最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●思春期前夜

2009-02-25 09:06:26 | Weblog





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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      2月   25日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思春期前夜

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今は廃線となった、美濃町線。
かつては岐阜市と美濃市をつないでいた。
その美濃町線の美濃駅は、小さな展示館になっている。
私とワイフは、バスを待つ間、その展示館に入ってみた。
そこにB紙大の看板があって、こう書いてあった。

『チンチン・ビール電車』と。

昔は、美濃町線のことを、このあたりの人たちは、
「チンチン電車」と呼んでいた。
親しみをこめて、そう呼んでいた。
走るとき、そのつど、うしろにいた車掌が、
ひもを引いて、チンチンと小さな鐘を叩いた。
それで「チンチン電車」となった。

しかしどういうわけか、私は、その文句にひかれた。
「チンチン・ビール電車ねエ~」と。
デジカメで、写真にも撮った。
たぶん、電車の中でビールが楽しめるようにしたのだろう。
文字の背景には、ビールのジョッキが、描かれていた。

++++++++++++++++++++++

●「ノ・ビール電車」

一方、私が今住んでいる浜松市のほうでは、「チンチン」というのは、
チンチン。
男性のあれをさす。

で、昨日、その話を子どもたち(小5、6児)にした。
が、子どもたちは私の話を信じなかった。
それでデジカメの写真を見せてやった。
子どもたちは、それを見て、ゲラゲラと笑った。
が、それはそれ。

ここからは、少し話が、回りくどくなる。
少しがまんして読んでほしい。

そのクラスに、ズバ抜けて聡明な女の子がいる。
小学6年生の子どもである。
学校でもトップというが、実力はそれ以上。
容姿も美しく、いわゆる「モデル系」というタイプ。
静かにしていれば、ブンブンと男たちが群がる。
そんなタイプの女の子である。

が、ひとつだけ、欠点がある。
男勝(まさ)りの女の子で、どこからどう見ても、
男の子ぽい。
女の子らしくない。
「おてんば」という言葉に入りきれないほどの、おてんば。
口の利(き)き方も、男。
態度も、男。
雰囲気も、男。
そのくせ自分が男に扱われると、猛烈に反発する。
名前を、SKさんとしておく。

だからいつもほかの男のたちにからかわれる。
去年の終わりにも、ある男の子が、SKさんにこう言った。
「お前なア、もう少し男の子らしくしろよ」と。
これを聞いて、SKさんは、その男の子に飛びかかっていった。

で、昨日も、同じ男の子が、SKさんにこう言った。
「お前なア、もう少し、女の子らしく笑えよ」と。

……ということで、昨日の会話になった。

A男「お前、本当に、女か?」
SK「女の子だよオ~。ほら、ちゃんと、ピンクのセーターを着てるでしょ」
B男「ピンクだからといって、女の子とはかぎらないよ」
SK「ピンクは、女の子の色なの」
A男「ぼくのパンツは、ピンクだよ」

SK「ゲーッ、キモイ(気持ち悪い)。あんたのパンツ、ピンク?」
A男「ピンク色に近い、ピンク」
SK「何、それ?」
私 「そうだ。ぼくも、この前まで、赤いパンツをはいていた」
SK「ゲーッ、もっとキモイ」

B男「お前なア、女の子なんだろ。だったら、もっと女の子らしくしたら?」
SK「どうすればいいのさア?」
B男「笑い方を変えるとかさア……」
SK「どう笑えばいいのヨ~」
B男「ホホホとか、フフフとか、いろいろあるじゃん」

SK「それこそ、キモイ」
C男「お前って、本当に、女かア?」
SK「女の子だってばあ……」
C男「じゃあ、証拠見せろよ」
SK「エッチ、どスケベ、変態! あんたは変態よ」

そのとき、先ほどの「チンチン電車」の話に戻った。

私「チンチン・ビール電車に、『ノ』を入れたら、たいへんなことになる」
男児たち、即座に、ゲラゲラ笑い出す。
「ノ・ビールだってエ、ハハハ」と。
ひっくり返って笑っているのもいた。

それを見て、SKさん、きょとんとするばかり。
SK「どうして、みな笑うの」
A男「ノ・ビールって、おかしくねエのか?」
SK「ゼンゼン……?」
B男「チンチン・ノ・ビール電車って、聞いて、おかしくねエのか?」
SK「どうして、それがおかしいのよオ?」

C男「あのなア、お前って、バカかア?」
SK「バカじゃ、ないわよ」
B男「だからさあ、ハハハ」
私 「あのなア、みんな、笑わないということが、SKさんが女の子という
証拠だ」
男児「そうだ、そうだ。やっぱり、お前は、女だ」

SK「どうして笑わないと、女の子なの?」
みな、さらに腹をかかえて笑い出す。
私 「つづきは、お母さんに聞いてこい」
SK「お母さんなら、わかるの?」
私 「たぶん、ね、ハハハ」と。

A男「でもさあ、先生、どうしてお母さんなら、わかるのよオ?」
私 「それも、お母さんに聞けばいい。ちゃんと話してくれるから」
A男「そうかなあ……」
B男「うちのママだって、笑わないと思うよ」
私 「どうかなア……? ぼくにはわからないが、聞くだけ、聞いてみればいい」

たまたまそこへワイフがやってきた。

簡単に説明すると、ワイフもハハハと笑った。

A男「アッ、先生の奥さんも笑った……!」
SK「奥さん、どうしておかしいの?」
B男「先生の奥さんって、変態かア?」
ワイフ「おかしいわねエ……」
SK「ホント? どこがおかしいの?」と。

思春期前夜の子どもたちというのは、ざっと言えば、こういう状態。
こうして性的興味をふくらませながら、思春期へと突入していく。

私も久しぶりに大声で笑って、気分がすっきりした。
2009年1月23日、金曜日記。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

●赤いパンツ

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何を血迷ったのか、ワイフが赤いパンツ
を買ってきた。
赤といっても、濃い、血のような赤。
「これぼくの?」と聞くと、「そうよ」と。

私の世代で、赤いパンツをはくような男はいない。
「赤」は、「女の色」ということに決まっている。

私「フ~~ン」
ワ「何が?」
私「赤いパンツなんて、生まれて始めてだよ」
ワ「あら、そう。似合うわよ」
私「そうかなあ……」と。

たしかに作りは男性用。
腰にあたるゴムの部分が太い。
それにちゃんとあの部分が袋のようになっている。
しかし、だ。
肝心の穴がない。

私「なあ、これって、女性用じゃ、ないのかア?」
ワ「ちゃんと、男性用コーナーで買ってきたわよ」
私「店員さんが、まちがえてそこに置いたのじゃ、ないのか?」
ワ「そんなことないわよ」
私「……?」

しかし習慣というのは、恐ろしい。
小便のとき、思わず指先で、穴をさがしてしまう。
しかしもとから穴はない。
そこでパンツを指でさぐる。
で、そのとき、やっと気がつく。
「ああ、このパンツには、穴がないのだ」と。

で、教室で、こんな話をした。
わんぱくで、やりたい放題、したい放題の子どもが1人、いる。
小学3年生。
男児。
名前を、H君という。
そのH君に、それとなく、こう言ってみた。

私「あのなあ、ぼくのパンツ、赤だよ」
H「フン」
私「フンって、信じないのか?」
H「信ずるわけがない」
私「本当なんだ。本当に赤なんだ」
H「そんなわけないよ、先生。ウソをつくなら、もっとマシなウソをつきな」
私「何なら、見せてあげようか」
H「ハハハ」と。

子どもでも、信じない。

で、家に帰って再び、パンツの話。

私「やっぱり、このパンツは、女性用だよ」
ワ「だったら、このふくらみは、何よ?」
私「たしかに袋のようには、なっている。でもね、中には、あの部分が大きくふくらん
でいる女性もいるかもしれないよ」
ワ「そんな女性はいないわよ」
私「そうかなあ……?」と。

最近のパンツは、男性用でも、穴がないのか?
あるいは外国では、男性でも、穴のないパンツをはくのか。
しかしどうやって、用を足すのだろう。
考えれば考えるほど、わからない。

私「どうやって、おしっこをするんだ?」
ワ「横から出すとか、上から出せばいいんじゃない?」
私「あのなあ、それはたいへんだよ。いちいち亀の頭を引き出すように、
外へ引き出さなければならない。めんどうだよ」
ワ「じゃあ、そこに穴をあけてあげましょうか」
私「どうするの?」

ワ「ハサミで切ればいいじゃない?」
私「それはまずいよ。それにこんなパンツをはいていたら、交通事故にもあえない」
ワ「どうして?」
私「医者や看護士が、ぼくのことを変態と思うかもしれないよ」
ワ「今どき、思わないわよ」と。

ともかくも、赤いパンツは、はき心地が、どうもよくない。
落ち着かない。
自分の中にできた思考回路を変えるのは、容易なことではない。

私たちの世代の男たちは、ぜったいに赤いパンツは、はかない。
それが私たちの世代の常識なのだア!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ネット時代のもの書き】

++++++++++++++++++

今、情報の価値が、かぎりなく下がっている。
若い人たちを中心に、「情報はただ」という風潮が、
ますます強くなっている。
「お金を出してまで、買う必要はない」と考える人も多い。
また情報を発信する側も、それをよく知っている。
ただで使われることを前提として、発信する。

そのため、(情報の世界)が大きく変わりつつある。
よい例が、新聞であり、雑誌ということになる。
新聞については、ここ10年近く、発行部数は減る一方。
テレビと並んで、広告収入が、年間1000億円前後から、
この2年間だけをみても、10%前後減っている。

雑誌については、2008年度だけでも、「月刊・現代」を
はじめとして、「主婦の友」「読売ウィークリー」
「PLAYBOY・日本版」などが、休刊となった。
全体としてみても、「1995年の約39億部がピークだったが、
その後は長期低落傾向がつづき、07年には、26億部と、3分の
2に減った」(「朝日キーワード・2009→2010」とのこと。

若い人を中心に、「新聞で得る情報は、インターネットで」という
人がふえている。
私の家でも、「そろそろ夕刊をやめようか」という話も出始めている。
理由が、いくつかある。

たとえば朝刊にしても、毎日目を通すページというのが決まっている。
全体で、30ページ近くあるが、その中でも4~5ページのみ。
夕刊にいたっては、1~2ページのみ。
スポーツ欄は、ほとんど読まない。
あとはそのままゴミ箱行き。
無駄といっても、これほど資源の無駄づかいはない。

一方、インターネットからの情報は、速い。
おまけに読みたいときに、選んで読んだり、それに見たりすることができる。
この簡便性は、テレビにもない。

そこで改めて、情報の価値を、いかに利益につなげていくかを
考えてみる。

++++++++++++++++++++++++++

●私のHP(ウェブサイト)

私は多いときには、年間10冊あまりの単行本を出版したことがある。
しかしこの8年間、1冊も出していない。
かわりに、インターネットのほうで、自分の書いた原稿を発表している。
当初は読者数もかぎられていて、新聞や雑誌に原稿を発表することと
比べたら、読者数も少なく、その影響力は、微々たるものだった。
しかし私はインターネットのほうに、それまでになかった魅力を感ずる
ようになった。

それを列挙してみる。

(1) 地域性の打破…「もの書きは中央でないと生きていかれない」という
のが、若いころの常識だった。それだけの機会と人脈の交流が、地方
では得られなかった。今、その垣根がはずれた。
(2)独自性の追求…雑誌や新聞に原稿を書くときは、どうしてもそこに
編集者への(へつらい)が入る。しかしこの世界では、(書きたいこと)
が書ける。これこそまさに「言論の自由」。
(3) 世界の情報が直接手に入る…若いころは、その国の大使館員からでしか
手に入らなかったような情報が、容易に手に入る。多少のタイム・ラグ
(時間差)はあるが、1日を遅れることはない。
(4) 読者数の増加…最近になって、HPやBLOGへのアクセ数が驚異的に
伸びている。08年の2月に、月間10万件。さらに09年に入ってから
は、瞬間的ではあったが、月間30万件を超えるようになった。
(5) 無料で書く喜び…収入のない世界で生きる喜びというのがある。言うなれば
ボランティア活動ということか。損得のない世界でものを書くというのは、
それだけで、そのままストレートに生きがいに結びついてくる。
(6) 一貫性の追求…とくに育児においては、その人の人生観なり哲学が、混入して
くる。育児論は育児論だけではすまない。育児論を「城」とするなら、人生観
や哲学は、その土台ということになる。その土台まで踏み込んだ育児論を展開
することができる。
(7) 大量性の確保…たとえば本の出版では、体裁に合わせて、原稿の量を削ったり、
することが、当然のように行われている。しかしインターネットの世界には、
それがない。毎日書いたままを、同時に、世界に向けて発信できる。
(8) 速報性…書いた原稿を、瞬時に、マスコミの世界に配信できる。ものごとが、
瞬時、瞬時に片づいていく。読者の反応が、リアルタイムで返ってくるのも、
   インターネットならではの、利便性ということになる。

が、何よりもすばらしいのは、(1)出版社が介在しないこと(出版社にあたる関門
がない)、(2)本のような配本会社が介在しないこと(自分でリアルタイムに配信
できる)、という点がある。

紙製の単行本のばあい、原稿を書いてから、出版→配本まで、どんなに早くても
2か月はかかる。
ふつう売り込みから出版まで、3~4か月はみる。
(有名な作家のばあいは、出版社のほうから原稿依頼があるというが、私のばあい、
そういうことは、『東洋医学・経穴編』(学研)をのぞいて、一度もなかった。)
その間、郵送によるやりとりが、数回以上は必要。
出版社へも出向かなくてはならない。
さらにここ30年だけをみても、出版についての条件が、毎年のようにきびしく
なっている。

30年前には、印税も、5%をくだることはなかった。
6~12%前後、出版と同時に支払ってくれる出版社もあった。
それが今では、印税も売れ高払い。
5%以下というのも、珍しくない。
そのため印税の支払いも、売り上げが確定したあとということで、最低でも
3か月、ふつうは6か月待たされる。
あるいは1年待たされるというのも、珍しくない。

●マネーか名誉か

が、最大の問題は、インターネットでは、それを収入につなげるのが、
たいへんむずかしいということ。
広告収入ということもあるが、実際には、私のばあい、月額4000~
5000円程度に過ぎない。
(ほかに方法はあるのだろうが、私は試していない。)
そこで私はつぎの択一に迫られた。

「収入を取るか、それとも生きがいを取るか」と。
「ものを書いて、収入を得るか」、それとも「より多くの人に読んでもらうか」
という選択と考えてもよい。
そういえば、昔、A出版社の社長が、私にこう言った。
「金(マネー)を取るか、名誉を取るか、どちらかにしてほしい。
両方というのは、ムシがよすぎる」と。

で、私のばあいは、(生きがい)を取った。
(……と書くと、少しおおげさに聞こえるかもしれない。
実際には、どちらか一方をあきらめることにした。)

それに本を出版していた時代に、あの(めんどうくささ)というか、
限界をよく知っていたこともある。
校正だの訂正だの、いろいろある。
加えて、30年前には、初刷りでも、6000部~1万2000部がふつうだった。
それが今では、3000部。
この部数は、全国の書店にやっと1~2冊並ぶか並ばないかという数である。

「だったらすべて無料で提供しよう」と私は考えた。
頭の中には、毎日のように、書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
本を出版するときのように、たとえば出版社と連絡を取り合っている暇さえない。
書きたいことがつぎつぎと浮かんでくる。
それをパソコンのキーボードをたたいて、吐き出す。
それこそまさに、「肛門期の快感」(フロイト)ということになる。

たとえば量だけをみると、1か月に、40字x36行を1枚として、500~600
枚は、書いている。
その量は、単行本に換算すると、3~4冊分ということになる。
ふつう単行本のばあい、120~140枚で、1冊の本ができる。
それに私のばあい、ひとつのテーマにしばられるのが苦手。
苦手というより、苦痛。
教育論を書きながらも、宗教論や政治論についても、書いている。
若いころは東洋医学にも興味をもった。
最近は、宇宙に興味をもち始めている。

●著作権

問題は、著作権である。
私は過去においても、そして現在も、だれにも原稿の転載、流用を許可していない。
そういう申し出はよくあるが、すべて明確に断っている。
これは私のスタンス(立場)を明確にするために、重要なこと。
どこかでだれかに例外をつくると、それが元で、原稿が四方八方に散ってしまう。
収拾がつかなくなってしまう。
(だからもし、読者のみなさんが、私の書いていることと同じ内容、同じ文章を
見られたら、それはその人が、無断で使用していると考えてほしい。引用についても、
同じ。)

ともかくも、こうした裏話が、育児論、教育論に併せて、一貫性をもって書けるのも、
インターネットのすばらしさということになる。
読む、読まないの選択は、あくまでも読者のみなさんの手にゆだねるしかない。

この先、当然のことながら、「紙」という資源を使った本や雑誌は、衰退することは
あっても、その地位を再び確保するということは、ありえない。
アメリカでは、一時、インターネットに対して、新聞が奮闘した時代もあった。
ちょうど2000年ごろのことで、そうした問題がアメリカでも起きた。
アメリカの有力新聞社が善戦しているのを見て、「インターネット、恐れるに足りず」と
いう、社説をどこかの新聞で読んだこともある。
しかしそれはあくまでも一時的。
現在は世界的にみても、そのあと、新聞も、発行部数、読者数、広告収入ともに、
激減している。

で、最初の話に戻るが、要するに、広告媒体とインターネットをどう結びつけていくか。
それについても、新聞や雑誌とちがい、広告対象をしぼることによって、無駄な広告料を
節約することができる。
読者が若い男性なら、若い男性向けのコマーシャルを、ねらいうちする形で、配信する
ことができる。

しかしこれらのことは、同時に、これからのライター(=もの書き)の世界を、大きく変
えることを意味する。

(1) 発信する情報の量そのものが、多くなる。(1人のライターが発信する文書の量が
多くなり、管理するのがむずかしくなる。)
(2) 利益を確保する方法、手段が、複雑化する。(本のばあいは、対出版社との交渉
だけで、それ以上のわずらわしさはない。)
(3) 自己責任の幅が大きくなる。本のばあいは、出版社、編集者の目を通ることで、
責任を回避することができる。しかしインターネットのばあいは、ライターの
書いた文章が、直接、読者に届くことになる。インターネットの世界には、「炎上」
という言葉がある。書き方をまちがえると、思わぬトラブルの原因となる。

ともあれ、いろいろ問題が起きているが、私は過渡的な現象ととらえている。
インターネットにしても、10数年前に産声(うぶごえ)をあげ、やっと少年期にたどり
つきつつあるといった状態である。
(あるいはやっとヨチヨチ歩き始めた、乳幼児の段階かもしれない。)
不完全ではあるが、今を見て、将来を判断してはいけない。
これからの可能性を考えるなら、インターネットの世界は、この宇宙を包み込むほどの
広さと大きさがある。
「第二の産業革命」と位置づける人もいる。
それがどんな世界かは、私にもわからない。
が、しかしこれだけは言える。

それがどんな世界であるにせよ、この時代を生きる私たちの思いや考えは、未来永劫に
残るということ。
いくらインターネットが進化しても、それを作るのは、人間だからである。

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