パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

タブー、あるいは自己抑制

2021年05月16日 10時20分40秒 | あれこれ考えること

人生をかけて練習に励み、周りも協力し支えてきた人たちに対して
オリンピック反対の声を届けることが、人としてできるのか?との声がある

確かにアスリートに対して辞退するようにとか、反対の声を上げて欲しいとし
それができないなら批判するというのは方向違いだとは思うが
少し心配なのは、そういう立場の人のことを考えて
声を上げること自体がタブーになっているような社会の空気がないか、という点だ

一方、医療従事者の方々は現実に目の前で少し前までは生きていた方が
亡くなるのを見て、精神的なショックを受け、それだけにとどまらず今も
改善の兆しも感じられず、焦りの感覚を持つ
そういう人たちに対しては、人は普通なら同情と感謝の念をもつ

アスリートの方々は、こうした医療現場の方々の状況を見て
果たして自分たちの視点だけで生きていていいいのだろうか
と考える人がでてくるのは当然だと思われるし、なかばそうあって欲しい
だが、それを表に出すのはタブーとなっていないだろうか

あっさり声に出せるタイプの人はいる
でも当事者として自己否定するような言動は表に出しづらいと
感じている人は少なくないのではないか

大義名分がある場合、人はおおっぴらにそれを批判しにくい
我が市では、若者が地域活性化とか地域のために良かれと思うことを話し合い、
それを実現するために、市長に提案するという形で予算提案権を持ちうる制度がある
若者議会というシステムで、各地にある若者会議とは少し違う(議会と会議、順番が違うだけなのに)
何よりも違うのは予算提案権に準ずるものが最初からあることだ
自分も含めてだが、若者に予算提案権をも確保した制度は果たして現実的に有効なのだろうか
考える人は少なからずいる
現実の若者議会のメンバーは高校生が圧倒的に多い
そうした社会経験の少ない人達の意見やアイデアを、彼ら自身が必死になって考えたとしても
無条件に予算化していいものだろうか、、と時々考えてしまう
(結果的に若者たちが市長に訴えた案は否定されたことはない)
今まででてきた予算化された事業は、厳し目な言い方をすれば、それらは幼稚だ
世間を知らないから、そのようなものがでてくるのだろうが、普通なら(大人の社会なら)
アイデアのブラッシュアップが図られる
そもそものアイデアの妥当性、社会性、実現性、効率性、そうしたものを税金を使うものとして
シビアな検討が要求される
だが、これが充分できていないために幼稚と感じられる事業が予算化されることになっていないか
と想像してしまう
実は少しだけ行政が絡んでくるらしいが、どの程度の関わりを持って臨んでいるのかしらない
ただ若者の考えたアイデアを批判してはいけない、、といった、ちょっとブレイン・ストーミングに
対するときと同じ対応をしていないか心配だ
若者の意見に口を挟んだり否定することは好ましくない
それが暗黙のうちにタブーとなっていないか
むしろ熟慮するためには、大人の実感をもとにした批判や否定を若者に伝えるのは
好ましいものと思われるのだが、そこに間違った遠慮はないだろうか

実は若者自身も不安を覚えているようだ
世間知らずを自覚している彼らは、そのような立場で税金を使う方法を決めてしまっていいものかと

その不安に対して、市長は
「予算は議会が議決することになっているから君たちにはその責任を感じる必要はない」
と自ら立ち上げた若者議会の制度を説明して不安を取り除く

でも、本当にそれでいいのだろうか
若者議会に対する評価を、タブー無しで考える時期になっていないだろうか
若者に地域のことを考える機会を与える、、
それだけのことで、物申すのが憚られるというのは、行き過ぎた遠慮に過ぎないのではないか

オリンピックのこととか、若者に対する接し方とか意見とか批判とか、、
つい自己抑制してしまいそうなこと、あるいはタブー
人はもう少し覚悟をもって、自己の考えを表に出す訓練をしないとまずいのでは
と思ったりする

またもや、まとまりのない話



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