(感想1、感想3もあります)
感想1でも触れたように、264話の最後で虎杖悠仁はとうとう彼自身の領域を展開させたわけだけど、その様子はどうやら「存在しない記憶」のようだった。
今までも何度か話題になった「存在しない記憶」だけど、最初は東堂、2回目は脹相で、どちらも虎杖悠仁と「ブラザー」になった世界を夢見るようなものだった。
ただ、脹相と虎杖が、呪胎九相図を介して血統的にも本当にブラザーズの関係にあったことから、東堂の「存在しない記憶」のケースはなにか事故的なものとしてうやむやにされてしまった。
つまり、東堂が描いたただの妄想だった、という具合に。
だが、今回、虎杖が展開した領域の中でも、どうやら虎杖と宿儺は兄弟のような関係を示していた。
だから「存在しない記憶」とは、基本的に、虎杖が領域内の人物とブラザーな良好な関係になるもの、とひとまず理解していいのかもしれない。
で、そこで思い出さされるのが、虎杖悠仁が実父から受け継いだ、かつて宿儺が母の体の中で胎児の時に殺したという「宿儺の兄弟」の魂のこと。
その「死んだ宿儺の双子」の魂をその身に宿していたから、虎杖は、宿儺を封印する「器」として有効だった、というのが、一応、ここまで作中で説明されたことだった。
虎杖の実母の身体を術式で乗っ取った羂索も、その魂のことを突き止めていたから、虎杖悠仁という子どもを生み、宿儺の器として用意した。
宿儺からしたら、もともと一つの受精卵から生まれた双子の片割れの魂だからこそ、虎杖の身体に封印されやすかった。
魂の相性がよかったから、というか、もともとひとつであったはずの魂の片割れだったから。
なので、その虎杖が受け継いだ「宿儺の双子の魂」からすれば、「存在しない記憶」にある通り、母胎にあるうちに宿儺に食われずに生まれていたら、「存在しない記憶」はちゃんと「存在する記憶」になっていたはずだった。
つまり、宿儺とその兄弟が双子としてともに育つはずだった。
その無念?が、「存在しない記憶」が生まれた強い動機だった、とひとまず考えておく。
そのうえで、じゃあ、どうやってそんな領域が実際に可能なのか?というと、ここまでの作中での領域展開の説明からすると、どうやら「領域」とは、物理法則を「情報的」に捻じ曲げて、生み出す力のように思えたから。
それが明白になってきたのが、「羂索vs九十九」の戦いのあたりから。
あの二人は、ともに重力を扱う術式ないしは領域を展開させていた。
九十九にいたっては、ブラックホールまで生み出していた。
言うまでもなくブラックホールは、時間の速度も捻じ曲げる。
つまり、時間も操作できる。
そこででてくるのが、時間遡行を多分身体に対してだけ行う「反転術式」。
つまり、反転術式によって欠損した身体が直るのは、怪我をする前の時間にまで時間を局所的に巻き戻すことで実現される。
『アクセル・ワールド』のシトロンコールや、司波達也の「再生」魔法のようなもの。
そうして、物理法則を捻じ曲げるのがこの作品世界の呪術の基本。
で、そう考えると、虎杖の「存在しない記憶」は、「存在したはずの記憶」を実際に実現させるもので、つまり、「平行世界へのジャンプ」だと思えばよい。
そんな「平行世界の実現」がメチャクチャな術式ではないことは、実はすでに読者は見てきている。
高羽の漫才空間や、秤のパチンコ(美少女ゲーム)空間。
術者の妄想と思わしき世界が展開されて、そのままそこで戦闘が行われる。
特に高羽が、五条を凌ぐ最強者と言われたのは、多分、彼が真実だと思えばそれによって事象改変が可能だから。
そういう意味では、五条の無下限術式や乙骨のコピー術式も基本的には物理法則の究極系で、それが呪術の名家の血統が引き継いだものとして理解できる。
でも、五条が期待していた秤なんかの術式は、もうそういう旧世代の常識を覆すものだったわけで。
それが、世界そのものを書き換える、あるいは、世界のあいだを移行する、というものだけど、それ自身も物理法則の延長線上にでてくるものとして理解可能。
ということで、虎杖の領域は、「あり得たかもしれない記憶」としての「平行世界」の実現なのではないだろうか。
時間遡行の果てに平行世界が生まれる、というのは、まさにジョジョ第6部の『ストーンオーシャン』の最後でプッチ神父が「メイド・イン・ヘブン」によってときを最大限まで加速させて別世界に移行させてしまい、以後、第7部のジョジョからは平行世界のジョジョが始まった。
虎杖の領域も多分、そうした平行世界への以降、世界改変の能力、あるいは歴史改変の能力なのだと思う。
なにより、最強の呪術師である宿儺の兄弟にふさわしい究極能力だと思う。
まぁ、それを虎杖が行使できるために付けられた後付の理屈が、宿儺が食って生まれてこなかった兄弟の魂を虎杖悠仁が受け継いでいる、というウルトラ後付し設定だった、ということなのだけどw
でもその結果、いままで死んでいった人たちが全員生きている「もう一つの世界」にたどり着けるのかもねw
全員生き返った万々歳の大団円かもね?
あ、でも、よく考えたら、『鬼滅』の最終回も、そんな感じだったな。
あちらは、現代の子孫を描くことで、鬼のいなくなった「もう一つの世界」を暗示するものだったけどw
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感想1でも触れたように、264話の最後で虎杖悠仁はとうとう彼自身の領域を展開させたわけだけど、その様子はどうやら「存在しない記憶」のようだった。
今までも何度か話題になった「存在しない記憶」だけど、最初は東堂、2回目は脹相で、どちらも虎杖悠仁と「ブラザー」になった世界を夢見るようなものだった。
ただ、脹相と虎杖が、呪胎九相図を介して血統的にも本当にブラザーズの関係にあったことから、東堂の「存在しない記憶」のケースはなにか事故的なものとしてうやむやにされてしまった。
つまり、東堂が描いたただの妄想だった、という具合に。
だが、今回、虎杖が展開した領域の中でも、どうやら虎杖と宿儺は兄弟のような関係を示していた。
だから「存在しない記憶」とは、基本的に、虎杖が領域内の人物とブラザーな良好な関係になるもの、とひとまず理解していいのかもしれない。
で、そこで思い出さされるのが、虎杖悠仁が実父から受け継いだ、かつて宿儺が母の体の中で胎児の時に殺したという「宿儺の兄弟」の魂のこと。
その「死んだ宿儺の双子」の魂をその身に宿していたから、虎杖は、宿儺を封印する「器」として有効だった、というのが、一応、ここまで作中で説明されたことだった。
虎杖の実母の身体を術式で乗っ取った羂索も、その魂のことを突き止めていたから、虎杖悠仁という子どもを生み、宿儺の器として用意した。
宿儺からしたら、もともと一つの受精卵から生まれた双子の片割れの魂だからこそ、虎杖の身体に封印されやすかった。
魂の相性がよかったから、というか、もともとひとつであったはずの魂の片割れだったから。
なので、その虎杖が受け継いだ「宿儺の双子の魂」からすれば、「存在しない記憶」にある通り、母胎にあるうちに宿儺に食われずに生まれていたら、「存在しない記憶」はちゃんと「存在する記憶」になっていたはずだった。
つまり、宿儺とその兄弟が双子としてともに育つはずだった。
その無念?が、「存在しない記憶」が生まれた強い動機だった、とひとまず考えておく。
そのうえで、じゃあ、どうやってそんな領域が実際に可能なのか?というと、ここまでの作中での領域展開の説明からすると、どうやら「領域」とは、物理法則を「情報的」に捻じ曲げて、生み出す力のように思えたから。
それが明白になってきたのが、「羂索vs九十九」の戦いのあたりから。
あの二人は、ともに重力を扱う術式ないしは領域を展開させていた。
九十九にいたっては、ブラックホールまで生み出していた。
言うまでもなくブラックホールは、時間の速度も捻じ曲げる。
つまり、時間も操作できる。
そこででてくるのが、時間遡行を多分身体に対してだけ行う「反転術式」。
つまり、反転術式によって欠損した身体が直るのは、怪我をする前の時間にまで時間を局所的に巻き戻すことで実現される。
『アクセル・ワールド』のシトロンコールや、司波達也の「再生」魔法のようなもの。
そうして、物理法則を捻じ曲げるのがこの作品世界の呪術の基本。
で、そう考えると、虎杖の「存在しない記憶」は、「存在したはずの記憶」を実際に実現させるもので、つまり、「平行世界へのジャンプ」だと思えばよい。
そんな「平行世界の実現」がメチャクチャな術式ではないことは、実はすでに読者は見てきている。
高羽の漫才空間や、秤のパチンコ(美少女ゲーム)空間。
術者の妄想と思わしき世界が展開されて、そのままそこで戦闘が行われる。
特に高羽が、五条を凌ぐ最強者と言われたのは、多分、彼が真実だと思えばそれによって事象改変が可能だから。
そういう意味では、五条の無下限術式や乙骨のコピー術式も基本的には物理法則の究極系で、それが呪術の名家の血統が引き継いだものとして理解できる。
でも、五条が期待していた秤なんかの術式は、もうそういう旧世代の常識を覆すものだったわけで。
それが、世界そのものを書き換える、あるいは、世界のあいだを移行する、というものだけど、それ自身も物理法則の延長線上にでてくるものとして理解可能。
ということで、虎杖の領域は、「あり得たかもしれない記憶」としての「平行世界」の実現なのではないだろうか。
時間遡行の果てに平行世界が生まれる、というのは、まさにジョジョ第6部の『ストーンオーシャン』の最後でプッチ神父が「メイド・イン・ヘブン」によってときを最大限まで加速させて別世界に移行させてしまい、以後、第7部のジョジョからは平行世界のジョジョが始まった。
虎杖の領域も多分、そうした平行世界への以降、世界改変の能力、あるいは歴史改変の能力なのだと思う。
なにより、最強の呪術師である宿儺の兄弟にふさわしい究極能力だと思う。
まぁ、それを虎杖が行使できるために付けられた後付の理屈が、宿儺が食って生まれてこなかった兄弟の魂を虎杖悠仁が受け継いでいる、というウルトラ後付し設定だった、ということなのだけどw
でもその結果、いままで死んでいった人たちが全員生きている「もう一つの世界」にたどり着けるのかもねw
全員生き返った万々歳の大団円かもね?
あ、でも、よく考えたら、『鬼滅』の最終回も、そんな感じだったな。
あちらは、現代の子孫を描くことで、鬼のいなくなった「もう一つの世界」を暗示するものだったけどw
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