goo

思い出

カラーテレビ、洗濯機、冷蔵庫なんて当たり前。
車だって「一家に一台」が普通になり、人々が「中流階級意識」を持ち始めた昭和50年代前半。
街に物が溢れ、日本全体が上り調子だった頃、ボクは小学校低学年だった。

そんな景気がイイ時代にあって、ボクの家はとても貧しかった。
答えは簡単。オヤジがギャンブル好きで借金ばかり作っていたから...。

僕が保育園の年中の時、オヤジはお爺ちゃんに勘当され、夜逃げ同然で一家そろって岡崎へ流れていった。
まだ小さかったから、その頃は貧しさなんてあまり感じなかった。
それが...冒頭の小学校低学年の頃、自分の境遇を呪うようになった。

原因は、「お誕生日会」だ。

当時、「お誕生日会」なるものが流行っていた。
ある友達のお誕生日会に呼ばれた時のこと..。
ボクの家では到底出てこないような豪華な食事でもてなされ、
「○○ちゃんオメデトウ」と書かれたイチゴが乗ったケーキ..ウマかったなぁ。
そして問題の「プレゼント」だ...


「ねぇ、おかぁさん、○○君の誕生会に呼ばれたからプレゼントがいるんだ。ねぇ、買ってよ~」

自分の子供にすらオモチャを買ってやれないのに、友達のために持ってくプレゼントなんて買えるわけがなかったんでしょうね...

「これを持って行きなさい」と言って渡されたのは、ずっと前に兄が作ったプラモデルだった。
それを元の箱に入れ、リボンを巻いて体裁を整えただけの物だ。


次々と友達が主役の男の子にプレゼントを渡していく...
ボクは自分の順番がくるのがとてもイヤだった。
そして...
「わぁ~、ポルシェのプラモデルだ~!ありがと~!」
主役の男の子はとても喜び、その場でリボンをほどいた。
「なんだコレ!作ってあるじゃん!しかも古いし!」
彼のボクを見つめる目は、ガッカリしたような、どこか軽蔑したような..。

あの時の恥ずかしさといったらもう、しっかり覚えていて
今でも悲しい気持になる。

家に帰って、おかぁさんに当たりちらしました。
「だからこんなモン持って行きたくなかったんだ!なんで買ってくれないんだ!ケチ!」
泣きながら怒っているボクだったが、一番ツラかったのはおかぁさんでしょうね。


それからしばらくした ある五月。
ボクの誕生会の順番が回ってきたのだ。みんなは当然、招かれるつもりでいる。
やらなきゃまた恥をかく。
しかしボクはそれがどうしてもイヤだった。
ボクの住んでいた家はビックリするほどボロいあばら家だったから..。
こんなボロイ家に住んでいると知られるのがイヤだったから..。
それに、おかぁさんに言ってもきっとやってくれないだろうとも思っていたから。

そんな思いをみんなは知るよしもなく、勝手に日時を決められてしまった。

「ねぇ、おかぁさん、みんなを招待してボクの誕生会を開いてほしいんだけど...」
おそるおそる切り出したが、以外にもあっさりOK。
きっと、こないだのコトがあったからムリしたんでしょうね。

そして当日。

そのあまりのボロさに驚き、「ボロ~」「きったねぇ~」「こんなトコに住んでんだぁ~」と口々に叫ぶ友達...。子供って残酷ですね。
グッとこらえながらも家に招き入れ、いよいよ食事をふるまう時がきた。
おかぁさんが容易してくれた御馳走は、カレーライス.....だけだった。
帰り際に、恒例となっている子供たちに持たせる「お土産」は
10円のお菓子が数個入ったビニール袋..。

思ったことをストレートに口に出すのが子供の特徴。

その夜、また泣きながらおかぁさんにあたったのは言うまでもない。

そんなボクもまた子供。おかぁさんの気持ちも考えず汚い言葉をあびせたと思います。

この頃は、誕生日なんて来なければいいのにと思っていた。


5月28日  今日はボクの誕生日。

今年も みんなに祝福され、ホントにいい誕生日を迎えることができました。

ボクの大切なスタッフや友人たち ホントにありがとう。

そして、あの頃の親の気持ちを理解できる大人になりました。

誕生日がくると、あの頃の悲しい思い出と

おかぁさんに対して、申し訳なかったなぁという気持ちが溢れ、

「嬉し悲し」という感じの誕生日なのです。


追記

今朝、十時過ぎに母親から電話があった

「ゆき、誕生日おめでとう おまえは十時十分に生まれたんだよ..」


母親っていいもんですね。





コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする