パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

またもやいつか見た光景(日韓戦)

2019年12月19日 08時50分37秒 | サッカー

やはり負けた試合のほうが参考になることは多い
なにが悪かったのか、どうすべきだったのか、それらの問題を
今後どの様に解決していくのか、、、

昨晩の東アジアE-1選手権の韓国戦は0-1で敗戦
悔しいというよりも、またもや同じことをずっと続けている失望感のほうが多い
韓国は日本と戦う時はこのようにするといった伝統のようなものがある
戦う意識に富んで、体格的にも若干上回る韓国はそれを活かすような戦術をとる
蹴って走るだけと評価する人もいるようだが
良い戦術とは勝つ戦術できれいな戦術でも負けたら意味はない

昨日の韓国は最初からプレスが効いていた
日本の選手は前に立たれるだけでパスコースがなくなるどころか
ボールを取られたり、パスミスを繰り返していた
そしてハリルホジッチがあれほど問題としたデュエルも勝ち目は無かった

日本人の美意識と言ってしまえば聞こえがいいが、たくましさがないサッカーが日本のサッカーだ
ラグビーで有名になった「ワンチーム」という言葉は一歩間違うと一人ひとりが責任を負わない姿勢を
正当化してしまいそうだ
数的優位を常に確保する戦術、接触プレーを避けるプレー
しかし昨日の解説でもあったが、「ここで一人剥がせば一気に有利になる、、、」の言葉
DF陣のパス交換にプレスをかけるとすぐにバックパスを行う
これがスペインなら上半身のフェイントで交わしてプレスの無効化を図る
それが続くとプレスをしても無駄だからプレスはしなくなる
それによりきれいなパスワークが可能になる

ところがプレスをかけると効果があると実感するプレーヤーは自分のタスクを体力の続く限り行う
シビアな戦いというのはそういうものだ

香港とかモンゴルを相手にする時はさほど感じなくても、強いチームと戦う時は
日本の個人のボールキープ力とかボール奪取力とかドリブルの力とか一対一の弱さがとても気になる
その他にもロングパスの正確さ等は「狙いは良かったのに、残念」とため息が出るのが毎回
結局のところ肝心なところの技術がまだまだなのではないのか、、と思ってしまう

昨日は国内組のメンバーで解説も言ってたが、このくらいのプレスはヨーロッパや南米では当たり前で
その中で普通にプレーできるようにならないといけない、、はまさにその通り

それともう一つの問題はFWの選手に自ら持ち込んでシュートをすることのできるタイプの存在しないこと
点で合わせたり、背後に走り込んだりするのがうまいのは結果的にコンスタントに点は取れない
インザーギやミューラーのようないい場所にいるタイプの選手でもシュートの能力が極めて高いが
日本の選手はゴールの上を飛んでいくシュートが多い

左右の攻撃で相馬に代わってから縦に仕掛けることが多くなったが
それまでは、そこで止まらずに縦に行けばよいのに、、とかまずはシュートを撃てばいいのに
と思った瞬間が何回かあった
これはいつも思うのだが、失敗を極端に恐れる日本社会の縮図みたいな気がしている

サッカースタイルは国民性を現す様に思えてならない
みんなが教えられたようにひとつになってきれいなサッカーをしよう、、よりも
一人ひとりがたくましくて、個々がそのときその時の判断の選択肢が多くて
なおかつ正しい判断ができて、結果的に統一感のあるチーム、、というのが
個人的には良いと思うのだが
(それを思うと昨日のメンバーはひ弱な印象)

サッカーでもグローバルスタンダード(一対一の強さ)が基本とならず、
それなりの商圏を持つ日本だけで通用する価値感や判断で回っていくようで
結局不満は、このようなことを許している日本の社会のあり方にもつながっていきそう、、




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渋抜きと干し柿

2019年12月17日 08時34分05秒 | 徒然なるままに

半月ほど前、松江に出かけた妹がお土産に渋柿を買ってきてくれた
物好きな兄を思い浮かべ、きっと干し柿に嬉々として挑戦するに違いないと
見込んでのことだ

ドーンと大量の柿を見ると、皮を剥くだけで面倒くさそうな気がするので
同居人の「ホワイトリカーで渋抜きをする方法を探して!」の命令に従って
検索してみると、これが簡単でヘタの部分をホワイトリカーに少し漬けて
後は冷暗所で空気に触れないようにするだけ

でもやっぱり干したほうが雰囲気が出るので皮むきに挑戦
ピーラーで剥くのではなく包丁で剥いたのでヘタと
ゴツゴツした形のせいで少しばかりやりにくい

役割分担をして剥き終わったら熱湯で消毒
カビ対策をして干すことに
だが新城市の気温の中で干してカビが生えないか、、不安は尽きない

洗濯物の近くにぶら下げて寒風に晒すこと約二週間
徐々にサイズが小さくなっていく
明らかに水分が抜けていくようで、柿は赤くなってジュルジュした感じに
このくらいがうまそう!と思うが、我慢我慢
粉がふくまで吊るそうと声を掛け合う

雨に降りそうな日は、屋内に干して一番偉いのは「柿様」のよう

しかしせっかちなのが我が家の血筋
誘惑に負けて干し柿をひとつ食べてみた
もう大丈夫、十分食べられる
黒くなってカビかもしれないと心配したが、どうやらカビではなさそう

すると今度は渋抜きをしたほうが気になる
レジ袋を三重にした中から取り出して、皮を剥いてみる
柿は柔らかくなっているので包丁で剥きやすい
甘柿の熟したような感じ
少しばかりホワイトリカーの香りがする

口にすると、、、甘い
でも、口の中がシワシワになるような感覚を覚える
渋柿を食べた時のあの感覚だ
甘いけどやっぱり元は渋柿なんだと実感する

モノ好きな自分?だが、こうして家族のドタバタした記憶(思い出)が
一つ一つ増えていくことが今はとても貴重なことのように思える

 

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新城吹奏楽団 第90回定期演奏会

2019年12月15日 17時57分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

誰かに話したいとか、忘れないうちに書き残しておこうと思ったのだから
今日のコンサートは大いに満足いくものだったと評価して良いだろう

新城吹奏楽団の定期演奏会が文化会館で行われた
とんでもなく低価格(前売り500円)で、毎回楽しみにしている
プロのオーケストラも良いが、アマチュアの熱い演奏も捨てがたい

通算90回にもなる定期演奏会のプログラムはすごく意欲的で
こんな具合


 

新城市みたいな地方都市だから有名な曲を並べたものかと思いきや
冒頭の曲目はまるっきりの現代音楽
美味しいメロディがあるわけではない、むしろメロディなどは存在しないような
引き伸ばした音があるだけ
指揮棒が動き出すとティンパニが鳴り出す、最初は小さな音で、次第に大きく
それが繰り返されると大太鼓と一緒に思いっきり革はぶっ叩かれる
その音色に不意に、これは日本の音だ!と感じた
ティンパニは西洋音楽を基本とした音程で準備されているが
それが和太鼓のような音色だった
それから続く音楽は聞きやすい音楽ではない
だが現代人しか納得して味わうことができないような、あるいは共有できないような印象を持った
ところどころ武満徹を思わせるような緊張感やベルクのルル組曲の騒音を思わせる部分があった

以前聴いたこの定期演奏会でも山本家寛氏が作曲した現代音楽の初演があった
それは無調のようだが、しかし、決して聴きにくいものだはなかったが、それをつい思い出した
古典となった曲ばかりでなく、こうした曲も生でしか集中して聴けないから
ラトルが実行しているような(現代音楽を扱った)プログラムは必要なんだろうと思ったりする

第一部の最後の曲は、先の2つの曲よりも横に流れる
音楽の民族性とか国民の持っているリズム感、旋律嗜好を感じるような気がした

少しの休憩を挟んで、第二部は愛知県の生んだアスリート浅田真央さん絡みの曲
ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」とラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」
少し気になったのはピアノの音が弦の代わりの楽器群に消されてよく聴こえなかったこと
自分の座った位置が悪かったのか、管楽器でバランスを取るのが難しいのか

第三部は、「モルダウ」からスタート
個人的な好みだが冒頭のフルートの掛け合いは、ピアノの音なしのほうが良かったのではないか
フルート奏者がそれぞれ思いを込めて会話するように演奏してほしかった
それからあの有名なメロディが奏される時はもっと憧れを感じさせるように、少しだけある部分を伸ばして、、、、
(ついフルトヴェングラーの指揮するモルダウを思い出してしまった)

「展覧会の絵」と「パリのアメリカ人」は指揮が背の高い若い女性に代わった
驚いたのは音が明らかに違うと感じられたこと
まずは彼女の生み出す音がパワフルだった
それは単に音が大きいというのではなく、中音域の音が詰まっているような
若さに溢れているような、奏者も共感しているような音色だった
同じメンバーなのにどうしてこんな風に音色が変わるのか、、とても不思議な気持ち

実質的には以上でプログラムは終わり
パンフレットにはまだ数曲あるようだが実質的にはアンコール的な要素のように思われた
今回のプログラムの実験的なところは
「天国と地獄」の前の「ストーン イメージ」と題された楽曲が再び現代音楽だったこと
第一部は武満徹を連想したが、今度はその音楽の短いところと音程の飛躍もあって
ヴェーベルンの俳句のような音楽を連想した
(昔聴きいったサイモン・ラトルの演奏会のアンコールに
 ヴェーベルンの30秒位の音楽が奏されたことがあったが
 音楽に酔った身にはとても純粋で美しいものに思えたことがあった)

ということで、少し興奮冷めやらずといった感じ
これで500円の出費なのだからとんでもなくコストパフォーマンスがいい
次回も絶対行かねば!

 

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アイヒマンの裁判の判決文

2019年12月15日 08時45分36秒 | あれこれ考えること

アイヒマンは単に運の悪い公務員に過ぎなかったのか
思考停止をして、誰かがしなければならない役割を粛々とこなしただけなのか
後からはなんとでも言えるが、彼の行動とその結果下された評価を
今一度よく考えてほしいと思われる立場の人たちがいる

それは誰もが嘘を言ってると感じる答弁を続ける官僚さんたちと
答弁の一貫性のために無理筋の話を続けなければならない市の職員たち

想像力を働かすと、アイヒマンの裁判の判決文は、自身はいかに判断し
行動すべきかを考えるきっかけとなる
その判決文の抜粋は

個人の判断は何に従うか、従うべきか、、
思いの外難しい問題
だが、このことを時々考えることで、正しい答えに向かっていくような気がしている

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話を聞いてられないのは、、、

2019年12月14日 10時37分01秒 | 子どもたちのこと

平易な文章ながら、その光景がフッと目に浮かぶ喚起力に満ちた
エッセイが須賀敦子の作品
つい嫉妬してしまいそうになるが、短くて読みやすいので
(その割には読み進めていなかったが)
手にしたのが河出文庫の「霧のむこうに住みたい」

その中に、作者はさほど気にして書いたのではないだろうが
読み手として気になったところがあった

「となりの町の山車のように」と題された冒頭部分

教室であの子はいつも気を散らしています。
母が学校の先生に会いに行くと、いつもそう言われて帰ってきた。
どうして、ちゃんと先生のいうことを聞いてられないの?
母はなさけなさそうに、私を叱った。
聞いていないわけじゃないのよ。わたしにも言い分があった。
聞いてると、そこからいっぱい考えがわいてきて、先生のいってることがわからなくなるの。
そういうのを、脱線というのよ。お願いだから、脱線しないで。
脱線しないようにしよう。わたしは無駄な決心をした

この部分が気になったのは、月木の勉強のお手伝いの時の
落ち着きの無い子たちの様子がすぐに頭に浮かんだからだ

彼らはストレスが溜まっているかもしれないが
頭にいろんなことが浮かんで思いついたことを言いたくて仕方ないのかもしれない
むしろ、そのように考えたほうが納得できそう気さえする

子どもたちには現在進行系の時間しか存在しないように思える
今起きていること、そこから喚起されたこと、その時の怒り、悲しみ、喜び
それらが整理されずに一気に頭に浮かぶ
現在進行系の時間しかないから先程まで喧嘩していたのに、しばらくすると
泣いたカラスがもう笑う状態で、じゃれ合っているを見かける

ただ、現在進行系の時間しか経験していないようでも着実に脳のニューロンは伸びて
記憶は蓄積されていく
子どもたちが子どもたちでいられる時間はとても貴重だし
その時間(何をしても見守られている時間)を体験し尽くさないと可愛そうと思えてしまう

でも大人としては、現場でちゃんと勉強してくれないと困るのも事実
(大人に心の余裕が無いと駄目みたい)
こんな風に手こずるお手伝いは、いろいろな発見があって面白い

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「自殺行為って何?」と聞かれた

2019年12月13日 08時13分28秒 | 子どもたちのこと

どのような経過で出てきたか忘れてしまったが
その場にふさわしくない「自殺」という言葉が会話にあがった
昨日の外国人を親に持つ小学生の勉強の手伝いでのこと

木曜日は3年生以上で、まだ可愛い我儘な低学年とは異なり
体も大きくなって少しばかり智慧のついた子どもたちを
机に向かわせるのは一苦労する

昨日は小学校は親との懇談会があって下校時間も早く
この勉強会もいつもより早くスタート
集まりも少ない
大いに手こずるNくんだが相棒のGくんがいないのでつまらなそう
「今日は宿題をやって帰る!」と書取のノートを開く

でもやはり集中はできない
少し書いては何かを隣の女の子に話しかけたり鉛筆の動きを止めたりする
そんな中で何故か出てきたのが「自殺」という言葉だった
「俺は自殺なんかしない」
身長は既に自分と同じくらいになって生命力に満ちた彼は言う
それを聞いて、いい機会だと!自分の心に残っている辛い経験を話した

「昔、サッカーのコーチをしていた時の子がね、大きくなってから自殺してしまったんだ。
  すごくショックだった。自分で自分を諦めてしまったこと。
 自分で自分の人生に意味がないと決めてしまったこと。それがとても悲しい。
 生きていなくて良い人間なんていない。
 だからね、僕は君たちに自分で自分を諦めない人間になってほしくて、その少しでも手助けになれば
  と思って来てるんだよ」

彼はまた言う
「おれは絶対自殺なんかしない」
そして聞いた
「自殺行為ってなに?」

「それはね、例えば試験があるとすると
 普通は試験の前に勉強して試験に備えるよね
 それをしないで遊んでいると、いい成績は取れなくなってしまう
 このような自分で損なことをしてしまうことを自殺行為  というんだよ」

「ふーん」
なんとなくわかったみたい
「だからね、君のように頭が良くて、字もうまくて元気もある子が
 この時間を自分からムダにするようなことをするのは自殺行為ってことになるよ」

「そうだ、これからは集中できていなかったら自殺行為をしてる、、と言おうかな」

彼は自分の行為が自殺行為だと認識したようだ(今後集中してできるかは別問題だが)
小学生の6年生(NくんやGくん)がどのくらい抽象的な話を理解できるかわからない
だが、昨日の会話は彼の体の中に確かに吸収されたような感じをもった

「よし!これからここまで(漢字を)書く間、おしゃべりはしない」
そう言って彼はノートに集中する
だが、2行ほど書くと隣の女の子に話しかける
「おいおい、自殺行為だぞ」

彼は納得して書き進める

子どもたちとの交流は少しづつしか進まない
週に一度だけ会って勉強だけの接点、それは「しなければならない!」
ことの監視でしか無いのならそれは勿体無い
彼は自分で言った
「おれが真面目にやらないのは勿体無いってことだね!」

その通り、でもきっとすぐに忘れて相変わらずマイペースで我儘な行動をするだろうな(と想像する)
その時は「おいおい、自殺行為をしてるぞ!」と言ってやろう
しばらくは彼の頭には残っていそうなことだから



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万葉集から古今・新古今への変化、バロックからロマン派の変化

2019年12月11日 08時44分33秒 | あれこれ考えること

令和の出典が万葉集にあるということで、一時期書店には万葉集の文庫本が並んだ
そのうち、自分も4冊あるうちの2冊を購入
時々、指差しパッチン!で適当なページを眺めている

万葉集で覚えているのは(多分)中学の教科書に出てきた山上憶良の

銀も金も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも
(しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも )

子どもにまさる宝物があるだろうか  という歌で
この歌を知った時は、大人たちはこのように見ていてくれてるのかと
子ども心に嬉しかった

その後覚えたのがリズムの良い額田王の有名な

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

これ以外にも、少しばかり個人的な経験もあり忘れられないのが大伴坂上郎女の

夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ(を)

万葉の歌は本当に素直な感情の発露のように思われる
でも素直すぎる表現も少し物足りなってしまうこともある
もう少し時代が下っていくと恋の歌でも複雑な感情を表現するようになっている

リズムがよくて気に入ってるのが待賢門院堀河の

長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ

同じくリズの良い小野小町の

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらまし

歌の技巧の変化と感情の複雑さが時代の変化を反映しているかのよう

これと同じようなことが音楽の世界でも見られる
バロックの音楽はひとつの思いに直線的な感じがする
その中に技巧(フーガとか変奏曲)はあるとしても、思いはストレートな感じ

それが徐々に感情表現としての音楽は、時代を経るに従って複雑になっていく感情を
複雑な和音と、ひとつだけのテーマで終始しない形式を作り出していき
それが時代にフィットする様になっていく

この変化は和歌の変化と似ているな、、
というのが最近の気づいたこと

和歌や音楽は進歩しているというよりは変化している
と思うわけだが、現在の世間も似たようなもので決して進歩しているとは思えない感じ

結局のところ、すべてのことは試行錯誤しながら(その時代の空気を反映しながら)変化していく
と思ったりする








 

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第九のシーズンなのでCDを聴いてみたら、、、

2019年12月10日 10時45分29秒 | 音楽

夜のひととき、以前ならテレビを家族で揃って見て時を過ごすこともあったが
最近は見るに値しない番組ばかりで、テレビから退散して音楽に耳を傾けることが多くなった

この時期は第九のシーズン
安易に聴ける曲ではないが、思い立ってデイヴィット・ジンマンの指揮する
チューリッヒ・トーン・ハレ管弦楽団のベートーヴェン交響曲全集のなかから第九を引っ張り出した
以前聴いた時は現代的な活気のある演奏の印象

久しぶりに聞いたら新鮮で驚きを覚えた
テンポが速いだけでなく音楽が合奏を楽しむような趣で
いつもならあまり良く聞こえないような音まで聞こえる
でもそれはベートーヴェンが望んだ音なのかな、、、と思うこともあったが
これもありかな、、と楽しんだ
第一楽章は13分くらい

これを聴いてる最中に、フルトヴェングラーの演奏を今聴くとどんな感情を持つだろうか
と頭に浮かんだ
それで、1942年の戦時中のベルリン・フィルとの演奏で比較した

まず明らかに違うのは演奏時間、こちらは18分位かかっている冒頭の音が、音形が表現するものが違う
ジンマンの演奏は交響曲の主題、これから発展する要素の提示のような感じ
あくまでも音楽的な要素以外はあまり感じない
ところがフルトヴェングラーの音は、何かを感じる
闇の中から音が生まれるような、現れるような、、そしてその音は
フルトヴェングラーの意識とか思いを現しているような気さえする

フルトヴェングラーの演奏は、大づかみにされた巨大なものを感じる
それは音楽というものではなくて、なにか別の体験をしているような気になる
それはある種の儀式のようなものに参加しているような

再現芸術としての音楽は、どの様に演奏するかが演奏家の腕の見せどころと言われるが
フルトヴェングラーは「何を表現するか?」を求め続けた人との評価がある(吉田秀和氏だったかな)
それに思わず納得してしまう
指揮者のあるべき姿も時代とともに変遷していく
それは時代の求めるものが大きく作用して、今はフルトヴェングラーが表現したものは
もはや過去の遺物とか、昔はこのような表現もあったとの例としか存在していないのかもしれない
そんなふうに思ってしまうのは(自分のような彼の演奏で特別な体験をした者は)もったいない音楽体験だと
思うのだけれど、商業的な視点からは注目されないフルトヴェングラーは若い人には存在すら
認知されていないかのよう
(今の人は古くてもカラヤン、バーンスタイン、クライバーくらいが関心領域かな)

フルトヴェングラーの演奏で今でも思い出す体験は、第九以外にもいくつかあって
そのひとつにマタイ受難曲でキリストが息を引き取ったその後に歌われるコラールがある
その始まりは音楽ではなく「うめき」「慟哭」のようなザワザワしたもので、それは
楽譜では表せないなにかのように感じたものだった
これはどの様に表現するかではなく、まさに何を表現するかのよう(ただし録音は極めて悪い)

第一楽章だけ比較するのはもったいなくなって、第三楽章も聴き比べると
フルトヴェングラーの沈潜した思考とか忘我の瞬間は、、凄い
そして凄すぎるために、一度体験したらそれで十分とさえ感じてしまう

フルトヴェングラーのことばかり考えていたが、もう一つ頭をよぎったのは
ブルックナーの8番の交響曲はベートーヴェンの第九の影響をもろに受けていると感じたこと
神秘的な開始、勇ましいスケルツォ、思索的なアダージョ、そしてすべてを統合するような第4楽章
結局のところ、ベートーヴェン、ブルックナー、フルトヴェングラーは同じメンタリティを
持った人間たちでなのではないか、、、と勝手に思ってしまった





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とうえい温泉と蔦の渕

2019年12月08日 16時25分35秒 | 徒然なるままに

ダラダラと家にいるのは勿体ない
と言っても特にすることはない
こんな時は近所の温泉に出かけるようにしている

いつもは車で15分位の豊川市の本宮の湯
今日は少し遠出をして「とうえい温泉」に出かけることにした
東栄町のミシュランに掲載されたあの蕎麦屋さんに行くのではなく
純粋にお風呂に浸かるため

山に囲まれた道は昼少し過ぎただけなのに影に覆われて
日差しが届かずどこか寂しい

走行距離は約40キロ 一時間ほどの道のり
駐車場は名古屋、浜松、尾張旭のナンバーもチラホラみえる

東栄町のマスコットの出迎えを受けて、700円を自販機で払い温泉へ

お風呂の温度は本宮の湯よりも熱い感じ
ゆっくり湯に浸かるのはできず、カラスの行水まではいかないけれど
早めに切り上げて、お風呂後の定番フルーツ牛乳を腰に手を当てて飲んで帰る準備

駐車場に出ると「蔦の渕 奥三河のナイアガラ」という文字が見えた
看板の案内に従って川沿いを歩くと沢の音が聞こえる
昔、山に登っていた頃、下山するに従って沢の音が大きくなっていくのを思い出した

道が途切れるところには屋根のある見学できる場所があり
そこで見えるのがこのような滝

思いの外、気に入った
こういうのはぼーっと見てても飽きない

帰りの道はいつもの如く来たときよりも短く感じる
今晩のお風呂は短くてもいいかな





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官僚さんとジャーナリスト(電車の中で読んで気になった部分)

2019年12月08日 10時11分37秒 | 

日曜日なので少し横着をして画像のアップでお茶を濁すことに、、

昨日の名古屋に向かう電車の中、気になった部分の画像
マックス・ウェーバーの「職業としての政治」の一部
官僚さんに関する部分

次にジャーナリストに関する部分

だいぶウェーバーの文体に慣れてきて、含蓄の多い内容が理解できるようになってきた

今年は今までに読み終えた本が60冊
難解な数日を要するものからその日のうちに読み終えたものまで
この「職業としての政治」は珍しく読み返している本

難解なものに慣れてしまうと軽いものは物足りなくなってしまう
今月は何冊読み終えることができるか、、、

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