突然ですが、皆さん最初にパチやスロを打ったときのこと覚えてますか?。
4月ということで新たに進学や就職した方も多い時期ではありますが、この時期をきっかけにパチ・スロを始めた方も多いと思います。
先輩・親・友人に連れられて足を踏み入れたホールは、ネオンできらびやかに飾られた新たな世界。運がよければお金までもらえるという魅惑の遊技場。
でも実態は・・・
ということで今回は私群裏好が初めてパチ屋に行ったことを少々。
私の馴れ初めは確か高校2年の時に親父に連れられてデジパチを打ったのが最初でした。当時の親父は時折デジパチを打ちに行っていたようで、大勝した時に5千円や1万をくれるのが通例となっておりました。ハナ垂れだった群裏は親父がパチに行った時は「勝ってくれ!!!」と心底応援してたものでした。
そんな状況のある週末の夕方、突然親父が「お前も行くか?」と言い出しました。恐らく前日にかなりの大勝してたので気分を良くしてたんでしょう。それにしても現役高校生を普通に連れて行くかね。。。
嬉しさ半分、緊張半分、初めて触れるパチンコ台・・・。その時行ったのが「パチンコ坂東」という国道17号線沿いにある古びたホールでした。この時に打ったのは大一の「ニュービッグセブン」だったと記憶しています。恐らく看板機種だったのでしょう、店の中央に位置する島に20台程度が並んでいます。客付きも良好。ここで親父に打ち方のレクチャーを受けます。
「いいか?、ここに入るとこの数字が回って3つ揃うと大当たり!そんでな、この下のがあの人みたいに開くからな!」と大当たりしている人を指差します。「そしてここの表示が”0”になったら打ち出し止めろ!、くれぐれも打ちすぎるなよ、打ちすぎた玉は損になるからな!」と言い残し、15枚程度の100円玉を渡されました。
ここで当時のホール遊戯状況を補足します。
あの頃は今のように全台に玉貸器が常備されている訳では無く、2台に一つの玉貸器が通例。玉を借りるのも100円玉でした(というか500円硬貨がこの世に誕生する前の話ですね)。100円入れて両手で水をすくう様にして玉を受け取り台の上皿に入れる作業。そしてドル箱はというと台上の棚に800個くらい入る小箱がありまして大当たりした場合はまずその箱に出玉を入れる。そしてその間に店員が足元に大箱を持ってきてくれるので、小箱から大箱に自分で玉を移すという作業があるのです。この簡単な大当たり時の作業がまた何ともいえない優越感のある作業なんですよw。今みたいにほぼ店員任せというのも味気無いと思うのは私だけかな。。。
また当時のデジパチはというと「10カウントX10ラウンド+αの出玉」が常識の時代。大当たりのアタッカーが開くと上手い具合にそのアタッカーに弾かれた玉がオマケチャッカーといわれる入賞口へ次々と入る仕組み。オマケチャッカーといいますがほとんどの玉はここに流れ、釘の調整にもよりますが2500~3500発程度の出玉が期待出来ました(実質オマケどころの騒ぎではないw)。また正規アタッカーのVゾーンに入らないとパンクするというのは今と変わりませんが、クギ調整次第ということもありパンクも頻繁にありました。その頃の交換率は40玉=100円が主流でしたから一度の大当たりで6000~8000円位出る仕組みでした(一回交換もデフォ)。今よりず~っとクギの役割が重要でした。(今みたいに大当たり一律1800個程度というルールは何てつまらないんだろう、ストローク調整で出玉が増えるなんて攻略の楽しみも昔のパチンコにはあったのですよ)
前置き長すぎ、続きは明日で。。。
4月ということで新たに進学や就職した方も多い時期ではありますが、この時期をきっかけにパチ・スロを始めた方も多いと思います。
先輩・親・友人に連れられて足を踏み入れたホールは、ネオンできらびやかに飾られた新たな世界。運がよければお金までもらえるという魅惑の遊技場。
でも実態は・・・
ということで今回は私群裏好が初めてパチ屋に行ったことを少々。
私の馴れ初めは確か高校2年の時に親父に連れられてデジパチを打ったのが最初でした。当時の親父は時折デジパチを打ちに行っていたようで、大勝した時に5千円や1万をくれるのが通例となっておりました。ハナ垂れだった群裏は親父がパチに行った時は「勝ってくれ!!!」と心底応援してたものでした。
そんな状況のある週末の夕方、突然親父が「お前も行くか?」と言い出しました。恐らく前日にかなりの大勝してたので気分を良くしてたんでしょう。それにしても現役高校生を普通に連れて行くかね。。。
嬉しさ半分、緊張半分、初めて触れるパチンコ台・・・。その時行ったのが「パチンコ坂東」という国道17号線沿いにある古びたホールでした。この時に打ったのは大一の「ニュービッグセブン」だったと記憶しています。恐らく看板機種だったのでしょう、店の中央に位置する島に20台程度が並んでいます。客付きも良好。ここで親父に打ち方のレクチャーを受けます。
「いいか?、ここに入るとこの数字が回って3つ揃うと大当たり!そんでな、この下のがあの人みたいに開くからな!」と大当たりしている人を指差します。「そしてここの表示が”0”になったら打ち出し止めろ!、くれぐれも打ちすぎるなよ、打ちすぎた玉は損になるからな!」と言い残し、15枚程度の100円玉を渡されました。
ここで当時のホール遊戯状況を補足します。
あの頃は今のように全台に玉貸器が常備されている訳では無く、2台に一つの玉貸器が通例。玉を借りるのも100円玉でした(というか500円硬貨がこの世に誕生する前の話ですね)。100円入れて両手で水をすくう様にして玉を受け取り台の上皿に入れる作業。そしてドル箱はというと台上の棚に800個くらい入る小箱がありまして大当たりした場合はまずその箱に出玉を入れる。そしてその間に店員が足元に大箱を持ってきてくれるので、小箱から大箱に自分で玉を移すという作業があるのです。この簡単な大当たり時の作業がまた何ともいえない優越感のある作業なんですよw。今みたいにほぼ店員任せというのも味気無いと思うのは私だけかな。。。
また当時のデジパチはというと「10カウントX10ラウンド+αの出玉」が常識の時代。大当たりのアタッカーが開くと上手い具合にそのアタッカーに弾かれた玉がオマケチャッカーといわれる入賞口へ次々と入る仕組み。オマケチャッカーといいますがほとんどの玉はここに流れ、釘の調整にもよりますが2500~3500発程度の出玉が期待出来ました(実質オマケどころの騒ぎではないw)。また正規アタッカーのVゾーンに入らないとパンクするというのは今と変わりませんが、クギ調整次第ということもありパンクも頻繁にありました。その頃の交換率は40玉=100円が主流でしたから一度の大当たりで6000~8000円位出る仕組みでした(一回交換もデフォ)。今よりず~っとクギの役割が重要でした。(今みたいに大当たり一律1800個程度というルールは何てつまらないんだろう、ストローク調整で出玉が増えるなんて攻略の楽しみも昔のパチンコにはあったのですよ)
前置き長すぎ、続きは明日で。。。
確か旅打ちで有名な名波さんもフローズン打ってたみたいですね。
それとフリーダムPJの情報ありがとうございました。私も最近HP
見に行ってないんです。。。他人に聞く前に自分で調べろってんで
すよね!ごめんなさいm(__)m
でも一気に見るのが本当に楽しみw
フローズンナイツだったかも(・ω・;)ウーン?
「7」を狙えば揃うと思っていたから
目押しの出来る人しか勝てないと
思っていました('A`)
「ただあのパネルのペンギンが可愛かったから」
が座った理由だったと思いますw
ps:フリーダムPJは今は3巻まで
発売しているんですよね?
オイラはレンタルで借りてます!
最近、HPも覗きに行っていないから
情報にうといです(;´∀`)ゴメンナサイw
3と7の当たりの奴は三共だったのかなぁ?
当たると打ち止めまでチャッカー何ラウンドでも
開いていました。確かリーチ目あってそれが出ると
ストップボタン不使用にするとすぐ当たるとかって
いう台だったと思う
なんせ小学時代の話なんでうる覚えです(^^;;;
(というか私より更に一世代前をご存知のようですね!)
ゼロタイガーや初代プラネットw。当時はヤマサで無くて日活(現ネット)
が出してましたよね?。それはXXだったかな???
皆さん凄すぎw。皆さんと飲んでパチ・スロ談義したらきっと一晩では
足りませんねwww
軍資金が今より格段に少なかったのでパチ・スロに対する真剣さが
違いましたよねw。クギ読みの目利きはそこらのプロに負けない位の
自信ありました(今は全くダメですけど)。
一発台なんかの大当たりの瞬間は今でも鮮明に思い出せます。
今より店も客もず~っと殺伐としてましたが古き良き時代でした(^.^)。
三共のフィーバー系やスノーバーズなんかはストップボタンが直接大当た
り抽選に影響してました。平和のストップボタンは大当たりに影響しない
ただのスキップ機能でした。(3・4年前にこのスキップボタンの付いた台
が復活しましたよね)
三共のフィーバー系は単純に連続回転中は各リールに移行法則があっ
てそれをストップボタンである程度操ることができたそうです。ですから
初期のフィーバー機には「リーチ目」が存在してたそうです。
(私もさすがにこの辺りは打ったことなくて雑誌の受け売り情報です)
また18・9年前のパチですとエキサイトマージャン・パールセブン・ブラボ
ーエクシード・ドリームX・トランプカード・永久連チャンのキャスターなんか
もありましたね。あの頃のデジパチは本気で燃えたなぁ~。
もちろん一発台・一般台・スロも好きでしたけど。
う~ん懐かしいなぁ~。よく覚えていないけどアレンジボ~ルを高校2年の時に打ったのが始めてかな。確か4とか13とか入りにくい番号が入って今のビンゴみたい一列そろったら何玉か増える仕組みだったような機種だったですね。一番はまったのは大学1年生の時の羽モノ「ゼロタイガー」だったね。このころ初めて今のCRの原型の「フィ~バ~」が登場したようです。大当たりは7 OR 3のみでしたね当時はww
スロットは初代「プラネット」が打ちはじめなんで相当古いね。よくリ~チ目がわからずオカマを掘られていましたよ。当時は大当たりの告知がなかったから当たって目押しをするのに一苦労したのを覚えていますよ。
高校になると、学校には行かず毎日ホール通いでした。
この当時は、大佐さんと同じ様な機種を打ってました。この頃が一番楽しかったと思います。
私の初打ちは3才(笑)手打ちでした(^-^)
小学校6年までは親と一緒に打ちに行っていました
羽根物やフィーバー台の初期の頃も打っていました
フィーバー台は当たると親に交代(笑)
よく当てましたよ(^-^)確か333と777だけが
当たりの台でストップボタンまでありました
あれって初期の頃は当たり直撃できたらしい…
中学に入るとさすがにまずいということで一時期やめて
高校に入ってから再開。ファンキー7、麻雀物語
ビックシューター、セイヤ、スーパーコンビなんか
よく打ちました
初スロもこの頃
チャレンジマンでフルーツ集中引いて当時としては
すごい金額勝った記憶があります…今思えば5000マイ
くらい出したのかな?