
尾崎洋二コメント:行政に頼るのでなく、すべての人々が勇気をもって、良き見本になっていただきたいと思います。警報が空振りに終わるのを恐れず、皆を避難に誘いだすオオカミ少年になって欲しいです。そうでなければ、今年6月から実施される5段階の大雨警戒レベルの導入は、「果たして、政府が目標に掲げた“逃げ遅れゼロ”に効果を出せるのか?」という重要な疑問が残ったままになります。
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「オオカミ少年になってもいい。危ないと思ったら早く警報を出しなさい。
警報を出して被害が出なければ、“何もなくて良かった”と思えばいい。
被害が出てからでは手遅れです。
警報が空振りに終わるのを恐れてはいけません。」
災害の教訓を次代へ-雲仙・普賢岳の火砕流参事から28年
鐘ヶ江管一(元島原市長)さん談
聖教新聞6月4日2019年 要点抜粋箇条書き
生涯、43人の命の重みを背負う
1990年11月17日、雲仙・普賢岳は198年ぶりに噴火した。
噴火は約5年間続いた。
発生した火砕流は9,400回余り。雨が降るたびに大量に降り積もった火山灰などが土石流となって町襲った。
噴火開始から2年間、鐘ヶ江管一さんは被災現地の指揮官として災害対策の陣頭指揮を執った。
大火砕流参事が起きたのは1991年6月3日。
消防団員12人、県警機動隊2人、マスコミ関係者16人、タクシー運転手4人、外国人科学者3人、住民6人(うち3人は行方不明)、合計43人が犠牲となった。
43人が火砕流に巻き込まれた場所は「危険だから入らないでください」と告知していた、避難勧告地域でした。
避難勧告は公的なルールです。
マスコミだから入っていいとか、学者だから入っていいといった区別はありません。
消防団の12人は、マスコミが避難住民の留守宅の電気や電話を無断で使用したことが判明したため、地域内を警備していました。
消防団は地域住民の生命や財産を守るための組織です。
団員は団長が任命し、団長は市長が任命します。
消防団員とは長い付き合いがありました。
皆、地域の将来を支える大切な人材ばかりでした。
消防団員の遺体が運びこまれてきた時、思わず、変わり果てた姿にすがりついて、人目もはばからず泣きました。
「熱かったろう(あつかっただろう)?熱かったろう?」
本当につらかったと思います。
代われるものなら代わってあげたかった。
災害の事実を報道することは、マスコミが果たすべき使命だと思います。
しかし、「社会の公器」たるべきマスコミだからこそ、守るべきことがあるのではないでしょうか。
タクシーの運転手4人も、マスコミを送迎していた皆さんでした。
私は偶然、生き残りました。
多くの方々の安全・安心のために命懸けで働くために生かされたと思っています。
この思いを、43人の命の重みを、私がこの世を去る日まで、ずっと背負って生きていきます。
あの日以来、犠牲になられた43人のご冥福を毎朝、お祈りしています。
欠かしたことは一日もありません。
人ごとではなく自分事として捉える
日本は自然災害が起こりやすい国土です。
自分事として捉えることが防災・減災の第一歩です。自分の地域が災害に襲われたらと想像し、備えを怠ってはいけません。
災害は非常事態です。
その時その時にきちんと判断し、決断しなければ、物事は前へ進みません。
先手、先手で、手を打ち続けなければなりません。
私は行政関係者に言い続けています。
「オオカミ少年になってもいい。危ないと思ったら早く警報を出しなさい。
警報を出して被害が出なければ、“何もなくて良かった”と思えばいい。
被害が出てからでは手遅れです。
警報が空振りに終わるのを恐れてはいけません」と。
大火砕流参事から28年がたちました。
災害の記憶の風化が進み、災害を知らない世代が増えています。
災害の教訓を次代へつなげ、将来、起こるであろう災害からの被害を最小限に食い止めなければいけません。
それが犠牲者への供養でもあります。
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