昔、ランチェスターの法則に関する軽い本を読んだ
それは戦いに関する可能性を数字で表すもので
例えば、戦力差(戦う人の数)が異なる場合はどうなるか?
を理屈で紹介するもので、一人ひとりの戦闘能力が同じだった場合
戦う人数が両者同じだったら犠牲者の数はイーブンと計算される
ところが兵力差が3倍ほど違い、双方が銃を撃って戦うとすると
少ない方は一人が3人の相手をしなければならない
一方、多い方は3人で一人を攻撃するので銃弾が当たる確率は
圧倒的に数多い方が有利となる
それが続くと、銃にあたった人は戦えなくなるので3対1の差は
そのうち4対1とか5対1になる
つまりは誰もが想像するように、兵力差による勝敗は作戦の良し悪しを超えた
現実として存在する
日本は先の大戦だったか、その前の戦いだったか忘れたが
相手国との兵力差の違いを認識していた時、日本のお偉いさんは何と
「日本人には精神力がある」と口にして、兵力差はカバーできると口にした
(この理屈は時を越えて、また言葉を変えて好き勝手に利用された)
客観的には先の大戦も冷静な人たちは必敗を予想していた
戦いの初期は有利に進められるかもしれないが
時間の経過につれて上手くはいかないだろうと分析していた
戦前のロンドン軍縮会議では各国の戦艦の数、空母の数などを
(むやみな戦いが生じないように)制限することになった
それは不公平のように思えても、兵力差から予想できる勝敗の帰趨から
現実的な戦いを防ぐ方法だったかもしれない
だがここでも強気の人たちは、この軍縮会議の結果を良しとしなかった
そしてその後、無謀な戦いに進むことになった
だが、この戦いを総括する時になると、お偉いさんたちは
「結果はやってみなければわからない」から
「始めたのは自分たちではない何か別の力だった」
「自分には止める(法的な)権限はなかった」と情けない無責任ぶりだった
こうして過去を振り返ると、勢いで何かが進んでしまったと想像することができる
この勢いというのはとても怖いもので、穏便な中庸な言葉や考えは過激な言葉の影に
隠れてしまう(悪人・犯人探しなどが頻発する)
過去にこうした例がこの国の中にあったという事実を
今の人たちはどのくらい身にしみて感じているのだろう
残念だが自分たちの国も悪いことをした、、
という事実を認めることは自虐史観でもなんでもない
ただ単なる事実の認定に過ぎないのだが
それは一部の人たちには耐えられない屈辱のようだ
こうした歴史修正主義の人たちと。認めるべきことは認めるべきとする人々の間には
分断が生まれているという事実が今は一番の問題かもしれない
(それは対話をするという関係にすらなれないようだ)