最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●子ども時代(1)

2010-03-29 10:29:15 | Weblog
【幼年期】

●古い記憶

 いちばん古い記憶は何か。
私の、いちばん古い記憶は何か。
ときどきそれを考える。
しかしそのつど、ちがう。
どれが古いのか、
どちらが古いのか、
それがよくわからない。

 ひとつ覚えているのは、大きな鐘。
大きな鐘が、薄暗い広い部屋の中で、
ゆっくりと揺れている。
斜め向こう側から、こちら側へ……。
こちら側へ来た鐘は、今度は反対側に揺れていく。

 鐘といっても、クリスマスに使うような形の鐘。
西洋式の鐘である。
黒い鐘で、鐘全体が、何かにつり下げられて、揺れる。
音は出ない。

 私はそれを夢の中で見たのだと思う。
よく夢の中に出てきた。
私がかなり大きくなるまで、よく夢の中に出てきた。
だから私はその夢を、すでに赤ん坊のときに
見ていたにちがいない。

 私にとって、いちばん古い記憶といえば、
その鐘の記憶である。
ただここで「鐘」と書いたが、
丸い大きな鉄球のようなものだったかもしれない。
「鐘」と思うようになったのは、
ずっとあとになってからかもしれない。

●トイレ

 それが古い記憶だったということは、
あとになってわかること。
たとえば私は兄が、死んだ日のことを覚えている。
土間に、無数の下足が、並んでいた。
今でも静かに目を閉じると、その下足が
まぶたの中に浮かんでくる。

 そのことをいつだったか、母に話すと、
母は、こう言った。
「あれは、健ちゃん(=兄)が、なくなった日の
ことや。
おまえは、まだ2歳やった」と。

 つまり私は2歳のときのことを覚えていることになる。
遠い昔のことと言うよりは、記憶の断片に過ぎない。

 ほかにもいろいろと、断片的な記憶はある。
しかしどれが古いのか、どちらが古いのか、よくわからない。
が、おもしろいことに、そのころの記憶というのは、
何かストーリー性のあるものではない。

 居間の板間の模様とか、天井の木の節穴とか、
そういったもの。
たとえば私はそのころから、家のトイレを使うことが
できなかった。
「そのころ」というのは、自分で排便するように
なったころをいう。
年齢的には、やはり2歳前後ではなかったか。

 私の家のトイレは、家の中でもいちばん奥の、
暗いところにあった。
ボットン便所。
明かりはない。

 そのトイレの壁の黒いシミが、ある日、動いている
ように見えた。
それでそのトイレへ入れなくなった。

 私は大便のほうは、トイレの前に一度紙を敷いてもらい、
その上でしていた。

●家族

 こうして私の幼児期は、始まった。
言い忘れたが、私には生まれたとき、2人の兄と、
1人の姉がいた。
もう1人、兄がいたが、私が生まれる前に
生まれるとすぐ、死んでいる。

 いちばん上の兄は、先に書いたように、
私が2歳前後のときに、死んでいる。
だから私には、兄弟といえば、兄と姉という
ことになる。

 私は「末っ子」として生まれ、育った。
そういう点では、母親の愛情をたっぷりと受けて育った。
「愛」というよりは、「溺愛」だったかもしれない。
そのことは、ずっとあとになって、伯父や伯母から
聞いた。
「おまえは、お母さんに、かわいがってもらったぞ」と。

私は毎晩、小学2年生になるころまで、母親の
ふとんの中で、いっしょに寝た。
ときどき、祖父のふとんの中で寝たこともある。
ひとりで寝ることは、めったになかった。
母の在所(実家)へ遊びに行ったときも、
伯父や伯母と寝た。

 これは母の生まれ育った在所の習慣だったようだ。
いとこの中には、小学2、3年生まで、親と
いっしょに寝た人は多い。

 そういう習慣が残っているのか、私は60歳を過ぎた
今でも、ひとりで寝るのが苦手。
いつもワイフとひとつの布団の中で、寝ている。
どんなはげしい夫婦げんかをしても、寝るまでには
仲直りする。
あるいはけんかをしていても、いっしょに、寝る。
たまに怒ってひとりで寝るときもあるが、2日つづいて
ひとりで寝ることはない。

 一方、兄や姉はどうだったかは、知らない。
兄とは9歳、年が離れている。
姉とは5歳、年が離れている。
たぶん、兄も、姉も、幼児のころは、母といっしょに
寝たにちがいない。

●父

 そのころの私にとって、父といえば、悲しい思い出
しかない。
父は生涯にわたって、一度も、私を抱いたことがない。
手をつないだこともない。
会話らしい会話も、したことがない。

 父は結核を患っていた。
そのため母は、私を父に近づけなかった。
……といっても、私が生まれたころには、
父の結核は、治っていた。
アメリカ軍がもってきた、ペニシリンという
強力な治療薬のおかげである。

 が、母は、そうは思っていなかった。
私が小学校に入学するころまで、母は毎回、
父の使った食器を、熱湯で消毒していた。
母には、そういう性癖があった。
潔癖症というか、不潔嫌悪症というか……。

 が、私と父を分けたのは、何よりも、父の
酒乱だった。
私が3、4歳になるころには、父は、数晩おきに
酒を飲み、暴れた。
ふつうの暴れ方ではない。

 障子戸をこわしたり、ふすまに穴を開けたりした。
食卓をひっくり返したこともある。
ふだんは学者肌の静かな父親だったが、酒が入ると
人が変わった。
私は恐ろしくて、父には近づけなかった。
静かなときでも、私にはそれが信じられなかった。
その向こうにある父の姿に、おびえた。

 そういう私だったが、祖父母と同居していたおかげで、
飢餓感はほとんどなかった。
今にして思えば、祖父が、私の父親がわりだった。
祖父は、私を、息子のようにかわいがってくれた。
ほしいものは、何でも買ってくれた。

●兄弟

 今でもときどき、仲のよい兄弟を見ると、こう思う。
「いいなあ」と。
しかし私のばあいは、ちがった。
年齢が離れていたせいもある。
私は兄といっしょに遊んだ記憶が、まったくない。
姉とも、ほとんど、ない。
町内でみなといっしょに、川へ泳ぎにいったようなとき、
近くでいっしょに泳いだ記憶はある。
あっても、その程度。

 しかし苦楽をともにしたとか、そういう思い出はない。
また当時は、男が女といっしょに遊ぶということは、
なかった。
遊び方も、ちがった。
だから私は、いつも近所の同年齢の子どもたちと遊んだ。
もちろん相手は、すべて男だけ。
女と遊ぶと、すかさず「女たらし」という
レッテルを張られた。
それは何よりも、不名誉なことだった。

 こうした傾向は、私が中学校を卒業するまで
つづいた。
そういうこともあって、私は家の中では、
いつも孤立していた。
話し相手もいなかった。

 母にしても、私を溺愛はしたが、親絶対教の
信者で、話し相手にはならなかった。
少しでも反抗めいたことを口にすると、すかさず
叱られた。
私の家では、親は絶対的な存在だった。

●故郷

 楽しかったのは、母の在所へ行くこと。
私は岐阜県の美濃市という田舎町で生まれ育った。
田舎といっても、町中にある商家だった。
全体でも33坪しかない。
その土地いっぱいの、2階建ての家だった。
もちろん庭などない。
家の奥に、天窓があり、そこからわずかに光が
差すところがあった。
その光が差すところが、土がむき出しの土間に
なっていた。
私は子どものころ、そこが「庭」と思っていた。

 が、母の在所は、ちがった。
岐阜県の山奥にあった。
板取村という小さなだった。
前に川が流れ、うしろに低いが、遊ぶのには
こと欠かない、山が連なっていた。

 私は母の在所では、思う存分、羽を伸ばす
ことができた。
みな、親切だった。
それにいとこたちの中でも、ほぼ最年少という
ことで、みなにかわいがられた。
そんなこともあって、私にとっての故郷といえば、
美濃市というあの町ではなく、
板取村という、あの村をいう。

 今の今でも、都会の街並みは、私の肌には
合わない。
田舎の緑が、好きというわけではないが、
緑の中にいたほうが、気が休まる。

【少年期】

●円通寺

 私は毎日、学校から帰ってくると、そのまま近くの
寺の境内へ遊びに行った。
仲間たちは、みな、そこにいた。
「円通寺」という、さんが住んでいる寺だった。

 缶蹴り、「駆逐・水雷・戦艦」、コマ回し、草履(ぞうり)取りなど。
「駆逐・水雷・戦艦」という遊びは、鬼ごっこのようなもの。
(駆逐艦は潜水艦より強く)、(潜水艦は戦艦より強く)、
(戦艦は駆逐艦より強い)という遊びである。
帽子のかぶり方で、それを決めた。
まだ戦時中の遊びが色濃く残っている時代で、
時には、「処刑ごっこ」というのもした。

 敵兵をつかまえてきたという想定で、鬼の子どもを
壁に立たせ、5~6メートル離れたところから、
ボールを当てるという遊びだった。
痛くはなかったが、恐ろしかった。

 その円通寺の向こうは、低い山になっていた。
私たちは山の中に「陣地」を作り、その中に入って
遊んだ。

●陣地

 陣地について、もう少し詳しく書いておきたい。

 私たちはその山をはさんで、隣町の子どもたちと、
毎日、戦争ごっこをした。
「ごっこ」というよりは、本気に近かった。
そのため、私たちは、山の中に、陣地を作った。
今風に言えば、「ゲリラ戦ごっこ」。

 まず地面に軽い穴を掘る。
まわりを木で覆い、その上から、枝や葉で小屋を隠す。
大きな陣地になると、ドアまでつくる。
中に、棚や、寝場所まで作る。

 けもの道のようになった「道」から、ぜったいに
見えないように作る。
もし敵に見つかったら、陣地は、容赦なく破壊された。
もちろん私たちも、敵の陣地を見つけたら、
容赦なく、破壊した。

 時には、敵の陣地の中に、人糞をばらまくこともあった。
だれかが大便をしたいというと、その子どもを
敵の陣地の中へ連れていき、そこで大便をさせた。

 ときどき破壊しているとき、敵に見つかることもあった。
そこでつかまると、敵に、リンチされた。

 いろいろな方法があったが、いちばんこたえたのが、
チxチxに、かぶれの木の樹液を塗られること。
あれを塗られると、そのあと1週間近く、チxチxが、
まっかに腫れた。
小便も、思うようにできなかった。

 私たちも敵を見つけて、つかまえると、同じような
ことをした。
石を投げ合ったこともある。
今でも私の頭には、そのときにできた傷が残っている。

●道草

 当時は、学校帰りに道草を食うということは、
子どもたちにとっては、当たり前のことだった。
私たちは学校からの帰り道、あちこちで遊びながら、帰った。
まともに、つまりまっすぐ家に帰るなどということは、
ほとんどなかった。

 学校のすぐ横に、小倉公園という公園があった。
公園といっても、小高い山。
小さな動物園もあった。
たいていはその山で、1~2時間は、遊んで帰った。

 それから町には、細い路地がいたるところにあった。
美濃市という町は、昔から和紙の産地として
知られている。
古い町である。
そのこともあって、大通りは直線的だったが、
一歩、大通りからはずれると、そこには、路地が
たくさんあった。
私たちはそれを、「探検ごっこ」と呼んでいた。

 ときに石垣に、はいつくばいながら、民家と民家の
間を抜けていったこともある。
あるいは民家の家の中を、すり通りしていったこともある。
昔からの商家は、どれも、細長いつくりになっていた。
そういうことをしながらも、思い出のどこをさがしても、
だれかに叱られたという記憶がない。

 私たちの要領がよかったのか。
それともまだ世間に、牧歌的な温もりが残っていたのか。
どうであるにせよ、子どもたちは、今よりずっと、
自由だった。
世間もおおらかだった。
あるいはそれだけ放任されていたのかもしれない。

 また「団塊の世代」と言われるほど、当時は、子どもたちは
どこにでもいた。
夕方になると、道路のあちこちから、子どもの声が
聞こえてきた。
一方、親たちは親たちで、生きていくだけで精一杯。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。

●長良川

 美濃市といえば、長良川。
世界一の清流と言っても、過言ではない。
もっとも、それを知ったのは、おとなになってから。
あちこちを旅行するようになってから。
私にとって「川」というのは、長良川をいった。
また世界中の川も、長良川のようなものと思っていた。
が、これはまちがっていた。
 
 私はその長良川で、泳いで育った。
まだプールのない時代で、「泳ぐ」といえば、「川で泳ぐこと」を
いった。
また学校の水泳指導も、川でなされた。

 当時は、水泳能力に応じて、白帽子に黒い線を入れてもらえた。
こまかいことは忘れたが、1本線→2本線→3本線へと、進んでいった。
中学生になるころには、みな、2本線とか3本線になっていった。

 その長良川。
泳ぐだけが楽しみではない。
水中眼鏡をかけて泳ぐと、そのまま天然の水族館。
そこはまったくの別世界だった。
もちろん魚を釣ることもできた。
モリで、魚を突くこともできた。

 私は川での泳ぎは得意だった。
渦を巻くような激流の中でも、平気で泳いだ。
一見、危険な遊びのように思う人もいるかもしれない。
しかし川の渦は、巻き込まれるものの、
渦に身を任せていると、一度、川底に着いたあと、やや川下のほうで、
体がまた浮いてくる。
けっして、あわててはいけない。
渦に身を任す。
その瞬間は、洗濯機の中でグルグル回ったようになる。
それを知らない人は、そこであわてる。
あわててバタバタする。
だから溺れる。

 泳ぎ方も、川での泳ぎ方と、プールでの泳ぎ方は、ちがう。
川では、流れをうまくとらえ、その流れに乗って泳ぐ。
体をななめにして立ち泳ぎをすれば、たいした体力を使うこともなく、
川の向こう側まで渡ることができる。

 当時の子どもたちは、みなその泳ぎ方をよく知っていた。
 
●ひもじさ

 あの時代を総称して言えば、「ひもじさとの闘い」
ということになる。
子どもたちは、みな、いつも腹をすかしていた。
食べるものはそれなりにあったが、育ち盛りの
子ども用というものは、少なかった。

 私はもっと、肉類を食べたかった。
が、家で出される料理といえば、野菜の煮込んだのとか、
そういうものばかりだった。
ハムにせよ、ソーセージにせよ、私たちはめったに
口にすることはできなかった。
寿司にしても、正月か、あるいは風邪をひいて、
病気になったようなときだけ。

 よく覚えているのは、バナナ。
今でこそ、一房、7~8本、まとめて買う。
が、当時は、バナナは1本売り。
それが、ふつうだった。
ミカンも、1個売り、りんごも、1個売り。

 一方、学校の給食では、よくクジラの肉が出た。
私たちには、ごちそうだった。
それにおいしかった。
ミルクがたっぷりと入った、クリーム・シチューなどは、
家ではぜったいに食べられないものだった。

 で、ある日私は決心した。
「おとなになったら、腹一杯、ソーセージを
食べてやる!」と。
いつだったか、町内で旅行に行ったとき、
前に座った子どもが、それをおいしそうに
食べていた。
そのとき、そう決心した。

【思春期】

●思春期

 子どもには思春期という節目がある。
当時、すでに思春期という言葉は、使われていた。
「性にめざめる時期」という意味で、使われていた。
私とて例外ではない。
が、私がそれを意識したのは、かなり早い時期だった。
みなもそうだったのかもしれないが、そういった類(たぐい)の話は、
恥ずかしいものという先入観があった。
私の時代には、とくにそれが強かった。

 いろいろな経験をした。
が、それとて、ごくふつうの子どものそれだった。
私も、小学5、6年生のころから、女性に猛烈に
興味を引かれるようになった。
女性というより、「女の体」のほうだった。

 しかし先にも書いたように、私の時代には、女の子と遊ぶことさえ
タブー視されていた。
「男」と「女」の色分けが、たいへんはっきりしていた。
今でこそ、男が赤いシャツ、赤い靴下、赤い下着を身に着けても
だれもおかしいとは思わない。
が、当時は、そういうこと自体、考えられなかった。

 その上、母はきわめて男尊女卑意識、家父長意識、上下意識の
強い人だった。
そのこともあって、たとえば私のばあい、台所に立っただけで、
母に叱られた。
「男が、こんなところに来るもんじゃ、ない!」と。

●愛情飢餓

 私はいつも愛情に飢えていた。
それはおとなになってからわかったことだが、私はいつもだれかに
恋をしていた。
幼稚園児のときも、幼稚園から帰ってくるたびに、「Y子ちゃんが
好きだ」と言っていたという。
私は覚えていないが、母がそう言っていた。

 つづいて小学3年生のころは、山口K子さんという女の子。
小学5、6年生のころは、相宮F子さんという女の子。
中学に入学すると、小坂Y子さんという女の子。
つぎつぎと恋をしていった。

 私のばあい、すぐ「結婚」という言葉を使った。
「好き」という代わりに、「結婚しよう」と言った。
「好き」という言葉の意味を知らなかったせいだと思う。
「好きどうしなら、結婚する」と、そんなふうに考えていた。
ほかの男たちが、どう考えていたかは知らない。
しかし私のばあいは、そうだった。

 しかし私が中学2年生になるまで、どれも、秘められた思いでしか
なかった。
自分の心を打ち明けるということはなかった。
あの日も、そうだった。

●はじめての電話

 中学に入ってから、小坂Y子さんという女の子が好きになった。
毎日、Y子さんのことばかり考えていた。
そのY子さんというのは、私が幼稚園児のときに好きだったという
女の子である。
幼稚園児のときから、6年を経て、再び好きになったということになる。

 で、ある日、爆発しそうな心を抑えることができず、10円玉を
もって、電車駅のところまで自転車で走った。
家にも電話はあったが、家からは、かけられなかった。
それで電車駅を出たところにある、公衆電話を使うことにした。

 心臓は、今にも爆発しそうだった。
はげしい動悸だけは、よく覚えている。
そして交換手を通して、電話をかけた。
電話はつながり、Y子さんの母親が、電話口に出た。
つづいてY子さんを、その向こうで呼ぶ声がした。
「Y子!」「Y子!」と。
私は夢中だった。
何も考えられなかった。
 
 しばらくすると、……というより、数秒もすると、
受話器を取る音がして、Y子さんが、電話に出た。

「何?」と。

 その瞬間、私ははじめて気がついた。
電話をしなければとは思ったが、何も用事はなかった。
「何?」と聞かれたものの、そのあとの言葉がつづかなかった。
私は、「ぼくです……」と言っただけで、あわてて電話を切った。

 切なくも、淡い初恋は、こうして終わった。

●ゆがんだ心
 
 私の心はゆがんでいた。
「好きだったら、好き」と言えと、私は今、生徒たちにそう教える。
が、私には、それができなかった。
Y子さんのことを好きなはずなのに、私はそれ以後、むしろ嫌っている
ような態度を繰り返した。

 ひどくプライドが傷つけられたように思ったのかもしれない。
理由はわからないが、ともかくも、私は、私のほうからY子さんを
避けるようになった。

 思春期特有の子どもの心理とも考えられるが、それ以上に、私の
心はゆがんでいた。
今にして思うと、それがよくわかる。

 私の中には、いつも、もう1人の「私」がいた。
いつその「私」ができたのかは知らないが、その「私」が、そのつど
現れては、本当の「私」をじゃました。

 よく覚えているのは、小学5年生のとき、好きだった相宮F子さんとの
事件である。
私はある日、F子さんがいないときを見計らって、F子さんの机の
中からノートを取り出し、それに落書きをしてしまった。

 そのあとの記憶は断片的でしかないが、F子さんは、さめざめと
泣いていた。
その泣いている姿を見て、2人の「私」が私の中で、別々のことを
言っているのを覚えている。
「どうして、そんなバカなことをしたのだ」と、私を責める「私」。
「ザマーミロ!」と、それを喜ぶ「私」。

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