最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●道徳教育(2)

2010-03-28 09:26:13 | Weblog


●私なら……

 さてあなたの判断は、どうだっただろうか。
「ケースバイケースで考える」という人もいるかもしれない。
あるいは「あのときは、あれでしかたなかった」と考える人もいるかもしれない。
「連絡不通」という、いくつかの不運が重なった。

 で、私はこう考える。

 ……といっても、それをここに書いても意味はない。
(あなたは(あなた)。
(私)は(私)。

 ただ今でもときどきワイフと、この問題が会話のテーマになることがある。
今夜もそうだった。
「お前ならどうする?」「あなたならどうする?」と。

 私のばあいは、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきた。
そのため、法を守ることは重要と考えるが、必要であれば、法を破ることも、これまた許されると考える。
また破ったところで、ほとんど罪悪感はない。
それで責任を取らされて、司令官をクビになったところで、一向にかまわない。
地位や肩書きには、ほとんど興味がない。
ないから、一向にかまわない。
が、ここにも書いたように、これは私が、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきたことによる。
つまりこうした問題には、その人の生き様が集約される。

 たぶん自衛隊員として長年、そういう職業をしてきた人なら、私とはちがった考え方をするだろう。
またしたところで、その司令官を責めることはできない。
「知事からの出動要請がないから、待機する」と、がんばるかもしれない。

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どうもよくわからない。
今夜は、思考がうまくまとまらない。
道徳とは何か?
頭の中で同じテーマがクルクルと回ってしまう。

そこで「善と悪」。
それについて書いてみたいが、しかいこのテーマも、
それこそ腐るほど、書いてきた。

その中の1つを、再掲載してみる。

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善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

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フ~~ン、まだよくわからない。
道徳、つまりそれぞれの人がもつ倫理規範とは、
何なのか。
またそれは教育になじむものなのか。

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●道徳論

 こうして考えてみると、「道徳」というのも、つまるところその人の日々の生活の中で、作られていくものということがわかる。
つまり明らかに個性をもっている。
それぞれによって、基準も異なる。
(絶対的に正しい)とか、(絶対的にまちがっている)とか、そういうふうに決めつけて考えることはできない。
またそういうものではない。

 で、コールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるかによって、道徳の完成度をみるが、それとて相対的な見方にすぎない。
だから子どもに道徳を教えるとしても、「正解・不正解」という判断は、基本的な部分で、おかしいということになる。
それぞれがそれぞれの道徳観をもち、それぞれの考え方をする。

 もし(教える)ということになれば、より、公正な見方、より普遍的な見方を、子どもに示していくことでしかない。
教えて教えられるものではない。
いわんや(きれいごと)だけを並べる子どもを育てるためでもない。
もちろん「善」を教えたからといって、その子どもが善人になるわけではない。

●道徳教育

 これが私の結論ということではないが、こと教育ということになれば、私は道徳教育は不要ということになる。
道徳教育によって(教えられる部分)よりも、道徳教育によって(人間性が統制される部分)のほうが大きいばあいには、なおさらである。
たとえば戦前には、「修身」という科目があった。
明鏡国語辞典には、こうある。

「(1)身をおさめて正しい行いをするように努めること。
(2)旧学制下の小・中学校で、教育勅語をよりどころに道徳教育を授けた教科名。
◇昭和20(1945)年廃止。現在の「道徳」に当たる」と。

 そういう危険な側面もある。

 と、同時に、「道徳」というのは、先にも書いたように、「個性」がある。
一元的な道徳を押しつけることによって、その個性をつぶしてしまうことにもなりかねない。

 どうもうまく原稿をまとめられない。
このつづきは、また明日にでも考えてみたい。

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