オベロン会ブログ

英米文学の研究会、オベロン会の専用ブログです。

オベロン67号ができました!

2010-12-23 | てこな姫
オベロン会の刊行物、
『オベロン』の第 67 号が刊行されました。


今号は4本の論文掲載です。



羽矢謙一 「孤独な音色――アイリッシュロイヤリストの悲劇」

川井万里子 「『リア王』の時代背景」

鶴見精二 「パララクス、線、鎖――『メイスンとディクスン』をめぐって」

千葉康樹 「脚注偏愛の編集者――ジョン・ニコルズと『十八世紀文学逸話』」



定価 2,000 円にて、南雲堂から販売しています。

お求めの方は、南雲堂までお願いします。



<編集担当者のつぶやき>

「いやー。今回は、図版が多くて、とにかく大変でした! 
 ページ数も多かったし!

 Indesign も1年ぶりに使うものだから、いろいろ忘れてて、
 すっごい手間取りました。
 最後は、大あわての編集になりましたが、
 編集上のミスが最小限であることを祈ります……。

 来年は、余裕をもって編集したいので、その分、
 原稿集めを早い時期からがんばります



では、みなさん、よいお年を!!


12月例会のご報告

2010-12-21 | ねるど
12月です。
師走です。
今年も、残すところわずかとなりました。

毎年の恒例にしたがって、12月例会は 通常よりも1週早く、
18日に開かれました。

先にご案内しましたが、
千葉康樹さんが、

「発見された手稿」の系譜
Henry MacKenzie, Man of Feeling(1771)の形式

というタイトルで、たっぷりと語ってくださいました。


破棄寸前の手稿が、奇跡的に救出され、
そこから物語がつむぎ出される…

文学作品におけるこのような設定を、
Manuscrit trouve というそうです。

なんとなくありがちな設定(まあ、現実には
めったになさそうですが)のような気がしますが、
あらためて考え直してみると、それについて
深く考えたことなかったなあ、と気づかされました。

今回の発表で千葉さんは、このような文学形式を、
「センチメンタリズム」の文学の流行とその終焉という
変遷を踏まえて、論じてくださいました。

マッケンジーの「感受性の人」なんて、誰が読むんだろう
なんて思ってたら、ちゃんと翻訳まで出版されてたんですね。

そのような驚きを感じつつ、今回のセッションでは、
千葉さんセレクトのいくつかのシーンを、じっくりと
精読しました。

翻訳にもいろんな種類がありますが(翻案、逐語訳、超訳…)、
今回のセッションで私たちが体験したのは、そのどれでしょうか?
なんと命名するかはともかく、とにかく一字一句にこだわって、
丁寧に読みこみました。これぞ、オベロン・スタイルです。

そのうえで、Manuscrit trouve という文学の形式について
議論したのですが、オベロン会において形式論だけで話が
終わるはずはなく、「センチメンタル文学」の奥底にまで
議論はおよんだのでした。これまた、オベロンのスタイルと
言って差しつかえないでしょう。


今回も、質疑応答を含めて約3時間の長距離走となりました。
最近のオベロン会では、3時間セッションが基本となりつつ
あるようです。


千葉さん、おかげさまで、オベロンにふさわしいスタイルで、
一年を締めくくることができました。
ありがとうございました。



12月例会の後は、恒例にしたがって、
オベロン会大忘年会へと突入しました。

馴染みの店に繰り出した私たちは、
ここでもオベロンのスタイルにのっとり、
いつもの形式で。奥の深い会話にのめりこんだ
わけですが、その内容の詳細については、
ご想像にお任せします。



12月のオベロン会

2010-12-14 | ねるど
12月になりました。
今年も残すところ2週間あまりです。

例年と同じく、12月例会はいつもより1週間早く、
今週の土曜日、18日に開かれます。
(時間はいつもと同じで 午後2時からです。)

今回の発表者は千葉康樹さん。

テーマは、

「発見された手稿」の系譜―ヘンリー・マッケンジー『感受性の人』

です。

18世紀後半の、大ベストセラー小説『感受性の人』
(The Man of Feeling)が 今回の題材です。ナイーヴな
主人公が世間の荒波にもまれて、翻弄されるという
お話のようです。(なにぶん読んでないもので、
こんな書き方で 失礼します…)

一見ありきたりの小説のようですが、『パメラ』や
『トリストラム・シャンディ』といった実験的とも
いえる風変わりな作品を生み出した時代の産物です。
一筋縄ではいかないでしょう。(と思うのですが、
なにぶん読んでないので、いまいち自信がないのですが、
たぶんそうでしょう。)

この作品の特徴としては、短いエピソードを並べることで、
大きな物語が構成されている点にあるようです。つまり、
ジグソーパズルみたいなものですね、きっと(なにぶん
読んでないもので、こんな書き方で申しわけありません。
いい加減くどい!!)そして、パズルのピースのいくつく
かが欠けてたりして…そこに、それなりの仕掛けが
仕込んであったりする…

おっと、あとは千葉さんにお任せしましょう。

千葉さんは、「発見された手稿」の系譜という観点から
お話くださるとうかがっています。

『感受性の人』は、なかなか読む機会のない作品ですが、
(はい、私も読んでいません。)今回の発表では、
テキストにじかに接する機会も十分用意してくださって
いるようです。(聞くところによると、6,7ページ分。)



楽しみですね。



それから、発表の後は、これまた例年恒例の
オベロン会大忘年会へと、感受性の赴くままに
突入するでしょう。






11月例会の報告

2010-12-06 | ねるど
11月27日、いつもの国際文化会館にて
11月例会は開催されました。(天気はどうでしったけ?
暖かかったような気がします…。)

今回は、東條賢一さんが、ワーズワスの『序曲』(The Prelude)
についてたっぷりと語ってくださいました。

『序曲』といえば、全13巻からなる自伝的長編叙事詩ですが、
今回はとくに第11巻で展開される「時の点」(spots of time)
についての哲学的議論に焦点をしぼっての発表となりました。

ワーズワスといえば自然詩人と見られがちですが、
『序曲』は、湖水地方の豊かな自然を描いているだけの
作品ではありません。副題に「ある詩人の精神の成長」と
あるように、ワーズワスの詩人としての成長の記録にほか
ならないのです。

ワーズワスは一時期、『隠遁者』と大長編詩を完成させる
計画を温めていました。『隠遁者』は、ミルトンの『失楽園』の
数倍の長さになるはずの巨大な作品として計画されましたが、
結局は未完(というか未着手)に終わった、まあ「スーパー堤防」
のような幻の計画です。『序曲』は当初、この『隠遁者』の
「序曲」として書かれたとされています。『隠遁者』のような
巨大な哲学詩を書き上げた詩人の精神の成長の足跡をたどる
ことこそが『序曲』が担っていた、もともとの役割だったのです。

とはいえ、湖水地方の豊かな自然に遊んだ少年時代の体験が、
ワーズワスにとって詩の源泉であるこもまた、変わらない事実です。
彼は、少年時代の体験の中でも、とくに印象が深く、魂の中心を
揺さぶり、その奥底をかき乱すような瞬間を「時の点」(spots of time)
と呼んでいます。

今回の発表において東條さんは、詩人の少年時代の自然体験(そのひとつ
ひとつが「時の点」なのです)が哲学的議論へと熟成される過程を、
『序曲』のテキストを実際に分析しながら詳しく論じてくださいました。


オベロン会にとってワーズワスは、もっとも重要な詩人の一人と
いって差しつかえないでしょう。それゆえ、今回の例会でも質疑応答が
白熱し、予定時間を大幅に超過するという結果になりました。
ついには会場側からの「これ以上は追加料金!」との一言で会は
ひとまずお開きとなりました。(もちろん、議論はそこで終わった
わけではなく、場所を変えてさらに続いたのでした。)


今回は、ワーズワスの未完の大作『隠遁者』なみの長編セッションと
なりました。

スピーカの東條さん、参加者の皆さま、本当にお疲れさまでした。





次回の例会は12月18日です。そのときまでには、雑誌『オベロン』
の最新号が刊行されているはずです。どうぞ、お楽しみに!!