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白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』 感想

2014-04-09 09:11:09 | まどマギ
ようやく、まどマギの新作映画を見たのだけど、
率直なところ、面白いけれど、同時につまらない。

正直、ビミョー。

TV版は面白かったのに、なんでかなー、と思って、で、どうもこの話、既視感があるな-、と思って気づいたのだけど、これ、基本的には、押井守のビューティフルドリーマーの焼き直し、だよね。

多幸感のある閉鎖空間が、実は登場人物のうちの一人が見ている夢で、その夢を誘導した第三者がいて、その第三者の計画を出し抜いて、多幸感たっぷりの世界から抜け出す、という構図。

概ね、前半の1時間、いや、1時間半ぐらいは、これの今風の焼き直し。

この「閉鎖空間」性が、たまならく、内輪もめ、っぽい印象を与えてくる。
なんか、うじうじやってんなー、という感じ。

で、ビューティブルドリーマーと異なるのは(いや、ホントは変わらないのだけど)、夢を見ている本人がそこから抜けだそうとするところ。自分自身の夢からの脱出、という矛盾を抱え込むために、結果的に、さらなる「悪堕ち」を選択するところ。

でも、この主人公が絶望、悪堕ちするところは、逆に虚淵ワールド全開で、これも見たことあるな-、と思ったら、Fate/Zeroの最後で、セイバーが聖杯の秘密を知って絶望するところね。今までやってきたことが徒労に終わる。それに近い。

だから、物語構成としては、前半が押井、後半が虚淵のテンプレをなぞっている。

じゃ、どこがまどマギらしいのか?、ってことになるのだけど、それは、結局のところ、ほむらがまどかに抱く「愛」だった、ってところ。

でも、この「愛」というのも結構曲者。

なぜなら、まどマギの本編(TV版のこと)の最後では、まどかが全ての魔法少女の救済という、いわば「人類愛」を示したのに対して、ほむらが示したのは、特定の個人、すなわちまどかに対する愛情、というか、「情愛」だよね。これだけ。

で、結局、ここが一番つまらない、と思ったところなんだよね。

なんか、せっかく、TV版で、最後、高みを目指して上りつめるような、高揚感で終わったのに。それを、たかだか、ほむら一人の、きわめて私的な物語にまで貶めてしまって。。。 蛇足感が半端ない。

もっとも、好意的に解釈すれば、そもそもTV版の展開における、最終的なまどかの決断とそれを支える神的能力自体、ほむらが、何度も何度もループを繰り返したからこ充填されたものだったので、実は、TV版もホントは「プレイヤーほむら」による「まどか救済ゲーム」のクリアを目指す、私秘的な物語に過ぎなかったんだよね。むしろ、ほむらが望んでいた結末を、最後の土壇場でまどかに乗っ取られた、つまり、ほむらの物語をまどかにハックされてしまったわけで。

だから、今回の最後での、ほむらの悪魔化による「円環の理」のハッキングは、正しい意味で意趣返しといえるわけで。

それゆえ、最後に、ほむらはまどかが「いずれは私の敵になる」という言い方をしたんだろうね。実は既に一度敵対しているわけだから。

それにしても、この、ほむらによる世界=箱庭空間にまどかを閉じ込めて、その中で彼女の能力の発動を抑制しつつ、ほむらにとって心地よいまどかとある日常を維持していくところも、これ、どこかで見たことあるなー、と思っていた。

で、思い出したのは、マンガ版のデビルマンの最終話で、天使(で両性具有体)だった飛鳥了がデビルマンである不動明の亡骸(上半身)とともに、天使群が見守る中で、共に横たわっているところ。

まぁ、悪魔と神(天使)という立場は入れ替わっているけど、ほむらが神まどかの半身である「まどかの記憶」とともに安寧を求めている、という点では、全く同じ。

さらにいえば、飛鳥了と不動明は現世ではともに男なわけだけど、飛鳥了は一方的に不動明を愛していた。対して、ほむらも一方的に同性であるまどかに愛を示していた。というか、その愛が高じて、自らを犠牲にして魔法少女たちを救ったまどか、そのまどかを救うために、叛逆の徒として、「まどかが神だから、私は悪魔になる」ことを選択したわけで。

デビルマンにかこつけて考えれば、現実世界では男性だった飛鳥了は自分の記憶が操作されていることに気づいて、そこから自分が天使だったことを思い出したはずだけど、しかし、そこで両性具有であるという設定がわざわざ付与されたのは、飛鳥了の中の女性性が、男性である不動明に惹かれる方便として使われるためだった。

ちなみに、不動明も人間と悪魔が共存できる世界を作るために、人間と悪魔と峻別することを強いる神/天使に楯突いたわけで、いわば、ポジションとしては完全に「まどか」ポジション。

なので、ホントに、最後の30分の展開は、デビルマンに近い。

そして、私的な情愛で世界をひっくり返すことを選択することを正当化する理屈としてあげられるのが、その人が「女性」であるから、という理由である構図まで全く一緒。

あ、そうか、だから、ほむらは悪魔に転じるに当たって、魔法少女から「魔女」へとクラスチェンジしなければいけなかったわけだ。少女ではなく、情愛に生きる女性として脱皮する、というか、変態(←青虫が蝶になる方)する必要があった。

・・・という具合に、なんていうか、この映画は、お話そのものに既視感が伴いすぎるため、面白いかどうかと聞かれれば面白いけど、でも、筋がテンプレ的に見えてしまうがゆえにサプライズがなくつまらない、というのが正直な感想だった。

この点は「まどかは魔法少女になるのかどうか」という一点だけで最後まで緊張感を保ち続けながら、しかし、二転三転する展開を毎回繰り返してきたTV版とくらべてやっぱり物語の緊張感に欠けたというしかない。

その意味で残念。

押井守、虚淵玄、永井豪、という三人のもつ物語のテンプレをつなぎとめたのが、映画全体の基本的構造で、その中にTV版では実現できなかった「華やかな場面」を繋いでシーンを構成していた。それとわかる、お手盛りのサービスシーンが多すぎた。

具体的には、戦隊もどきの5人の魔法少女の活躍、とりわけ、さやかと杏子の共闘や、マミvsほむらの戦い。あるいは、まどか神の一番の従者となったさやかの、魔女力を発動した戦闘とか。このシーンは、まぁ、スタンドそのものだよね。

何がいいたいかというと、メインの物語の構成の間に配されているのが、簡単にいえば、公式スタッフが作った、いわば二次創作的な映像、つまりはファンが喜びそうな「映像」を配していたということ。

で、残念ながら、そうしたシーンがあまりにあざとくて、スゲーと思う前に、ドンビいてしまった。その分、乗れなかった。

ということで、まどマギはTV版でやめとけば良かったのに・・・、というのが最後まで見終わった時の印象。残念感が半端無かった。

TV版の時にあった猥雑感や予想の裏切りが、この映画にはほとんどなかった。その意味で、これは、まどマギの続編とはあまりいいたくないな、と思う。

そうそう、キューべぇを徹底的に悪者にすることで、物語のもつテンプレの掛けあわせ的構造からうまく目を離させているところも姑息といえば姑息。

最後を文字通りボロ雑巾のように使われたキューべぇのシーンで終わらせたところは、最後の最後になって、実は物語の本当の語り部は(ヤバイものに手を出してしまった)不遇のキューべぇであった、とすることで、全編、ほむらの夢ないしストーカー的妄想であったこの映画の構図をうまく隠蔽している。

と同時に、最後で、ほむら視点が抜け出すことで、もしかしたら、今度はそのほむらにキューべぇが反逆する物語が紡がれるのではないか、と思わせもする。

だって、今度は、キューべぇが、事の一部始終を知っている存在になってしまったわけだから。

というわけで、まどマギの裏番であるキューべぇの暗躍が、次なる物語を生み出すのかもしれない。

だって、あ、やべ、こんな奴らに関わるんじゃなかったぜ、撤退だ、触らぬ神に祟りなしだぜ!、という具合に調子よく逃げ出そうと思ったら、ほむらに拉致られて、その後、ボロ雑巾のように使われたわけだから。

そりゃ、キューべぇにしたって、憎さ百倍、この恨みはらさでおくべきか、と思うよね。

ということで、続編があるとしたら、またもや懲りずにキューべぇが暗躍するのだろうなw

それはそれで見てみたい気がする。

だって、キューべぇがいなかったら、まどマギの話は生まれないのだから。
魔法少女の生みの親は彼(たち)なんだからw

観測者キューベェの逆襲が、次の物語の柱だな、きっとw

ともあれ、
まどか=円、と、ほむら=炎、だから、
はなから、まどかとほむらの二人は、
それぞれが「調和」と「破壊」の象徴としての役割を与えられていた、ということで。
その意味で、破壊者が調和者に対して「叛逆」する物語。
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