パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ゴーギャンになったゴーギャン

2009年04月25日 18時31分18秒 | Weblog
人は女に生まれない。女になるのだ。

これはボーヴォワールの有名な言葉
これと同じような印象を持ったのが
今日名古屋ボストン美術館で見たゴーギャン展

久しぶりに名古屋に出かけ、ついでに十分電車代の元を
とらないともったいないのでと、どちらかと言えば
あまり好きな方でなく、それだけに気の進まない
このゴーギャン展に出かけたのだが、、、

入ってすぐ意外や意外 彼らしくない(?)穏やかな絵が!
「オスニー村の入り口」と題されたこの絵は
自分が美術全集で見かけるあのゴーギャンの絵とは全く違っていて
柔らかくて、誰かに似てると解説を眺めるとピサロの影響が、の文字
なるほど確かにピサロっぽい
でもなかなかいける

こんな風に最初にいい印象を持ったので
次に眺めるものも抵抗感なくその世界を味わうことができた

「森の中」
タイトル通りの森の中の小道を描いた物だけれど
木漏れ日が差しこむ、いつか自分たちも見たような詩的な瞬間
「わかるわかる、この瞬間をとらえたい気持ち』
確かに画家と言われる人たちは、移ろい行く場面を情感豊かに切り取っていくようだ
でもこの作品もあのゴーギャン風ではない

展示作品は徐々にあのゴーギャン風の絵になっていく
入場者はあまり多くなかったので割合ゆっくり見られるのだが
この手の展覧会、いつも自分はとりあえずざっと通して眺めて(解説文、タイトル見ずに)
そこで気になった物をチェックしておいて改めて丁寧に見ることにしている

それで今日もパパッと眺めて気に入ったもの
「二人のブルターニュ女のいる風景」などなどを眺めていったが
その時に感じたのが冒頭の
「ゴーギャンになったゴーギャン」という言葉
当たり前と言えば当たり前だがゴーギャンも年齢とともに変化していく
そして深くなっていく(一般の人に理解しやすいかどうかは別として)
そして彼の作風に至る

あの有名な
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」は
大きな作品なので壁に一つだけで展示されて
たくさんの人でも見やすいようにされていたが
この作品、いいとか悪いとか以前に「異常に真剣な物 張りつめたもの」が
画面全体から襲ってきて急に心臓の鼓動が早くなってきて
どこか落ち着かなくなってしまった
これは確かに凄いかもしれない!
この実感だけが残った

最後に飾られていた「女性と白馬」は
死の一年前に描かれた作品だそうで
どこか達観したような、初期とは違った穏やかさにあふれているように
自分には感じられた
そして不意にベートーヴェンの後期のピアノソナタ30番の世界みたい!
と、なんの脈絡もなく思い浮かび
ゴーギャンが穏やかな世界を最後に迎えられた心境を
(たとえそれが瞬間的であったとしても)
よかったね!と思わずにはいられなかった

この人、文学的なタイトルを付けるだけあって
しっかり悩んだ人だったみたいだ
そしてそれこそが本当のゴーギャンに至る道だったのかもしれない

それにしても絵画も音楽も、状況が許せば「生」が一番いい



コメント
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