校家族を養う費用にします。

けれど、物価はあがる一方で、生活は苦しくなるばかり。
堀喜美子さんも、次第に体がガリガリに痩せ細って行きます。

昭和21(1946)年春のことです。

第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ます。

内容は、「看護婦の応援を要請。期間は一か月。月給は300円」としてあった。

いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に、間違った扱いなどしないだろう。
まして、ソ連陸軍が発令した「公文書」の「命令書」です。

堀婦長は、一抹の不安はおぼえながらも、引率者である平尾勉軍医と相談し、看護婦の中でも、もっともしっかり者だった大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びます。

出発の日、堀喜美子婦長は、三人に「決して無理はしないように」と言い聞かせます。

大島花江看護婦は、元気いっぱいの笑顔で、「心配はいりません。敗戦国であろうと、世界の赤十字を背負う看護婦として、堂々と働いてきます!」と答えます。

「大島さん、細井さんと大塚さんのこともお願いね」と気遣う婦長に、

細井、大塚両名は、
「あら、大塚さんばっかり。私たちはいつまでたっても一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」

と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いあった。

堀喜美子は、出発する3名に、きちんと制服(看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せ、その征服音右腕に、赤十字の腕章を付けさせています。

誰がどこからどうみても、赤十字の看護婦であることがひとめでわかるようにしたのです。

こうして白羽の矢をたてられた三名は、元気に一か月の別れを告げて出かけて行った。



ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々に部屋を与えられます。
部屋は個室で、ベットまで付いていた。
大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって、個室はまさに夢のような部屋だった。

やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院から、また3名の追加の命令書がきます。
日本側は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続としてソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送った。

もうまもなく、最初の三名が交代して帰ってくる。
誰もがそう思っていた。

ところが、最初の3人は帰ってこない。
やがてさらに一か月が経過します。

すると、また3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされます。

堀婦長は、心配して引率者の平尾軍医に、命令を断るよう談判した。
一か月という約束で看護婦を送っているのです。

最初の3名が行ってから、もう3か月経過している。
2回目の看護婦が行ってからも、2か月です。
誰も帰してもらっていない。

向こうが約束を反故にしているのです。
普通なら、そんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできない。

しかも6名とも、行ったきり音信不通です。

けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員が殺されてしまう危険があります。

病院としては、命令に背くことはできない。
やむなく、井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出します。

仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。

先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう思っている矢先、一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ます。
今度もまた、3名の看護婦を出せ、というものです。

なんという厚顔無恥。

残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。
その中から、4度目の3名を選出しなければならない。
けれど、堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがります。

その日の夜、堀婦長は、次に向かう3名を呼び、明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するように話してもらいたい旨を、伝えます。

そしてすっかり夜も更けたころ、病院のドアをたたく音がした。

こんな時間に何事だろう・・・・
堀婦長が玄関の戸を開けます。

その小さく明けた戸口から、髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、「婦長・・・」とつぶやき、ドサリと倒れこんできた。

みれば、なんと最初に出発した、大島看護婦です。
たいへんな重体です。
もはや意識さえも危うい。

全身11か所に、盲貫銃創と貫通銃創を追っています。
裸足の足は血だらけです。
全身に鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷がある。
脈拍にも結滞があります。

なにがあったのか。

堀婦長は、とっさに「そうだ。こうまでしてここに来なければならなかったのには、理由があるに違いない。その理由を聞かなければ」と思い立ちます。

そして、「花江さん!、大島さん! 目を開けて!」と、大島看護婦を揺り動かした。
重体の患者です。
ふつうなら、揺り動かすなんてありえない。
他の看護婦が「婦長! そんなことをしたら花江さんが!」と悲鳴をあげます。

けれど堀婦長は毅然として言います。
「あなたたちは黙って! 花江さんは助からない。花江さんの死を無駄にしてはいけない!」と声を荒げた。

大島看護婦が目を覚まします。
そして語った。

「婦長。私たちはソ連軍の病院に看護婦として頼まれて行った筈ですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行ったその日から、ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。

半日たらずで私たちは半狂乱になってしまいました。
約束が違う!と泣いても叫んでも、ぶっても蹴っても、野獣のような相手に通じません。
泣き疲れて寝入り、新しい相手にまた犯されて暴れ、その繰り返しが来る日も来る日も続いたのです。

食事をした覚えもなく、何日目だったか、空腹に目を覚まし、枕元に置かれていたパンにかじりつき、そこではじめて事の重大さに気が付き・・

それからひとりで泣きました。
涙があとからあとから続き、自分の犯された体を見ては、また悔しくて泣きました。

たったひとりの部屋で、母の名を呼び、どうせ届かないと知りながら、助けを求めて叫び続けました。
そしてどんなにしても、どうにもならないことがわかってきたのです。

やがておぼろげながら、一緒に来た二人も同じようにされていることもわかりました。
ほとんど毎晩のように三人か四人の赤毛の大男にもてあそばれながら、身の不運に泣きました。
逃げようとは何度も思い、しかもその都度手ひどい仕打ちにあい、どうにもならないことがわかりました。

記憶が次第に薄れ、時の経過も定かではなくなった頃、赤毛の鬼たちの言動で、第八病院の看護婦の同僚たちが次々と送られてきていることを知って、無性に腹が立ち、同時に我にかえりました。

これは大変なことになる。
なんとかしなければ、みんなが赤鬼の生贄になる。
そんなことを許してはならない。
そうだ、たとえ殺されても、絶対に逃げ帰って婦長さんにひとこと知らせてあげなければ・・・

赤鬼に汚された体にも、命にもいまさら何の未練もありませんでした。
こうして私は、二重三重の歩哨の目を逃れ、最後お鉄条網の下を、鉄の針で服が破れ、肉が引き裂かれる痛みを感じながら潜り抜けて、逃げました。
後ろでソ連兵の叫び声と銃の音を聞きながら、無我夢中で逃げてきました。

婦長さん。
もう、ひとを送ってはなりません・・・・」

そこまで話して大島花江看護婦は、こときれました。

なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃れてきたのです。

病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだまします。

そうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとった。

どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れた。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼んだ。

翌日の日曜日の午後、遺体は満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬られます。
そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置する。
花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。

翌日のことです。
堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。
張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。

張さんは、ひどく怒っていた。
看護婦たちが、だれも出勤していないのです。
こんなことは前代未聞です。

「変ですね~」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きます。
そして3階の看護婦たちの宿所に走った。

いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
それが、今朝は、シーンと静まり返って、もの音一つしない。
堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかります。

宿所の戸を開ける。

お線香の匂いがただよっています。
内側の障子が閉まっている。

なにが起こっているの?

障子を開けた。

部屋の中央には、小さなテーブルがあり、そこには大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれています。

その周囲に・・・
きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。

机の上に遺書がありました。

~~~~~~~~~~
二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。

私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。

その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。
~~~~~~~~~~

遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。

遺体は、制服制帽の正装。
顔には薄化粧。
両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿だったそうです。

その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の意志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。

現場には、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証を行います。

婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難し、事のてんまつを訴え、泣き崩れたそうです。

これには彼らもしばらくは無言のままで、事態の重大さがわかったようでした。
この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、

翌日、
「ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること」
「日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない」というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。

22名は、死ぬ前に、全員が身辺をきれいに整理整頓しています。
そして彼女たちが「土葬」を遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。

「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれた。

日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれた。

こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。

その四十九日のことです。
張さんが、亡くなられた看護婦さんたちに、せめてお饅頭でも作ってあげたら?と饅頭を作る材料費を出してくれたのです。

そこで堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけます。
そこは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街です。(といっても、闇市のようなバラックです)

堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にします。

長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。


≪満州従軍看護婦実話(2)へ続く≫

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※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。


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