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悪魔について ◆1、人の疑いは、神の教えを覆し得ない

2018-08-28 00:48:40 | 悪魔
『悪魔について - その存在と活躍』アロイジオ・デルコル神父編

◆1、人の疑いは、神の教えを覆し得ない

 よい面についてではないが、有名になっているオランダの公教要理をはじめとして、ある学者ぶった人々が、最近、悪魔の存在に対する疑問を沸騰させています。このためにカトリック教会は、聖書と教会の聖伝にふくまれている正しい信仰に焦点をあてて、悪魔の存在と恐ろしいその活躍をあかるみに出す必要を感じています。

 その努力の一つとして、一九七二年になされた教皇パウロ六世の演説があり、これは一つの文献となっています。その三年後にも、聖座の信仰省は、これについて疑い得ない教書を発布しています。

 それにもかかわらず、最近の超モーダンな神学者は、次のようなことをいいだしました。教会の文献にも、第二次ヴァティカン公会議の文献にも、悪魔の存在を信仰箇条として宣言されたことはありません。「悪」ということは、明らかにうち出されてはいるにしても、その悪にはペルソナ(位格)が与えられていない、すなわち、具体的に存在し、活躍する「悪魔」、「悪霊」に関しての信仰箇条がなく、したがってその具体的な存在は実にうたがわしいのです。つまり、それらは、知恵と自由意志のある存在物としてはみとめられないのです、と、これがかれら偽神学者の本音なのであります。しかし、悪魔が存在しないとすれば、「地獄」ということも作りぱなしにすぎないという結論が出てきます。

 この偽神学者は、意識しているかいないかは別として、かれらは、次のような結論を引きだすのです、すなわち、教会の伝統的な信仰を無視するばかりか、二千年ものあいだ教会が作りぱなしを教え、キリストご自身も、存在もしない悪魔の「奴隷制度」から人間をお救いに来られたのではないというのです。つまり、キリストは、一つのこわい作りぱなしをもって人間をおどかしたり、あざむいたりしただけだったと。真剣に追求していくと、こんな断言がその終末には現われてくるのです。

 もちろん「信仰の真理」をすべて「信仰箇条」として宣言する必要はなく、聖書と教会の教えだけで充分です。それにしても、偽神学者や偽聖書解訳者は頑固です。かれらは、自分たちの頭の産物である思想だけを、唯一の真理とみとめて、ゆずらないからです。一九八四年にイタリアに出た最後の論文があります。悲しいことにこの論文は、このような偽神学者のまちがいを、かえって真実であると証明しようと試みたのです。しかもなおさら、残念なことに、この論文をローマのある教皇立大学が認め、ほめさえしたのです。この論文の内容が、あれほど教会の公式教義に反対しているのにです!


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