パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

富士山

2023年07月09日 08時53分09秒 | 徒然なるままに

3776メートル、日本一高い富士山はきれいな山だ
写真を見ても実物を見てもそう思う
竹取物語の最後に富士山の話が出てくるが
万葉集の時代からずっと特別な山だった

写真アプリに保存されていた山の写真の中に
富士山を撮ったものがあった

どの山から撮ったものか覚えていないが、ご来光を待っている時に見かけたものだと思う
風景がくっきりしないで、シルエットだけになっているところがいい感じ(と自画自賛する)

上りの新幹線に乗るときはいつも左側の座席を選ぶ
富士山が見えるからだ
見える時間はホンの僅かだが見えると単純に得した気もする
「頭を雲の上に出し、、」
の歌を写真をみて、つい思い出した

自分の原風景は、自転車で中学から家に帰る時にいつも目の前にあった本宮山だ
常念岳に似たシルエットで、自分が常念岳が好きなのはそのためだと思っている

数年前、よく出会う妹の同級生が還暦の時に富士山の登ったと言っていた
また今年はとんでもなく多くの人が山開きの時に富士登山に挑戦したらしい
でも自分は富士山は今まで登ってみようとは思わなかった(なぜだろう)

富士山は、昔も今も見て楽しむ山のようだ

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写真を見ては懐かしんでいる

2023年07月08日 09時29分28秒 | ダイアリー

つくづく「もっといい写真を撮っておけばよかった」と思う
後悔先に立たず!と言われるが、もう山に登れない身には
山を楽しむのは写真しかない(Youtubeでも楽しんでいるが)

絵心がないのと、当時は写真を撮ることに気が向いてしまうと
目前にちゃんとある山を楽しめないような気がして
生の光景を網膜と記憶に留めようとしていた

まだデジタル社会が進んでいなかった頃、フィルムカメラで撮ったものを
スキャンした写真を見つけた

燕岳(だと思う)
霧が片側は湧き出ているが反対側は晴れている
馬の背を分けるという表現は、上手いこと言うなあ、、と思うが
このような光景はここ以外にも多く見た
(雷鳥も自分はいろんなところで見た)

大好きな常念岳の頂上はこんな感じ

ゴツい穂高連峰が見える

槍穂穂高連峰が圧倒的なスケールで見えるのは蝶ヶ岳

だが、これは蝶ヶ岳からではなくて常念小屋のあるあたりからの写真かもしれない

先日、知り合いの(80歳)の人が、友人に上高地から涸沢までの登山を誘われたが
断ってしまった、、と残念そうに話していた
心臓にペースメーカーをしているので過度な負担はできないとのことだ

身軽にして歩くだけなら個人的には上高地から涸沢までは行けるかもしれないが
リュックを背負っての行動は今の自分には無理だ

少し頑張れば、間違いなくとても荘厳な純粋な空間がある
それを自分の目で確認できないのは、、とても残念で仕方ない

山は良いなあ、、
ホント、行ける時に行っとかないと、、、
もっと行っとけば良かったと思う(残念!)

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「参考」の文字のある無し

2023年07月07日 10時03分48秒 | 養鶏所騒動

ずっと気になっていること
公務員とか行政に関わっている人には当たり前のことでも
素人から見るとよくわからないことがある

世の中には「見積もり」と「参考見積もり」というものがあるようだ
(参考の文字が入ってるだけでそんなに違うのか!)
見積もりは契約を交わすために必要な書類で
この金額で契約書を交わすとされ
参考見積もりは、契約のための見積もりではなく
コレコレのことには凡そこのくらいの金額が必要と
前もって提出されるもののようだ

以前、補助金をもらう仕事に関わったときに経験したのだが
見積書、契約書、納品書、領収書はセットになっていて
これらが完全でないと先に支払った金額は補助金として戻ってこない

参考見積もりはこの必要不可欠の書類ではなさそうだが(?)
一般的には行政が事業を行うには議決を要する議案として
予算案を出さねばならない
このときには取引先の見積もりが必要で
見積もりがあって初めて予算案の数字が決定する
(このときの見積もりは参考見積もりでも良いらしい)

ところで奇妙だな、ずっと不思議な思いが消えないのは
不動産鑑定の仕事を市がある業者に随意契約をしたときの一連の流れで
普通、行政は金額が大きい場合、競争入札を行う(ように条例で決まっている)

ところが問題の不動産鑑定は、不動産鑑定の委託料金は鑑定結果によって
委託料が決定する表みたいなものがあって、それを使うので
(誰が行っても金額は同じで競争入札に適さないので)
信頼のおける業者に随意契約で依頼したという説明がなされた

やってからでないとわからない随意契約による不動産鑑定の委託料金
(だから市は見積もりをとっていないと説明する)
でも、行政は金額がわからないまま信頼しているからといって
あなた任せで発注してしまうのだろうか?と不思議でならなかった
いくらなんでも、それな無いだろう、、と思ったが
具体的にどうするか分からなかった

ここで出てきたのが「参考見積もり」という言葉だった
やってはいない不動産鑑定の評価額を
今回の場合は「売り手の希望売却料金」を不動産鑑定会社に伝えて
その金額を不動産鑑定をした結果の金額として
委託料の「参考見積もり」を出すようにしたらしい
(つまり市は見積もりはとっていないが、参考見積もりはとっているということ)


どう考えても、ここはおかしい
不動産鑑定業者は利益追求の企業だ
不動産鑑定を行った結果、それが安い場合は表による委託料金も低くなる
そんな自らの受注金額を下げるようなことを民間企業がするだろうか

予め目安になるような希望売却料金を知らされて
その金額までは用意しているように見える行政に対して
自分の立場を考えれば、希望金額に近い数字を鑑定結果として出すのは
ごく自然のことのように思われる

この話をすると大半の人は、出来レースという言葉を使い
この鑑定結果自体に疑いの目を向ける
(不動産鑑定のために比較対象した土地も地元ではなくて人口の多い隣町が
 何故か選ばれていたし)

ここまでは時々ここで扱っている裁判絡みの話題

それにしても、どうもスッキリしない
実は、この手の説明を聞きたがる人も多くはない
変なことが起きているかもしれないのも現実だが
多くの人が無関心なのも現実

どうすれば、いいことやら

 

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竜田川

2023年07月06日 09時13分11秒 | 徒然なるままに

奇妙なニュースが報じられた
奈良の竜田川が緑色に変色したというのだ
テレビ画面からみるとまるでバスクリンが混入されているように見える
調査してみると、どうやらこの印象は間違いではなく
入浴剤と同じ成分がどういうわけか混じっているそうだ

竜田川、、どこかで聞いた名前だ
気になったのは緑色の川の状態ではなく、この名前の方だ
「ちはやふる神代も聞かず竜田川から紅に水くくるとは」
知ったかぶりの人のこじつけを笑う落語とか
映画「ちはやふる」の由来ともなった在原業平の歌に登場する竜田川
ニュースの竜田川は、この竜田川なのだろうか?
と浮かんだが、どうやらその竜田川のようだ

だが驚いたのは竜田川は風情のある川のように見えなかったことだ
ニュース動画で見られたのは、まちなかを流れる小さな普通の川
この川を見てあの歌が作られたとは到底思えないのだった

そういえば、ベートーヴェンが田園を作曲したときの小川は
ハイリゲンシュタットのベートーヴェンガングと呼ばれる散歩道にある
本当に小さな小川で、そこから田園を作曲したとは思えないものだった

どちらの川も当時とは違っているかもしれない
現場を見ることは大事だが、このようにがっかりすることも少なくない
だが、川からインスパイアされる人の想像力というのは大したものだ
と感心してしまう


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身代わりについて

2023年07月05日 08時55分59秒 | あれこれ考えること

大河ドラマに限らず、連続ドラマは見続けるのが面倒なので見ないことが多いが
今回の「どうする家康」は地元にも関係しているので頑張って見ている
でも鳥居強右衛門と長篠・設楽原の戦いも終わったので
もう義理は果たした感じで、日曜の夜はテレビと離れた普段の
のんびりモードになるかもしれない

大河ドラマ48回の半分を超えたところで、配役からしても一つのクライマックス
と思われる「築山御前と信康」のエピソードが放送された
悲劇的な内容だけに、どのように必然性のあるストーリーにもっていくかに関心があったが
「築山御前と信康には責任を負ってもらう、、ただし、偽装して二人とも助ける」

これ悩む家康の下したドラマの上の結論だった
結果的には二人ともその作戦には乗らず死を迎えたのだが
家康の偽装の判断を受けた家臣たちは、ホッとしたかもしれないが違和感を覚えたことがあった

それは築山御前の身代わりが用意されてたことで、ドラマでは築山御前が身代わりを逃し
関係のない女性は命を失うことはなかった
何の罪もない人が誰かのかわりに死を迎えなくてはならない、、というのは
自発的に言い出したならともかく、連れてこられてその運命に準ずるとするなら
どうしても受け入れられない気分だ
これは一歩間違うと、国家という公共の利益のために多少の犠牲は仕方ない
との発想に結びついてしまいうそうだ

この身代わりについては数年前の「おんな城主直虎」のときもあった
その時は、今川氏から井伊家の小さな息子(後の直政)の処刑が命じられ
高橋一生演ずる井伊家の家老、小野政次が命令を聞いたふりをして
別の小さな子どもの亡骸を用意して井伊家は難を逃れたのだった
しかし、関係のない子供が一人亡くなっている、、という事実はとても辛い

このとき小野政次の覚悟のセリフがあったと記憶している
それは地獄に行くような事があっても、それを受け入れる
というもので、これが実は忠臣であった小野政次の処刑
という後の運命を暗示したものと想像したのだった

確かに非人間的な行為をしたと自覚した人間は
それなりの運命を受け入れなくてはならない、、
その覚悟があっただけでも、少しは救われるような気もする

それと比べて、今回の身代わりについては結果的に逃したので
心に嫌な気持ちは残らなかったが、それでも簡単に身代わりを想像する傾向は
その場しのぎで人の命を軽んじるようで違和感をおぼえるのだった

007でも今回の「どうする家康」でも戦いのシーンで
多くの人が亡くなっていくのを見るのはしんどい
同様にウクライナの戦いのニュースをみるのは辛い
勝つための戦術的な考えがニュースに取り上げられ、その力に頼った思考に
一般人が違和感を覚えなくなっていくというのは、どこか恐ろしい





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ロシアの指揮者ゲルギエフは今、何をしているのだろう

2023年07月04日 09時20分08秒 | あれこれ考えること

今何かと話題のワグネル
その名前はニーベルングの指環の作曲家リヒャルト・ワーグナーから
来ているとする説がある
ワーグナーはヒトラーも好んだ作曲家で
どうやら彼は悪い方に使われる運命にあるようだ

音楽関係では、チャイコフスキー・コンクールが先日行われて
日本からの参加者もいたようだが、芳しい結果は得られなかったの報道がある
この時期のコンクールは微妙だ
審査が公平に行われたのか?
参加するのは良いことなのか?
音楽は平和でないと良からぬ想像をしてしまう

爪楊枝のような細くて短いものをもってオーケストラを指揮する
ロシアの指揮者ゲルギエフも、今回のウクライナ戦争で大損した人物だ
(いろんなオーケストラの芸術監督の任を解かれている)

彼の演奏は数年前、名古屋の芸術劇場コンサートホールで
シベリウスのヴァイオリン協奏曲とショスタコーヴィチの5番のコンサートを聴きに行った
良い指揮者とオーケストラの出す音は、こんなにいいものか(違うのか?)
と感じたのを覚えている(爪楊枝のような変な指揮棒も)
それが当たり前の日常だったのが、今はロシアの音楽というだけで少し考えてしまう
(最近はチャイコフスキーの音楽はほとんど聴かない)

ゲルギエフのことを考えると、ついフルトヴェングラーのことも考えてしまう
ドイツに残ってヒトラーの前で演奏した芸術至上主義のフルトヴェングラー
そのことでトーマス・マンやトスカニーニから批判されたフルトヴェングラー
彼の音楽を必要としているのはドイツ国民で、音楽は作曲家、演奏家、
そして聴衆で作り上げるものとの信念をもっていたフルトヴェングラー

ところで、ゲルギエフは現在どのような活動をしているのだろうか
そして彼の精神状態は演奏に同様な影響を与えているのだろうか
(フルトヴェングラーの戦時中の演奏の録音は悲痛な感じを覚えるものがある)

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メロンは果物か?野菜か?

2023年07月02日 09時01分54秒 | 子どもたちのこと

日曜の朝、たまにはお気楽な話を!

先週の木曜日の出来事
月木はいつも雨が降らないでほしいと思っている
小学生の登下校に傘をさして歩くのは可愛そうだからだ
(月木は登校時に校門まで付き添いで歩いている)

車で出かけ家に着いた午後4時ごろ
小3の女の子と小4の男の子が何やら真剣に話しながら歩いていた
「おかえり!」
「ただいま」
あいさつもそこそこに、女の子が聞いてきた
「ねえねえ、おじさん、メロンは野菜、果物、どっち?」

「なになにだから果物だよ」
間髪をおかず男の子が自説を披露する
「違うよ、メロンはなになにの種類だから野菜だよ」
女の子も負けていない

「そうだな、これは難しい問題だな、、どっちかな」
果物の定義を思い出すとどうやら野菜っぽいが、、
「ちょっとわからないなあ」
「なーんだ、今度(月曜のいつもの付き添い時間)までに調べておいて」

彼らはまたそれぞれの意見を交換しながら家まで歩いていく

こんな出来事がとても幸せな時間に思えてくる
地域で子どもを育てるなどと大げさなことではなくて
単純に子どもたちが緊張感を持たずに大人と接することができる
というのは、本当に良いことだと思う

ところで、ネットで調べてみると、メロンは野菜か果物か?
の問はしばしばあるようだ
答えは、生物学的な分類では野菜に入るが
商品として扱う青果業界(?)の方では果物として扱っているので
どちらとも言えるようだ

もう少し調べておかないといけないが
彼らは今度会う月曜日までこのことを覚えているだろうか
(忘れていたら、こちらから言ってみよう)

でも、いろんな都合でどちらも正しいと言うのは
子どもたちにとってはスッキリしないかもしれない

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置かれている立場は、どのくらい考えられているのだろうか

2023年07月01日 09時30分09秒 | あれこれ考えること

簡単に白黒つけられない問題を取り上げて日本でも一時期流行した
マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」
その中に取り上げられたと記憶しているのが
大学入学に関する選考に黒人や中南米系を優遇する積極的差別是正措置
(アファーマティブ・アクション)

アメリカの現実世界では、黒人とか中南米の人々は裕福でない人が多く
その人達は白人たちと比べて入試に対する準備が十分で無いことが多い
それを踏まえて、この人たちに入学の人数枠を設けるようにしたのか
それとも予め試験の点数を加算しておくのか忘れてしまったが
とにかく、現実的に不公平な環境をカバーするために考えられた制度だった

これは不公平ではないか?との指摘が以前からあった(特に保守層から)
本の中でも、どのように考えたら良いか、、と問われていた
(どちらが正しいとの結論は出していない)
自分も、さてどちらの選択が良いのだろうか、、と考えてみた

入試は誰もが公平に行われるべきだ!とするものと
そもそも置かれている環境が違うので
ある程度のハンディキャップを設けるのは良い選択だ!の2つ考えのうち
あるときは前者の考えに同調したり、あるときは後者の考えに賛同したりした

ただアメリカの社会では長い間この措置は良い方法とされていたようだ
ところが最近、連邦最高裁でこの措置は違憲と判断されたとのニュースが
新聞に掲載されていた

最高裁判事の人数構成は、この制度を良きものと考えない保守派(トランプさん寄り)が
多いために、今まで45年守られてきた制度がひっくり返ったようだ

白黒つけがたい問題を、無理矢理にも決める制度が裁判というものかもしれないが
この裁判というものは、どれだけ社会的な環境を加味して判断するものなのだろうか
公平という概念は、精緻な言葉の解釈だけで終止して良いものだろうか?

裁判という制度の中では、一般人が感じ取る常識的な気持ちを
どのくらい取り上げるのだろうか
それとも、頑なに社会の空気に振り回されるのは良くない
とされるのだろうか

このように実生活とあまり関わり合いのない話題が気になったのは
現在進行している裁判のことを考えたからだ
原告側が異様に高いと感じている(市が購入した土地の)不動産鑑定結果と
その評価を出す過程での不自然さを説明すると
大概の人は「出来レース」が行われたと想像してしまう
(特に誘導したわけでなく、単に事実を列挙しているだけでも)

普通の人が思うような印象を、裁判をする人はあえて捨てて判断を行うのだろうか

時間がかかる裁判という制度、、
人が判断するものだけに、どうやら裁判官のキャラクターで
だいぶ結果が異なってくるらしい
だとしても、常識的な感性を持った人に扱ってほしいとつい思ってしまう

今日は一つの備忘録として、、

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