最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

●子ども時代

2010-03-29 10:28:53 | Weblog


●2人の「私」

 ……と書いても、この程度の思い出は、だれにでもある。
私だけが特別だったとは思わない。
が、私のばあい、この事件が、2人の「私」を知るきっかけになった。

 話は教育的になるが、ふつう「素直な子ども」というときは、
(心の状態)と(表情)が一致している子どものことをいう。
うれしかったら、うれしそうな顔をする。
悲しかったら、悲しそうな顔をする。
もちろん好きだったら、「好き」という。

 が、私のばあい、そのつど、もう1人の「私」が、それをじゃました。
じゃまするだけならまだしも、正反対の「私」となって、外に現れた。
そのため、私はよくいじけた。
ひがんだ。
すねた。
それに意味もなく、つっぱった。

 わざと相手を悲しませたり、苦しめたりすることもあった。
で、そのたびに、つまりいつもそのあとに、深い後悔の念にとらわれた。

●成績

 私は子どものころから、心の開けない人間だった。
母子関係が不全だった。
父はいたが、先のも書いたが、「形」だけ。
形だけの父親。
母の心は、父から完全に離れていた。
それもあって、落ち着かない家庭だった。

 が、子どものころの私を知る人は、みな、こう言う。
「浩司(=私)は、朗らかな、明るい子だった」と。

 しかし当の私は、そうは思っていない。
私はいつも仮面をかぶっていた。
つまり、だれにでもシッポを振るタイプの子どもだった。
シッポを振りながら、自分の立場をとりつくろっていた。

 だから家に帰ると、いつもドカッとした疲れを感じた。
それなりにみなと、うまくやるのだが、そんなわけで集団が苦手だった。
運動会も遠足も、自ら「行きたい」と思ったことは、めったになかった。
小学生のころのことは、よく覚えていないが、中学生になってからは、
その傾向がさらに強くなった。
 
 それが思春期になると、攻撃的な性格となって
現れてきた。
攻撃的といっても、自分に対する攻撃。
私は典型的な、ガリ勉となった。

 当時、私の中学には、1学年、550人の生徒がいた。
11クラス、550人である。
その学校で、3年生のとき、1度たりとも、2番になったことはない。
当時は9教科で順位を争った。
(主要4教科)x100点、(英語、保健、技術、美術、
音楽の5教科)x50点の、合計で、650点満点。
そうした定期試験で、640点を取ることもあった。
2番の男とは、いつも40~50点の差があった。

 勉強を楽しんだというより、自虐的な勉強だった。

●中学時代

 そんなわけで中学時代の思い出は、どこかみな、
灰色ぽい。
というより、中学生になって、思い出か、
色が消えてしまった。
が、思い出が、ないわけではない。

クラブは、コーラス部に属していた。
小学時代は、大の音楽嫌いだった。
その私がコーラス部?

 これにはちゃんとした理由がある。
きっかけは、映画『野ばら』を観たこと。
ウィーン少年合唱団が主演する映画だった。
それを観て、突然、音楽が好きになった。
……ということで、中学へ入学すると、同時に、
私はコーラス部に籍を置いた。

 ほかに毎週、柔道場へ通っていた。
かなりいいとろまで行ったが、左肩の鎖骨を2度つづけて骨折。
それをきっかけに、柔道からは遠ざかった。

 多感な少年だった。
何でもした。
その上、器用だった。
魚釣りもした。
山登りもした。
何でもした。
したが、どれもストーリーとしては、つながっていない。
毎日がバラバラだった。
だから記憶としては、どれも断片的。
こま切れになったまま、そこに散らばっている。

●飛行機
 
 少し話は前後する。 
小学生のころの私は、パイロットにあこがれた。
空を飛ぶ飛行機を見ただけで、興奮状態になった。
実際、木で翼を作り、2階の窓から飛び降りたこともある。
それに当時は、ロケット作りが流行(はや)った。

 短い鉛筆を長くして使う道具がある。
名前は知らない。
細い金属製の管で、ロケット作りには最適だった。
長さは10センチほど。
それに花火の火薬をほぐして詰め、それを飛ばして遊ぶ。
うまく作ると、数十メートル近く、シューッと
音を立てて飛んだ。

 もうひとつは、ピストル。
市販のおもちゃんの鉄砲を改造して、本物に近いピストルを作って
遊んだ。
結構、威力はあった。
至近距離からだと、1~2センチの板なら、簡単に撃ち抜いた。
ときに3センチくらいの板を撃ちぬくこともあった。
私たちは、その威力を競いあった。

 ……こんなことを書くと、なんとも殺伐とした子どもを
思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかし当時は、そういう時代だった。
町中で、空気銃を使ってスズメを撃ち落して遊んでいるおとながいた。
川へダイナマイトを放り投げて、魚を採っているおとなもいた。

 が、仲間のひとりが、それで自分の手のひらを撃ち抜くという
事件が起きた。
まぬけな男だった。
おかげでその直後、その遊びは、学校からきびしく禁止されてしまった。

 ともかくも、私は「飛ぶ」ということが好きだった。
今でも飛行機は、模型であれ、戦闘機であれ、あるいはラジコンであれ、
鳥であれ、何でも好きである。

●夢

 で、ある時期は、本気でパイロットになることにあこがれた。
しかしその夢は、あっさりとつぶれた。
「近眼の人は、パイロットになれない」と言われた。
そのころから私は、近眼になり始めた。

 かわりに……というわけではなかったが、私はモノを作るのが、
一方で、好きだった。
工作の時間だけは、楽しかった。
とくに木工が好きだった。
学校から帰ってくると、いつも家の中で、何かを作っていた。
そのためいつしか私は、「大工になる」という夢を持ち始めた。

 学校からの帰り道、新築の家があると、私はその家を近くでじっと
見ていた。

 ほかに……。

 が、何よりも強く思ったことは、「いつか、この町を出る」ということ。
美濃市という町は、三方を、それほど高くはないが、山々に囲まれている。
その中央に長良川が流れ、私の家の近くにも山がある。
「息苦しい」と感じたことはないが、その反動からか、
海の見えるところへ行くと、言いようのない解放感を覚えた。

 だからいつもこう思っていた。
「おとなになったら、海の見える町に住もう」と。
「仕事が何であれ、海の見える町に住もう」と。

●家族

 再び家族のこと。

そういう点では、私の家族は、関係が、
たがいにきわめて希薄なものだった。
父と母が、しんみりと話し合っている姿など、
記憶のどこをさがしても、ない。
母はわがままな性格の女性で、いつも「私がぜったい、正しい」という
姿勢を崩さなかった。
一見、腰の低い人に見えたが、それは母一流の仮面だった。
(表で見せる顔)と、家の中で見せる(裏の顔)は、正反対だった。
また好き嫌いのはげしい人で、自分が気に入った人には、とことん
親切にする。
その一方で、自分が嫌っている人には、とことん意地悪をした。

 それに迷信深く、一貫性がなかった。
足の靴を買うにも、「日」を見て決めて買っていた。
「今日は大安だからいい」とか、「仏滅だからだめ」とか。
「時間」も決めていた。
「昼過ぎには、靴を買ってはいけない」と、母に何度も叱られたのを
よく覚えている。

あるいは、「靴は、脱いだところで履け」とも、よく叱られた。
ふとんにしても、頭を北向きにしただけで、母は狂乱状態になった。
実際には、北向きにしたことは、なかったが……。

 そういう母に、父ははげしく反発していたにちがいない。
私が小学生のころには、さらに酒の量がふえ、数日おきに、近くの
酒屋で酒を飲んでは、暴れた。
祖父母も、70歳を超えるころには、急速に元気をなくしていった。

 私は孤独だった。
さみしかった。
心細かった。
それに不安だった。
「この家は、どうなるのだろう」と、毎日、そんなことばかり考えていた。

●自転車店

 稼業は、自転車屋だった。
「自転車屋」というと、どこか嘲笑的な響きがある。
これは私自身の、多分に偏見によるものだが、私はいつもそう感じていた。

が、大正時代の昔には、花形商売だったらしい。
戦後まもなくまで、そうだった。
またそれなりに、儲かった。
祖父の道楽ぶりは、町でも有名だった。
「芸者を10人連れて、料亭ののれんをくぐった」というような話は、
よく聞いた。
祖父の自慢話のひとつにもなっていた。

 が、私が小学生のころには、すでに家計は火の車。
中学生になるころには、祖父も引退し、それがさらに拍車をかけた。
近くに大型店ができ、そこでも自転車を売るようになった。
何とかパンク張りで生計をたてていたが、それにも限界がある。

 店といっても、7~8坪もない。
そんな狭いところに、自転車を20~30台並べていた。
おまけに、そのうちの半分以上は、中古車だった。
「中古自転車の林」と、よく言われた。
 
 ……いろいろあった。
ということで、私は、自転車は好きだが、自転車屋という商売は好きではなかった。
商売そのものが、好きではなかった。
ウソと駆け引き。
その繰り返し。

美濃市という町は、商圏は名古屋市に属しながら、商習慣は、関西の影響を
強く受けていた。
「売り値」などというものは、あってないようなもの。
その場での客とのやり取りの中で、決まる。
こういった世界では、口のうまい人、うそが平気でつける人でないと、
務まらない。

 が、私が自転車屋という職業を嫌っていたのは、今から考えると、
母の影響だと思う。
母は、自転車屋という職業を、心底、軽蔑していた。
いつも、「ド汚ねえ(どぎたねえ)」と、嫌っていた。
「たいへん汚い仕事」という意味である。
手にほんの少し油がついただけで、母は、それが落ちるまで、何度も
何度も手を洗っていた。

 事実、母は、自転車屋の親父と結婚しながら、生涯にわたって、
ドライバーすら握ったことがない。
それについて、一度、私が母を揶揄(やゆ)したことがある。
すると、母は、こう言った。
「結婚のとき、おじいちゃん(=私の祖父)が、
女は店に立たなくていいと、言いんさったなも(=言ったから)」と。

 つまり父との結婚の条件として、店を手伝わなくていいと、
祖父が言ったという。
それを母は、かたくななまでに、守った。
守ったというより、それを口実に、店には立たなかった。

 そういう母を見ながら、私は私の心を作っていった。
私も自転車屋という職業を嫌うようになった。

●親絶対教

 今でこそ、こうして稼業や母の悪口を書けるようになった。
しかし当時の、私を取り巻く環境の中では、考えられなかった。
父は、親絶対教で知られる、「M教」という教団の熱心な信者だった。
宗教団体ではなかった。
正式には、「倫理団体」ということになっていた。
が、宗教団体的な性格も帯びていた。
宗教的儀式こそしなかったが、天照大神を「神」とたたえ、
天皇を絶対視していた。

 私の家でも、毎月のように、よく会合がもたれた。
その「M教」。
ここに書いたように、「親絶対教」。
私はいつしか、その教団を、そう呼ぶようになった。
「親(=先祖)は、絶対」と考える。

 いろいろな教義はあるが、核心を言えば、そういうこと。
父も母も、私が何かのことで口答えしただけで、私を叱った。
「親に向かって、何てことを言う!」と。
そしてそれと並行して、私は「産んでやった」「育ててやった」
という言葉を、それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。

 そこである日、私は、キレた。
私が高校2年生のときのことだったと思う。
母に向かって、こう言って、怒鳴り返した。

「だれがいつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
それは私と母の決別を意味した。
私が決別したというよりは、今にして思えば、母のほうが
私を切り捨てた。

●高校時代

 高校は地元のM高校に入った。
トップの成績で、答辞を読んだ。
が、それからの3年間は、私にとっては、2度と戻りたくない時代となった。
とくに高校3年生のときには、笑顔の写真が一枚もないほど、
私には苦しい時代だった。

 ある秋の夕暮れ時のことだった。
補習の授業を受けながら、私はこう思った。
「こんな日々は、いつ終わるのか。
早く終わるなら、命の半分を捨ててもいい」と。
私は赤い太陽が、山の端に沈むのを、ぼんやりとながめていた。

 私には、友だちがいなかった。
みなも、私のことを、いやなヤツと思っていたにちがいない。
私には、それがよくわかっていた。

 だから今でも、こう思う。
神様か何かがいて、もう一度、私をあの時代に戻してやろうかと聞かれたら、
私は、まちがいなく、こう答える。
「いやだ!」と。

●デート

 暗い話がつづいたので、明るい話もしたい。 

 中学時代はコーラス部に属していた。
そのこともあって、私は高校に入ると、合唱クラブに入った。
もうひとつ、化学クラブにもはいっていたが、こちらのほうは、
受験勉強を兼ねたものだった。

 その合唱クラブで、浅野Sさんという女の子を知った。
一目ぼれだった。
スラッとした、本当に美しい人だった。
笑顔がすてきだった。
それに色が白く、声もきれいだった。
しかし自分の気持ちを伝えるのに、1年以上もかかった。
私は子どものころから、「女性」が苦手だった。
女性の心が理解できなかった。

 その浅野Sさんにしても、私は、便をしない人だと思っていた。
つまりそれくらい、私の女性に対する感覚は、常識をはずれていた。

 が、高校2年生になったころ、打ち明けた。
「好きです」と。
それがきっかけで、2、3度、デートすることができた。
が、この話は、どういうわけか、みなが知るところとなってしまった。
同時に、担任の教師の耳に入るところとなった。

 私は職員室の別室に呼び出された。
叱られた。
「受験生が、何をやっている!」と。

●いとこ

 私には、60数人もの、いとこがいる。
母方の伯父、伯母が、12人。
父方の叔父、叔母が、4人。
それで60数人。
正確に数えたことはないが、それくらいはいる。
親戚づきあいの濃厚な家系でもある。

 このことは、ずっとそのあとになって、ワイフの家系と比べてわかった。
私の家系がふつうなのか、それとも、ワイフの家系がふつうなのか。
(ふつう)という言い方には、いろいろと問題がある。
あるが、相対的にみて、私の生まれ育った家系は、少なくともワイフの
生まれ育った家系とくらべると、「異常」。
つまりそれくらい、大きな(差)はある。 

 だから当初、つまりワイフと結婚してから、私は
ワイフの親類とつきあうのに、かなり戸惑った。
私がもっている生来的な常識は、ことワイフの家系では通用しなかった。

 が、悪いことばかりではない。
多くのいとこに恵まれたおかげで、私はそれなりにバラエティ豊かな
親戚づきあいをすることができた。

相手の家に自由に入ることができる。
遠慮なく、ものを言ったり、食べたりすることができる。
何か失敗をしても、すべて父や母のせいにできた。
そういう点では、親戚というのは、気が楽だった。

 言い換えると、いくら親しくても、相手が他人では、
そこまではできない。

●モノづくり

 木工が好きになったのには、理由がある。
昔は、自転車というのは、問屋から、木の箱に入れられて送られてきた。
自転車屋は、それを組み立てて売る。
そのときの木箱、それが残る。
だから自転車屋の店先には、木の廃材が、どこも山のようになっていた。

 厚さは1センチほど。
幅は10センチほど。
長さはまちまち、だった。
私はその廃材を使って、いろいろなものを作って遊んだ。
夏休みの工作にと、組み立て式のボートまで作ったことがある。
小学5年生ごろのことだと思う。

 私はそんなこともあって、モノを作るのが好きだった。
ある時期は、プラモデルに、夢中になったこともある。
当時は、マルサンという会社が、小さな飛行機を売りに出していた。
たしか「マッチボックス・シリーズ」とかいう名前がついていた。
値段は、30円。
よく覚えている。
組み立てると、私は手それを手でもち、家の中を走り回った。

 今でも、モノを作るのは好きだが、そういう「私」が
相互にからみあいながら、今の「私」になっている。
40歳を過ぎたころ、山荘を建てようと思ったのも、
その結果ということになる。
私とワイフは、毎週、現地へ出かけ、ユンボを操縦して、
土地の造成をした。
そのために、6年という年月を費やした。

●卒業

 私は何とか、高校を卒業した。
今で言うなら、いつ不登校児になってもおかしくない状態だった。
しかし不登校を許してくれるような、家庭環境でもなかった。
いくら学校がつらくても、家よりは、ましだった。
……というより、私には逃げ場がなかった。
学校からも、家からも追い詰められた。

 今、覚えているのは、ときに学校に向う自分の足が、鉄のように
重く感じたことがあるということ。
本当に、鉄のように感じた。
その足を引きずりながら、歩いた。

 だから「何とか卒業した」ということになる。
この言葉に偽りはない。

 このつづきは、また別の機会に書いてみたい。
(2010年3月2日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 はやし浩司のプロフィール 経歴 はやし浩司の私記 私記 思い出)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。