先日読んだ「鬼の研究」馬場あき子著の中に、鬼のエピソードとして
「伊勢物語」と「源氏物語」の例が紹介されていた。
そこで、一体どんな話だったのだろう?
と本棚にある「伊勢物語」と電子書籍(無料の青空文庫)の「源氏物語」を読み直してみた
ぼんやり覚えていたのは「源氏物語」(葵)の方で
嫉妬に狂う六条御息所が(物の怪)生霊になって葵上に乗り移り、命まで奪う話で
物語の最初の方のインパクトのある話だ
光源氏は苦しむ葵の上の近くにいて、そこで特徴ある匂いに気づく
それは六条御息所を感じさせる匂いで、葵上の苦しみの原因は六条御息所と自覚する
この生霊は鬼とは表現されていないが、「鬼の研究」では鬼のようなものとして紹介されている
一方「伊勢物語」の方は全然覚えていなかった
6番目の「芥河」にそのエピソードが書かれている
思いを遂げられない男はある日女を盗み出す
暗くなって天候も荒れてきたので、ある倉に女を隠す
そして自分は入り口で番をしていたが中で奇妙な声がする
そこでは鬼が来て女を食べてしまって、朝になって男が中を見ると誰もいなかったという話だ
このフィクションのような物語は、実はこういうことなのですよ!と最後に紹介されている
それによれば、とても美しい二条の后に恋慕した男が盗み出して背負っていったところ
后の兄の堀河大臣基経、長男国経大納言と言った方々が参内なさるおり
ひどく泣く人がいるのを聞きつけて、男が連れて行くのを引き止めて、后を取り返したとのことで
このようなことを鬼といったのだとしている
本当の話よりデフォルメされた話のほうが面白い
昔の人の想像力は馬鹿にできない
「竹取物語」は宇宙人の話だし、
「浦島太郎」はタイムトリップのようなSF的要素がふんだんにある
このような荒唐無稽な物語がいつまでも残っていて、
人の心に今も何らかのインパクトを残しているという事実は、
そういうものは人の生活に不可欠なものとして、薄ぼんやりと自覚しているのかもしれない
最近は無駄なものが実は必要なのではないか、と思うことが多い
損得だけで片付けられない無駄なもの、、
そもそも無駄なものとはなんだろう
今の時代、何が正しくて何が間違っているのかを把握するのは難しい
一般論からすれば対立する案件はそれぞれの立場からの理屈やら
情報を得るのが正しいとされる
だが、それは時として受け入れられない考え方になるかもしれない
ニュースで見かけたものに、東大新入生に対する祝辞のあいさつに
NHKのオリンピック反対のデモに関して肯定的な立場とは言えない
映画監督の河瀨直美氏のそれがあった
見出しには「ロシアが悪いと単純化するのは良くない」みたいな内容で
直感的にこの内容は全文を読んでからでないと誤解を受けそうな印象を持った
実際のところ、ツイッターには彼女の発言を否定的に捉えるものの少なくなかった
そこで試しに全文が載っている記事をざっと読んでみた
するとそれは新入生に向けての今後参考にすべき考え方とか感じ方を述べているものだった
自分が初めてカメラレンズを通して見た世界のリアリティとその驚き
人はその背後にある何かを探らなければならない、、
そのためには自分を信じ、そして同時に疑わなければならない、、とする考え方で
今回の例で言えばロシア即悪!とするのは間違いで
自分たちもロシアのようになる可能性を否定し得ないとする考え方で
それは一般論からすればまともな考え方だ
しかし、残念ながら彼女はNHKの放送でどういう人物像かというイメージができつつある
オリンピック反対に否定的な立ち位置、政権よりというイメージだ
だから彼女のあいさつを全文読むことなく、彼女の発言は全て受け入れられない!
と考える人も出てきてしまう
そしてその即決の判断は多くの支持を受けてしまう
確かに一般論として正しい発想の仕方かもしれないが、今の時期にロシアを例に出すのは
適切でなかったかもしれない
もっと違う例で、両方からの情報を得るべきと言えば受け入れやすかったかも知れない
結局のところ話の内容自体でなく、属性(おかれている立場)でその人物の考え方の
良し悪しも決まってしまうのだ
その極端な例が人格否定までになってしまう
しかし人は感情の生き物、一般論のあるべき論で時を過ごせるわけじゃない
むしろ時として不合理な行動を起こしがちだ
戦争などの非常時には憎しみの感情は抑え難く
やられたらやり返したい、、という気持ちの存在は多分誰も否定できないだろう
日本の江戸時代は仇討は一代に限り許可されていたようだ
このように制限をつけないと永遠に憎しみは続いてきりがないからだ
話は飛んで、以前フーコーの「監獄の誕生」を読んだ時
印象的だったのは、有名な監視委員からは見えるが囚人からは見えない
円形の監獄ではなくて、これでもか!と紹介された死刑とか罰の残酷さだ
例えば、囚人の左右の足首に紐をつけその先を馬につなぎ合図で反対方向に馬を走らせる
といったような気持ちが悪くなりそうな話があって、人はどこまで残酷になれるのだろう
と落ち込み込みそうになった
人はどこまで残酷になれるか、、を実験したのはアイヒマン実験とされるミルグラムの実験だ
被験者は正しい役立つ実験をしていると思わされる
その被験者は、ある人物が問題の答えが間違うと電気ショックを与える役割をになっている
その電気ショックも徐々に強くなっていく
この実験を仕切る人の命令にどのように従っていくかなどの、
命令に従う心理をえげつなく確かめた実験だ
戦争の今、現地にいる非人間的な環境におかれた人は
いったいどのようなことをなし得てしまうのか!
残酷な命令でも従ってしまうのは心理的・統計的に仕方のないことなのか
組織論としての命令に従うシステムと個人としての倫理観
個人の総合が社会とか組織ではなくて、社会とか組織はそれ独自の動き方をする
その時の個人は、いったい何を拠り所に行動するのだろうか
おそらく人の中には悪魔的な要素と天使的な要素が同居している(と思う)
大切なのは良い部分が多く現れるようになることだ
どうすればこの確率を上げることができるようになるのだろうか
本当に毎日の戦争のニュースは気が滅入る
「鬼滅の刃」で鬼が注目されている(ちょいと古いか!)
鬼に関する本、確かどこかにあったぞ!と引っ張りだしたのが
「鬼の研究」馬場あき子著だ
この本は途中で挫折した記憶がある
今なら読み終えられるかも、、と再挑戦してみた
ところが結果は前回と大して変わらず
やはり途中で投げ出したくなった
というのは難しい内容と言うよりは、そこに出てくる紹介の例を(今昔物語とかその他)
全く知らないので、それを前提に進められる話はついていけないのだ
この本は初心者向けにわかりやすく書かれた本ではない
むしろある程度の知識のある人向けの専門書とか学術文献みたいなものだ
それでも悔しいので最後のページまでめくるように頑張った
そこで実感したのは、世の中には知らないことが腐るほどある
そして専門的に時間をかけてずっと追求してる人には勝てないな、、という思いだ
これは少し前に読んだ本も同じだった
「平安京の下級役人」倉本一宏著
歴史は政治的に上の人たちの出来事で書かれているが
この本は実務を司る人々の出来事を中心に書かれている
すると、いつの時代も同じだな、、と思えるような
しょうもない狡さとか横着さとか意地だとか、、いろいろ紹介されている
ところが、この本も先の本と同じで、エピソードがたくさん出てくるのはいいいが
その登場人物の名前は覚えられないし、地位の重さも名前の読み方はわからないし
つまりは実態としての出来事をしっかり把握できるまでにはいっていないのだ
著者はおもしろい内容を紹介しているつもりでも、
これもまたある程度の知識がないと楽しむまでにはいかない
最近はこのような経験が続いた
ついに途中で諦めたのがこの二冊
ロールズの本だ
有名なのは「正義論」だが、いきなりそれに挑戦するのは無茶な話なので
入門編用にこれらを手にした
ところが出てくる引用がさっぱりわからない
「リヴァイアサン」とか「社会契約論」とか、その手の古典を読みこなしている人を
前提に話を進めているので、それらを読んでいない自分は全くお手上げだ
それでも悔しいので想像力で補ってどうにかしようとしたが、、
ついにこれ以上は無理だと積ん読状態にすることにした
(紹介されている「リヴァイアサン」には挑戦するつもり)
それにしてもここ最近の本は、記憶にも感情にも残らないような本ばかりで
自分自身の力量に落ち込みそうになる
FBはおせっかいな機能があって、何年前にはこんな投稿をしていたと教えてくれる
今朝はこの画像を投稿した時のことがアップされていた
ドイツのバイロイト祝祭劇場の写真だ
夏になるとヴァーグナーの作品だけが約1ヶ月間だけ上演される劇場で
ノイシュヴァンシュタイン城を作ったルードヴィッヒ2世の懐を当てにして作った、
オケの上に蓋のようなものがあり音の響きが独特の劇場だ
この場所には7年前の2015年の今日訪れている
音楽祭もやっていないこの時期に訪れたのは昔を懐かしむためで
実は46年前(1976年)の夏、この劇場の前で「チケット探してます!」
とおばあさんと一緒にプラカードを掲げていたところ
運良く「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」のそれを手に入れて
貴重な体験できたのだった
その場所へ、、、あの時の気持を思い出すことができるか?
と訪ねてみたのだった
こんなに小さな劇場だったのか、、
もっと大きなものだと記憶の中では圧倒的な存在感を持っていたのだが
この祝祭歌劇場の他に、昔宿泊した家も訪ねてみた
46年前はこの家の二階に寝泊まりした
朝の食事の時間になると、近所の男の人が来ていて朝からビールを飲んでいた
大きなジョッキにビールを注いで、その中に実験で使うようなU字型の熱を発する
装置をいれてビールを温めていたのがとても衝撃で今も覚えている
この宿の主人は世代も経営者も変わって46年前の話はできなかった
今朝の投稿は記憶は曖昧になると嘆いたが、記憶の中で鮮明になるものもあるのだ
という事実にも少し驚く
ものが覚えられない
人の名前が出てこない
いつも何か探してる
歳を重ねると実感するこのような症状以外にも
しょうがないか!と思いつつ残念なことは幾つもある
動作のスピードが落ちてきている
早く歩いたり走ってるつもりでも数字は大したことはなく
それを確保するための筋肉量も落ちている
それ以外に実感するのは頭の瞬発力の欠如だ
頭が固くなっていると形容される出来事だが
これは本当に実感する
子どもたちとのしりとりも、テレビに出てくるクイズも
「ひらめく」という感覚はどこかに行ってしまったかのよう
囲碁や将棋の棋士たちも年齢を重ねて、こうしたひらめきがでなくなって
経験で対処しようとするようになると勝ち星は遠のくようだ
しょうがない、、
生きてるということは、こういうことを身にしみて感じることだ
できるのは、できるだけボケないように!とすることだけ
しょうがない、、
世の中はどこかバランスが取れているのかもしれない!
と思うようなことがあった
運試しに応募しておいた5月3日の名古屋グランパVS京都サンガ戦の
無料招待のチケット当たったのだ
会場はトヨタスタジアム、座席は選べるが流石に良い席とまではいかない
ただで貰ったものだから文句は言えない、、
と思いつつも確保した座席の値段を調べてみると、3000円ほどだ
今年の始め、しらかわホールとライフポートとよはしのコンサートは
コロナ感染症が心配で行くのをやめて、もったいないことをした
それがこうしてまるでリベンジのようにチャンスが回ってきた
別の分野とは言え、少し損を挽回できるのはなんだか嬉しい
あとは5月3日ころのコロナの感染状況と天気が気になる
当たったチケットだから気が楽で、状況がまずければ行かない
という選択をするだけだ
巣ごもりが続く毎日、そろそろどこかに出かけたくなっている
京都にも2年行っていないし、、、
このグランパス戦が外出のきっかけになるかもしれない
昨日、4月7日 午前9時半頃、新城市で震度4の地震があった
外出の準備をしていた時で、上着を出そうとしていたちょうどその時に
ガタガタと音がしだした
車が通過する音どころではない、細かく揺れている感じで地震だと気がついた
こういう時の時間は長く感じるもので、すぐに収まらないことに
一瞬どうなるのだろうと不安を覚えた
「何?何?」
同居人は事情が把握できていない
ただ、すこし慌てている感じ
「大きかったね!」
やっと音も揺れも収まって話をする余裕ができた
タンスの上においてある額が落ちていた
下はそれ以上の被害はなかった
2階を見に行くと幸い何事もなかった
テレビをつけた
少しすると画面に地震の情報が流れ出した
震源地は愛知県東部の文字がある
地震は勝手に遠いところで起きるものと思いこんでいた
愛知県東部とはどこだ?
震源地の正確な位置を知ったのは今朝のことだ(随分のんびりしてるが)
震源地は、緯度 北緯34.9度 経度 東経137.5度
新城文化会館の手前の「はなのき広場」だ
こんなに近いところなのか
家から1キロくらいしか離れていない
それでいつもより不安を覚えたのか、、と自分を納得させる
埼玉の妹は頻繁に地震を経験しているのであまり驚かなくなっているようだが
めったに地震の経験がないこちらは、普段より少し大きいとビクビクしてしまう
それにしても震源地がこれほど近いとは、、
地震雷火事親父
やはり地震が一番怖い
最近は良いことがない
昨日は新型コロナの陽性者が市内で25名も確認された(防災無線によると)
まるで世界の不安定な状況が自然にまで影響を与えているかのようだ
どの世界にも平穏の日々が訪れますように!
月木のあいさつ推進運動が再開した
近所の小学生が集まって、あいさつをして校門まで歩くお楽しみの時間だ
いつも集合時間が守られていないので、ギリギリの時間に家を出ると
なんと子どもたちは列を作って歩いてる
慌てて列に参加する
いつものようにわがままになってきた一番小さな女の子が
「これ持って!」と当然の顔をして手渡す
「僕のも持って」とまだお喋りに恥ずかしさを感じない男の子が
同じように渡す
今までと違うのは一緒に行く子の数が増えたことだ
家の周りは新築住宅が増えて、4月前に引越してきた人たちがいて
そこには子どもがいて、一緒に行くことになっていた
その他にも近くの子が集まって、なんだか賑やかくなってきた
「ねえ、しりとりやろう!」
以前、「それ前にも言ったよ!」
とダメ出しをした女の子が誘う
そこで4人でしりとりをしながら校門まで歩いていく
天気はいいし、子どもたちは屈託ないし、なんだかホッとした幸せな気分になれる
校門まで来ると、人事異動でいるはずのない教頭先生がいた
近くによると少し違うことに気づいた
「〇〇さん、おはようございます」
えっ、なんで自分の名を知ってるのかな?
「〇〇です」
それを聞いて何回かあったことのある人だと思いだした
前回の教頭先生も優しい良い人だったが、この方も以前お会いしたときも
共感力のある直感的に信じられる雰囲気の方だった
ということで、いろいろ変化のみえる新学期がスタートだ
本でも映画でも覚えていることは本質と関係ないことが多い
市川海老蔵と中谷美紀が出演した緊張感に満ちた映画
「利休にたずねよ」でも覚えているのは変なことだ
「想い人」
利休の妻の宗恩が、映画の最後の方のシーンで利休に尋ねたキーワードだ
(彼の中には妻の知らない永遠の女性がいるのではないか?という問)
この言葉は良い(好きだな)
響きも、そこからイメージできる世界もどこか非日常的な雰囲気がある
そこには永遠に満たされないようないイメージがある
そして深く内面に隠された秘密のようで
このような雰囲気のある言葉は捨てがたい
昔、祖母は台風のことを「大風(おおかぜ)」と言った
台風よりもどこか雰囲気がある
また最近では使われなくなった「入道雲」も
積乱雲というより無邪気でいたずらっぽくてずっと雰囲気がある
味気ない機能的な言葉より(それはそれで必要だが)
こうした雰囲気のある言葉も大事にしたい気分!
「盗人にも三分の理」
突然浮かんだのがこの諺だ
言葉で問題解決をクリアしようとしても、対立する同士はそれぞれの理屈を並べるから
なかなかうまく着地点が見つけられない
国会中継(森友・桜など)を見ていても
モヤモヤ感は募ることはあってもスッキリすることはない
そして今回のロシア・ウクライナの戦争も似たようなものだ
それぞれに言い分があることを表現したこの「盗人にも三分のの理」だが
不意に「盗人に理屈はあったとしても、それは三分しかないのだ」と思えてきた
常識とか正義とか倫理観とか、あるいは自然法的な視点からすれば違和感を覚える理屈も
それらの判断を伴わない手続き上の討論の場は、それぞれが単純な意見の相違で片付けられてしまう
Aという考え方があり、それに基づいて相手方を追求する
それに対し、相手側はBという反論を試みる
しかし、このBという反論は言葉の上とか理屈の上で存在したとしても
常識・正義・倫理・自然法的な見地からすれば屁理屈としか思えないことも多くある
つまり、討論の場に存在する意見の相違は同等に扱われるべきではなくて、
全人格的な価値観から判断された強弱をつけるべきだと思えてしまう
つまり盗人の理屈は三分まで認めるとしても、
大枠はある意味それを無視しても進めるべき時があると思う
それをコントロールするのが進行役の議長の役割
進行係が現実には三分の価値しかないものを、同等の価値のある考え方として認めるのは
いたずらに議論をややこしくするだけのように思えてしまう
となると進行係がそんなに全人格的な役割を果たすことができるか?
が問題になってくる
だが現時点では残念ながら進行係は党利党略で、あえて屁理屈も同等の考え方として扱うようになっている
最近は野党の追求がぬるいと言うよりは
ちゃんと答えない政府の言い分を、ちゃんと答えていると判断する進行係の責任も大きいのではないか
と思えてきた
単純に進行係が「聞かれていることに答えてください、論点がそれています」と言えば
話は進んで行くのに、それを避けるかのように、そしてそれが熟議だと錯覚させるように討論を続ける
これでは決着するはずがない
本当に実感するのは、今の世の中は民主主義といいながら実態は少数者の支配する社会になっているということ
そして残念ながらこの国は権威主義的なものに弱いという現実
自分たちのことは自分たちで解決していくという癖ができていない世の中(日本の)
アマゾンの労働者は自分たちのために自ら動いて労働組合を作ることができたのを
日本の、特に若者は見習って欲しいと思う