やっちゃんの叫び

感じたまま、思ったままを話してみませんか。

シベリアのポーランド孤児と阪神・淡路大震災で親を亡くした子供たちのお話し

2015-12-16 21:23:42 | 涙の出る話
1996年、ポーランドは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で親を亡くした子供たち30名を招き、3週間、各地で歓待した。

 世話をした一人のポーランド夫人が語ったところでは、一人の男の子が片時もリュックを背から離さないでいた。理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったのだといいます。少年は、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないでいた。夫人は、不憫で涙が止まらなかったそうです。

 歓待の最終日、震災孤児が帰国するお別れパーティに、4名のシベリア孤児が出席した。孤児といっても、すでに歩行もままならないご高齢者です。しかし彼女たちは、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」とおっしゃって、無理をおしてやってこられたのだった。 そして、その4名のシベリア孤児たちは、涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した。 会場は万雷の拍手に包まれた。

 なぜ、ポーランドは震災で親を亡くした子供たちを招いたのか・・・

 実は、75年前の次のような事件があったからであった。

 その事件とは・・・当時、シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地でした。 

 1919年、ポーランドがロシアからようやく独立したとき、ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にありました。 極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がいたといわれています。 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織されました。
 
 ところが、翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。 救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否された。

 窮余の一策として、日本政府に援助を要請した。 実は、救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は・・・ 子供に 花の名前をつけて、花のように子供を愛しみ育てている 日本 を思い出したのであった。わらをもすがる思いで、1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請した。
 
 独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない。普通ならありえない。 しかし女史の嘆願は、外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、シベリア孤児救済が決定されたのです。 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、翌21年孤児375名が来日。さらに1922年には390名の児童が来日しました。合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、祖国ポーランドに送り返されたのでした。 

 日本に到着したポーランド孤児たちの回想・・・・・
ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒された。そのあと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激した。到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たちもいた。学生音楽会は慰問に訪れた。仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待した。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々、人々の好意はあとをたたなかった。

 さて、日赤の看護婦に日赤の精神に共鳴した若き乙女が居た。
彼女は、腸チフスにかかって一番弱っていた4歳の女の子供の担当になることを申し出た。夜通しの看病。添い寝してまで必死に看病したのだった。その甲斐あって、その子は回復した。

 ところが、その若き看護婦は、看病の疲れから自分が腸チフスに罹ってしまい、ついに帰らぬ人となってしまったのである。看護婦は二十歳そこそこであった。
( 4歳の女児は80年の歳月を経て、再びドラマを演じることになる)

 こうして、日本の手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がったといいます。

 埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表した。

 神戸港からの出発では、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送人たちは、子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振ったのであった。

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 1995年10月、ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、8名の孤児を公邸に招待した。

皆80歳以上のご高齢です。一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりついた。そのご婦人は、こう語った。「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、這ってでも伺いたいと思いました。 なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。」

 孤児たちは70年前以上の日本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、いまでも肌身離さずに持っていると大使に見せた。 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せあった。

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  シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。

 そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べています。

 「日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。

・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られています。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。」
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 1999年8月、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団は、ヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

「20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてくれたことを忘れません。(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう。」

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さんざん日本に世話になっていながら、日本人が復員を始めた終戦時、日本人から略奪・殺人・強姦をほしいままにしておいて、それを抗日戦線だったなどとうそぶく特ア人の心。日本の恩を忘れず、いまも互いの良心を大切にするポーランドの人々の心。私たち日本人は、これから先、どちらの心を持った人になろうとしているのでしょうか。
        
 

 国際派日本人養成講座「地球史探訪: 大和心とポーランド魂」より、抜粋改変させていただきました。

【ロシア】忘れられない話=奉天駅前事件とは? ロシア軍が不意に満州国に侵入して・・・

2015-12-14 10:52:45 | 涙の出る話
光景が浮かんできて眠れなかった事件をご紹介します。


┌◆【1】◆ 奉天駅前事件 ◆ (「ねずきちのひとりごと」より)
└────────────────────────
奉天というのは、今は中華自民共和国の東北省となっているかつて満洲国にあった都市の名前です。現在は、瀋陽市と呼ばれています。

大東亜戦争が終結したあと、世界の強国だった大日本帝国は消滅し、同時に満州国も消滅しました。このとき満州にいた日本人は、国家の零時を経験しています。
つまり、国のない民となった。

当時、中学三年生だった山崎さんは、そのとき奉天にいました。
そして、たいへんな事態を目撃しています。
以下は、山崎さんという方(男性)の手記です。

まず、読んでみてください。
~~~~~~~~~~~~~
僕ら日本人の一団は、吉林省の平安屯で、ひとつの団体を作ったのです。
ロシア軍が不意に国境を越えて満洲国に侵入したとき、吉林省内の各地に散らばって開拓の仕事をしていた人たちは、何一つ持つこともなく、着の身着のままで吉林に向かったのです。

でも、吉林もロシア軍が侵入してきて、無茶苦茶なことをしていたので、平安屯に集まった人たちでひとつの団体を作って、新京に逃れることにしたのです。

この新京に到着するまでの出来事を思い出すと、いろいろのことが山のようにあります。
でも、その出来事というのは、ロシア人と満人から日本人である僕らがいじめられたということです。

ロシア人にとって、日本人というのは虫けら以下だったのです。
あの当時、ロシア兵は日本人を殺そうが、焼いて食おうが、自由気ままにできたのです。
だから、平安屯から新京までの間でも、ずいぶん痛めつけられました。

ようやく新京に着いたので、これで安心と思ったのは、日本人のヌカ喜びだったのです。

ロシア兵と満人が、田舎から出てきた僕らに対し、虫けらでも殺すのと同じように殺したり、傷つけたり平気でするのです。道をひとりで歩けませんから、二、三人で歩いていると、不穏の動きがあると言ってロシア兵から取り締まられるのです。

ロシア兵に見つかって逃げると、すぐパーンと銃で撃たれるのです。
それで日本人が死んでも、それは全く日本人が悪いのだというのです。

何をしても日本人の言うことは通用しないし、いじめることではロシア人ほど上手な奴はいないでしょう。
あれは、人間ではなくて、鬼か蛇のようなケモノ達だったのです。

結局、僕たちは新京にいてはいけないと、ロシア兵が言うのです。
とうとう平安屯から一緒にきた日本人は、ハルピンに追いやられることになったのです。

さんざん苦労してハルピンに着いたのは、満洲では降った雪が来年まで溶けないと言われる11月の中ごろだったのです。

しかし、そのハルピンも、僕たちにとっては永住の地ではなかったのです。
もちろん僕たちも戦争に負けた日本人のひとりだから、そんなに楽な生活をしようとは思ってなかったのです。

しかしロシア軍が、日本の強い兵隊がいたときに満洲に攻めてきて、強い日本軍と戦争して勝って満洲国に入ってきたのだったら仕方がないとあきらめるけれど、ロシア軍というのは卑怯な奴だから、強い日本軍がほとんどいなくなったすきに、コソ泥のように満洲に入ってきて、日本人である僕たちをいじめるのだから、腹が立って仕方なかったのです。

もし僕がもっと大きくて力をもっていたら、僕ひとりでもロシア兵と戦うのになあと思いました。

ロシア兵はそんな無茶苦茶なことをするのです。僕たちは、みんな、歯を食いしばってロシア兵の乱暴に耐えたのです。

こうした思いをもってハルピンまでたどりついたのです。ところがハルピンに着くと、ロシア兵がやってきて「お前らのような汚い日本人をハルピンにおくことはできない。
お前たちはみんな奉天に移動せよ」と申すのです。

やっとハルピンに着いたのに、また奉天に行けとはあんまりしたことであったので、日本人を代表してロシア兵に抗議をしに行った日本のおじさんは、抗議をしたというだけで、その場で撃ち殺されてしまったのです。

僕たちは、もう、抗議をすることも、お願いをすることも許されないということを知らされました。
牛や馬が、人間の言うままに動かなくてはならないのと同じだったのです。

奉天に移動するということになると、もうひとつ大変困ったことがあるのです。

それは、平安屯から新京へ、新京からハルピンへと移動したのですが、実をいうと移動するたびに、僕らの持っている荷物が減ってくるのです。

そんなことはロシアの兵隊にはわからないし、また、わかっても言うことを聞くような奴らではありません。ロシア兵という奴は、自分たちが少しでも機嫌が悪くなると、すぐ日本人をなぶり殺しにするのです。
日本人が死んで行くのを見ては、ワイワイ騒ぎながら酒を飲んで、自分たちの機嫌を直すのです。
こんなロシア兵が奉天に移れと言うので、仕方なく奉天に移ることにしました。
奉天に移ることになると、汽車に乗らなければなりません。
三時間汽車に乗ると、五時間歩かなければならなかったし、五時間汽車に乗ると、五万円も七万円も機関手に賄賂を渡さなくてはならなかったし、いやないやな旅でした。

ようやく奉天に着いたものの、もう12月も終わりに近づいていた満洲は、大変な寒さであった。

ハルピンも奉天もこの、寒いということでは、一緒であったし、平安屯から持ってきた着物などもほとんど売りつくしていたので、奉天の集中営に入ったときは、乞食と同じようになっていました。

この集中営に入ってからは、自分の持っている着物は全部身につけてしまったけれど、まだ寒いので毎日震えていました。

そして何もない、本当になにもないお正月が終わって、五、六日過ぎた頃、突然ロシア兵が十五、六名、どやどやと部屋の中に入ってきました。

そしてその中で日本人のような顔をしたロシア兵が、大きな声でわめくように、
「この中に、陸軍の将校の家族の者はいないか。いたらすぐロシア軍の司令部まで来い」と日本語で怒鳴ったのです。

僕たちはどうなることだろうと思っていましたが、誰もそんな人はいないだろうし、またいても、出て、ロシア軍の司令部に行くようなお人好しはいないだろうと思っていました。

すると僕のすぐそばにいた、僕をいつも可愛がってくれていた、山田というおばさんがすーっと立つのです。

僕はびっくりしました。
時がときだけに、僕の心臓は早鐘を打つように高鳴ってきました。

山田のおばさんは、そのまま外へ出て行こうとします。
僕はおばさんの後を追って、部屋を出ました。
そして集中営の出口のところで、山田のおばさんに追いつきました。

「おばさん、どこへいくの」と尋ねたのです。

するとふっと振り返った山田のおばさんは、いつもよりすこし青ざめた顔をしておりました。
しかし、いつものようの微笑みながら「ロシア軍の司令部へ行くんですよ」と、いつもの変わらぬ口調でおっしゃるのです。

僕はこの山田のおばさんの言葉にびっくりして、「おばさん、行っちゃだめだよ。
ロシア軍の司令部に行ったら、どんなことをされるかわからないから、行っちゃだめ。
おばさん、誰も知らないことだから、行かなくてもいいよ。
それにおばさんは、軍人さんのおばさんですか」と尋ねると、

「そうです。おばさんのところのおじさんは、立派な軍人さんでした」

「おばさん、行かなくてもよいでしょう。行かないでください」僕が頼むように言うと、おばさんは笑いながら、「おばさんは、帝国軍人の妻ですよ。
満男ちゃん、立派な人になって、戦争に負けた日本の国を、早く再建してください」と言い残すと、そのままロシア軍の司令部の方へすたすたといつもと同じような様子で、立ち去って行かれたのでした。

奉天に来てから、あんなに僕を可愛がってくれたあの優しいおばさんのことが胸いっぱいに湧き上がってきて、おもわず僕は泣きたくなりました。

そしてその翌日のことでした。昼ごろになったので、日本人はみんな食事をしようかなと話し合っているときでした。
ロシア軍の司令部から、命令が出たとのことです。

それは日本人は全員、奉天駅前に集合せよ、とのことです。
みんなは、何だろうと話しながら、奉天の前に急いだのです。

ただ、僕は、奉天の駅前に集まれとの命令が出たときから、何かしきりと胸騒ぎがしていたのです。それは何の胸騒ぎであるかわかりませんが、きっと何かおおきな不幸が怒るんじゃないかと、胸が痛いほど心配がたかぶってきたのです。

奉天の駅前に着いてみると、もう黒山のように人がいっぱい集まっていました。

日本人だけではありません。満人も、鮮人も一緒でした。日本人が一番前の方に出されました。
するとあの日本人のような顔をした日本語をよくしゃべるロシア兵が出てきて、集まっている日本人をにらみつけました。

「今日ここで、みんなに見せつけのために、日本のかつての陸軍の将校の家族のものを処刑する。
正しくない戦争、侵略の戦争をすれば、その最後はこんなものになるのであるということを、みんな肝に銘じておけ」と大声で怒鳴るのです。

ところどころの日本語はわからないようなところもありましたが、何かこのロシア兵がわめいていることを聞いているうちに、ぞーっとしてまいりました。
そして僕の体が、ガタガタと震えだしたのです。

この日本語をしゃべるロシア兵が、しゃべり終わって後ろを向いて合図をしました。
すると、ちょうど奉天駅の前に、僕らが奉天に着いたときからあったロシア軍の大きな戦車の横から、十三名のロシア兵に連れられた日本の女の人が現われてきたのです。

僕はその女の人をパッと見たとき、のけぞるばかりに驚きました。
その女の人は、あの山田のおばさんだったのです。

「あっ・・、山田のおばさん」と僕は叫びだしたいような衝動に駆られました。
僕の膝はガクガクと揺れ出してしまって止まりません。

そしてその山田のおばさんの姿を見ていると、もう立っていることができないようになりました。

鬼より、野獣より、汚い恐いロシア兵が、山田のおばさんに何をするのだろうと不安で胸が破裂しそうです。

ロシア軍戦車の前に引き出された山田のおばさんは、薄紺のズボンに薄紺の上着を着ているのです。とても綺麗なおばさんに見えるのです。
いままで山田のおばさんが、こんな綺麗な美しい人だとは知らなかったのです。

その山田のおばさんは、いま、僕の眼の前で、さみしそうだけれど、その顔には微笑みさえ見えるのでした。

やがてこの奉天駅前の広場に、五頭の馬が引き出されて来ました。
そしておばさんの右手と左手、右足と左足に、大きな縄がくくりつけられました。
そしてその縄のはしを、引き出された五頭の馬にそれぞれくくりつけられたのです。
しかし山田のおばさんは、顔色を変えずにまだ立っているのです。

そして僕たち日本人の方を静かに振り向きながら、はっきりした口調で、
「さようなら、みなさん。元気で早く日本に帰ってください。そしてまたきっと遇いましょう」と言われたのです。

おばさんがこの言葉を言っているうちに、ひとりのロシア兵が出てきて、いきなりおばさんの顔を針金のようなものでピシリと殴り付けたのです。
おばさんの頬から、真っ赤な血潮がパッと吹きだすように流れました。
見ていた日本の女の人たちは、おもわず横を向いて目をつぶったのです。
見ていられなかったのです。

僕はおもわず、「おばさーん、おばさーん」と叫びました。

そしておばさんの方へ駆け出そうとしました。
その僕を、誰かがしっかり押さえました。

そのうち、もう一本の縄がおばさんの首にかけられ、馬にくくりつけられました。

やがて、ロシア兵の将校が現われてきました。髭を生やした偉そうな男です。

この男が合図をすると、二人のロシア兵が来て、おばさんを押し倒し、そのおばさんの体の上に、このロシア兵が馬乗りになっていました。
五頭の馬には、ひとりずつ、ロシア兵が手綱と鞭を持って立っていました。

どうなることかと見守っていると、やがてあの髭を生やしたロシア将校が、さっと手をあげて合図をしました。
すると、ああ、いま思い出してもぞっとするあの惨劇が眼の前で行われたのです。

五人のロシア兵が馬の手綱をひきながら、鞭で馬の尻を叩いたのです。
馬は五方面に走りだしたのです。

そのときどうでしょう。
ギャーッという叫び声とバリバリという音が聞こえました。

そして山田のおばさんの体は無くなってしまっているのです。
ただ、蛇のような腸の切れ端が少し残っているだけだったのです。

満人と鮮人は、ワーッと喚声をあげていました。ロシア兵はニタリニタリと笑っていました。

僕はとても見ていることができず、その場に座り込んでしまったのです。
動くことができなかったのです。

ロシア兵も満人も鮮人もいなくなりました。あとに残ったのは日本人だけだったのです。
日本人の眼には、誰の眼にも涙が光っておりました。

僕はしばらくたって、あのおばさんの体の引き裂かれたものを、ひとつひとつ集めました。
ほかの日本人の人たちも、このおばさんの体を集めはじめました。

僕は、いまでも奉天という名を聞くだけで、何かを呪いたいような気持になさしめられるのです。

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このお話は、調寛雅(しらべ かんが)著「天皇さまが泣いてござった」から、そのまま引用させていただきました。

最近、日本なんてなくなったっていいんだよ。俺たちは国際人として、あるいは世界市民としてこれからの新し時代を築くのだ、などと、まことしやかに言う議論を耳にします。

しかし、そういう気楽な発言ができるのも、ここが日本だから、そういう庶民が自由に発言できる日本という国を、立派に守ってくださった多くの先人たちの血の努力があったからなのだということを、忘れてはいけないと思うのです。

日本という国があるから、人々は安心して暮らすことができ、自由に意見も言える。

そういう国という枠組みがなくなったらどうなるのか。何が起こるのか。そのひとつの例が、今日、ご紹介した山崎さんの手記です。
(中略)
ですから、日本の左翼が好きかって言えるのも、ここが日本だからです。
しかし彼らが望む、日本崩壊、日本亡国は、結果として、多くの日本人に「悲惨」の二字を与える。
文中に出てくる陸軍将校の奥さんのお話が出てきました。

おそらく、髭のロシア将校が、日本人の将校の妻を今夜のごちそうにしようと、部下に命じて徴発させたのでしょう。

山田のおばさんも、そんなことは百も承知だった。
同時に山田のおばさんは、誇り高い日本陸軍の将校の妻として、絶対に彼らの言うことは聞くまいと、心に誓って彼らのもとに赴いたに違いありません。

何週間も風呂にも入れない生活が続いた避難民です。
おそらく、ロシア将校は、山田のおばさんに、将校の妻だからと、新しい服を与え、体もきれいに拭かせたのでしょう。
そしておかずにしようとした。しかし、山田のおばさんは、これを凛として拒んだに違いありません。そしてそのあまりの凛々しさに、さすがのロシア兵すらも、手を出すことができなかった。

そこで見せしめのために、馬に引かせて五体をバラバラにして殺した、というのが真相であろうかと思います。

そしてそういう非道を、子供にさえも平気で見せる異常さ。そういう残酷な姿を見て喜ぶ満人や鮮人の異常さ。世界には、そういう異常者がいるのだ、という事実を、やはり私たちは絶対に忘れてはならないと思うのです。

日本を守るのは、日本しかない。それが歴史の真実です

【ユネスコ記憶遺産】登録を期待する=日本人が忘れてはならない中国の「通州事件」

2015-12-12 20:57:00 | 涙の出る話
「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は11日、2017年のユネスコ記憶遺産登録を目指し、
日中戦争の発端となった200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。

通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に
変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。

そこで、ねずきちさんのブログをご紹介いたします。

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通州事件(1/2)昨今、支那の反日蛮行がだいぶ伝えられるようになりましたが、私たちは支那人という民族が、彼らの言う「愛国無罪」という状態になったとき、どういうことが行われることなるのか、きちんと知っておく必要があると思います。

 なかでも今回ご紹介する「通州事件」は、ある意味、支那事変、大東亜戦争への入り口となった大事件であり、戦前には、日本人の常識となっていた有名な事件でありながら、戦後はまったく封印され、知る人自体が少なくなっているたいへんな事件です。

 そこで今日明日の二回にわたり、「通州事件」について、その概略をみてみたいと思います。

 事件は、75年前の7月29日に起こりました。

場所は北京から東に十八キロほど下った通州という街です。
通州は、明朝時代に城壁が築かれた街で、天津からの集荷の拠点として栄えた運河の街です。
 ここは当時の支那にあっては、たいへん治安の良い街でした。なぜならその小さな街に、日本軍が駐屯していたからです。
規律正しく公正な日本軍は、当時の支那にあって、どこの街でも庶民から歓迎されていたのです。

 ところが、治安の良いはずのその通州で、昭和十一(1936)年頃から不穏な空気が漂いはじめたのです。

 最初に騒ぎはじめたのが朝鮮人たちでした。
なぜかさかんに日本の悪口や、日本人の悪口を言いふらすようになったのです。
 彼ら朝鮮人はしきりに「日本は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしている」、そして「今度は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている」などと根拠のないデタラメを半ば公然と吹聴しはじめました。悪口はだんだんにエスカレートしました。
 
 昭和十二年頃になると「日本軍と日本人を追い出さなければならない。いや日本人は皆殺しにしなければなない」などと言い出すようにまでなってきたのです。そうした情報はもちろん現地に駐屯していた日本軍にの耳にも入りました。

 けれど、現地の日本軍は「そのような根も葉もない噂など相手にする必要はない」と、まるで問題にしませんでした。
 日本人は物事を客観的に捕らえようとします。これは日本人にとっては、ごく「あたりまえ」のことです。けれどそれは、日本人の良い面であると同時に、極端に悪い面といえるかもしれません。
 どういうことかというと、無教養で粗暴な朝鮮人たちにとっては、「事実はまるで関係ない」からです。逆に根も葉もないデタラメだから、余計に興奮し感情的になる。

 実際には、そうした噂話を広めたのは、支那人の工作員だったと言われています。そして根も葉もないことで簡単に興奮し熱くなり、燃え上がり、舞い上がるのは、古来変わらぬ朝鮮人の特徴です。

 事件は昭和12年7月29日の午前3時に起こりました。

とつぜん通州にいた冀東防共自治政府の保安隊(「張慶餘」が率いる第一総隊と「張硯田」が率いる第二教導総隊)合わせて三千人が、通州にいた日本軍を襲撃したのです。

 このとき、通州にいた日本人は僅か380名です。このうち軍関係者(男)は110名。残りは全員が婦女子です。不意をつかれた日本兵は、それでも獅子奮迅の防戦をしました。けれど3000名対110名では勝負になりません。襲撃開始と同時に日本兵30名が死亡してしまいます。そして日本の兵隊さんたちが、必死で防戦をしている間に、支那人の学生や朝鮮人の若者たちが、日本人の居留区を襲撃したのです。そして日本人居留民260名を、一夜のうちに極めて残虐な方法で殺害しました。

 虐殺現場を目撃した萱島高氏が東京裁判で行なった証言です。↓

 旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中の4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。

通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述です。↓

 近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。

帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。

 この近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊です。彼らは女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのです。

支那駐屯歩兵第2連隊小隊長桜井文雄証人です。↓

 守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。

ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。

 この桜井小隊長は、事件後に現地に調査に入った人なのですが、文中にある旭軒での出来事を、まるごと目撃したSさんという女性の体験談もあります。
 
 この女性は支那人の妻となっていて事件に遭遇しました。支那人と思われていたため、被害には遭わなかったのですが、事件の惨たらしい様子を逐一見る羽目になったのです。

通州事件(1/2)昨日の文中にある旭軒での出来事を、まるごと目撃したSさんという女性の体験談があります。
 この女性は支那人の妻となっていて事件に遭遇しました。支那人と思われていたため、被害には遭わなかったのですが、事件の惨たらしい様子を逐一見る羽目になったのです。

 旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。


日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

 二人とも真っ青な顔色でした。一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。
しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。どうしてやることも出来ないのです。言葉すらかけてやることが出来ないのです。二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。いやその一部からは出血さえしております。髪はバラバラに乱れているのです。とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は、頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。女の人は本能的に手で前を押さえようとすると、いきなりその手を銃剣で斬りつけました。左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。そしてそこにバッタリ倒れたのです。すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

 私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。
  
 人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

 一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

 私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

 それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。おそらくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
 
 実に悪鬼も目をそむける酷たらしい所業です。これら、頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、シナ人特有の日清戦争以来の、お決まりの惨殺パターンです。

 死体であっても強姦する。

 この襲撃を実施した張慶餘と張硯田が率いる保安隊は、襲撃対象の日本人居宅を、あらかじめリストアップまでしていたといいます。用意周到な計画的犯行だったのです。
 そして彼らは日本人の民家を次々と襲撃し、財産を横領強奪し、片っ端から日本人を殺戮し、婦女への凌辱を重ねました。

 逃げ遅れた日本人は手足を縛られ鼻や喉を針金で突き通され、ひきずられ、二ヶ所に集められたうえで射殺されています。

 通州で、こうした殺戮、虐殺、強姦、略奪は、まる一日続けられました。急報を受けた日本軍守備隊がやってきたとき、なんとか生き残ったのは、わずか百二十人だけでした。

 生き残った人は、トイレの肥だめの中にもぐって難を逃れた者、銃撃を受けて気を失い、重傷で扶けられた者、両手の真ん中に太い針金を通して手を縛られ、いまにも殺される寸前だった者、どの者も、まさに悲惨そのものでした。

 この事件の最中、ひとつ、涙なくしては語れない物語が、記録されています。

 ある日本人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。その声は、日本語でこう怒鳴っていた。「日本人は隠れろ!!日本人は誰も出てくるな!!日本人は逃げろ~~っ!」それは、必死の叫び声だったそうです。そしてズドンという銃声。

 声は聞こえなくなりました。言えるのは、支那兵に引きずられながら、その日本人男性は、自分が殺される最後の瞬間まで、自分が助かることではなく、他の日本人の心配をしていたということです。

 ですから「たすけてくれ!」ではなく、「日本人は逃げろ~!」だったのです。

 事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が、事件を知り、通州に急行しました。
 
 日本軍の本体が帰って来ると知った張慶餘と張硯田率いる支那人保安隊は、慌てて便衣服に着替えて民間人を装い、北京方面に逃亡しています。そしてこれだけの大虐殺を行なった張慶餘と張硯田は、その後も戦争中を生き延びました。

 とくに張慶餘は中国共産党人民解放軍の中将にまで出世し、昭和六十一年には革命の英雄として嘘だらけの回想録まで出版しています。

 通州事件は、まぎれもない史実です。

 その酸鼻な姿から、当時世界中で新聞報道され、人々に衝撃を与えました。

 この事件は南京大虐殺事件のように、後年になってねつ造されたデタラメと異なり、実際に起こり、実際に日本人が被害に遭ったたいへんな事件です。事件を目撃したSさんは、次のような体験も書き遺しておいでになります。↓

 旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

 するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。お婆さんは仰向けに倒れました。学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

 誰も見ていません。私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。そして、「くやしい」と申すのです。「かたきをとって」とも言うのです。私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。「いちぞう、いちぞう」と人の名を呼びます。きっと息子さんかお孫さんに違いありません。私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。そして息が止まったのです。

~~被害に遭われた方々の悔しさ、口惜しさ、そして仇をとってもらいたいと思う気持ち、痛いほどわかります。けれど戦後の私達は、こうした通州事件のような凄惨な事件の事実から目を背け、いまではほとんどの人がこの事件について知らない状況になっています。

 そしていま、昭和十一?二年当時の通州市と、ほとんど同じような世相に、いまの日本はなっています。

 歴史は繰り返すといいますが、決して二度と繰り返してはならない歴史もあります。

私達は二度とこうした悲惨な眼に遭わないために、日頃から襟を正して万全の備えを築いていかなければならない。私はそう思います。

 みなさまには、関連記事の「通州事件の惨劇 Sさんの体験談」をご一読されることを是非、お勧めします。
 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.htmlこれが事実なのです。

 大昔の出来事じゃないか、などと気楽に済ますことはできません。

これと同じ惨劇が、チベット、ウイグルで行なわれ、チベットは人口600万人のうち150万人が殺害されました。

 ウイグルでは、いまもその悲劇が続き、近くは法輪功の学習者たちが、同様の迫害を受けています。
そしてもし、沖縄が支那に制圧されれば、これと同じことが、今度は沖縄県民の身に起きる。
さらに日本全土が、このまま支那の支配下に置かれる事態が進めば、75年前に起こった通州事件は、そのまま明日の日本に起こる出来事となるのです