山は良いなあ!とYoutubeを見てはそう思う
昨日は自分が最後に登った爺ヶ岳の若い夫婦のYoutubeを見て
登山道がとても整備されていた事を思い出した
だたし、自分が登った時は途中から雨が降って
種池山荘まで行って濡れたものを乾かしただけの記憶しかない
今となっては腰が痛いので登山はできないのが残念だ
彼らも言っていたが、山から降りる一歩がなかなか踏み出せないのは
経験者ならきっと分かると思う
まさに後ろ髪を引かれるそのものだ
今は夏の旅行の広告が目に入る
その中にスイスアルプスを巡るものがある
アイガー北壁がどーんと見えて、ユングフラウの頂上付近まで登山電車が
走っているグリンデルワルドの写真は、昔の記憶を呼び起こす
いつものことながら覚えている変なことは
あの登山列車は日本語の放送があったことで
なんでも安曇野市と姉妹提携をしていたかららしい
それからクライネシャイデックできれいな風景を写真に撮ろうとしたが
帰りでいいや!と先延ばしにしたのが失敗で、帰りは曇り空で何も見えなかったこと
山は撮れるときに写真に撮っておかないとアカンな、、とその時、実感した
実は旅行ガイド等にはあまり紹介されていないようだが
自分が一番いい思い出として残っているのが、有名な登山列車に絡むものではなく
アイガーとかヴェッターホルンを対面にどーんと見られるフィルストでのこと
フィルストはリフトで登ることができて帰りは遊歩道みたいな道を降りることができる
それは日本では槍ヶ岳、穂高連峰を目前にドカンと見える蝶ヶ岳からの展望に似ている
蝶ヶ岳からの風景はそれをぼーっと見ていても時を忘れる
フィルストからの光景もそんな感じで、でかい山をハイキングコースで歩いて降りるのは
とてもいい経験になった
登る方ではなく見る方を堪能するなら、グリンデルワルドではフィルストからの
展望をおすすめする
放牧された牛のカラカラとなるベルも記憶に残っている
このグリンデルワルトのことでいつも不思議に思うのは
軽井沢で浅間山を思い浮かべて詩を書いた立原道造のソネットが
思い浮かぶ風景が日本のそれでなく
このグリンデルワルトの風景がしっくりくるということだ
尤も、これは個人的な幻想に過ぎないが
記憶に残る風景があるとか、もう一度行ってみたい場所があるとか、
読み返したい本があるとかいうことは、きっと良いことなんだろう
くそっ、やられた!
腕にかゆみを覚えて、少しかいてみる
短パンの脚もどこかかゆいところがある
気持ちが良いのは朝だけなので、近所のお墓参りもラジオ体操前に済ませている
(今日も3日続けてそうした)
草の多いお墓だがそこでは蚊に食われた記憶がない
家でやられたのか、、と思っていると
眼の前に小さな蚊が飛んでいるのが見えた
本当に小さい
こんなのにやられたのか!と少し頭にくる
手元には殺虫剤がないので、やつを見てるだけになった
クソ暑かった去年の夏は、結局蚊取り線香(電気式)は使わなかった
あまり暑い時は蚊も活動が鈍くなるそうだ
確かにそれは実感できて、今年もそんな感じで終わりそう!と予想していた
以前は「日本の夏」の仕掛け花火で、金鳥蚊取りのCMが流れた
しかし、今はなんかリアリティがない
蚊で困るのは車に乗る時に、隙を見つけて乗り込んで来るやつだ
ドアを閉める時に入ったのを確認するが、その後は対応しようがない
眼の前に飛んでるのが見えると余計に気になる
ドアを開けて追い出そうとしても、なかなか思い通りにはならない
とうとう蚊のシーズンだ
でも、寝るところはこの分では蚊の心配はいらない感じ
(暑すぎるので)
エアコンのない2階の部屋は、もう少しで30度超えになる
だからこの作業(ブログアップ)もできる時間は限られる
おまけに暑くなると、頭の方も(得意の?)面倒くさいことは考えられなくなる
それは毎年のことで、比較すると秋が思索的な季節というのはなんとなくわかる
ということで、生き物も頭の活動も苦手な季節になりつつあるということ
しかし、ホントかなわんなあ、、夏はもういい、、(始まったばかりだが)
朝の情報番組で「鱧と鰻の食べ放題」の店の紹介があった
鱧は愛知県の東三河では一般的な食べ物ではない
時々スーパーで見かけても、しばらくすると陳列されなくなっている
だが京都では祇園祭の頃は鱧のシーズンで、祇園祭は別名「鱧祭」ともいわれる
確か龍安寺の近くの和食の店で鱧づくしの昼ご飯を食べたぞ!
と不意に思い出した
写真を撮ったはずと過去の写真を(アップルの)写真の地図から探してみた
まずは京都で撮った写真、龍安寺を探す、その日の写真に鱧料理が写っているはず
それは分かれば料理の値段もわかる
これな難なく探すことができた
この日は2015年7月11日だった
久しぶりの龍安寺は、昔見たときよりもスッキリと美しいと感じたことを覚えている
いつもは食事にお金を使わないでいるが、たまには!と少し贅沢をしたのが
鱧づくしのこの料理
この頃は既に家計簿をつけていたので、料理の金額も残していて
記録には「鱧ご飯とビール」3,150円とあった
大して贅沢でもなかったな!と節約志向のお金の使い方の実感する
この日は、虎屋茶寮で和菓子と抹茶のセットもいただいていて、その金額は1,198円
虎屋はボリュームからすると結構な金額だ
でも「なにか違うな」と思わせるようなところが毎回感じられて
こんなものかな!と満足感のほうが勝っている
最近行けていない京都
でもこの時期(夏)は暑くてとてもしんどい
一番のしんどい記憶は、五山の送り火を見に行った翌日
金閣寺に行ったのだが、その時のバスを待つ間の時間の暑かったこと
まさにサウナにいる感じで、金閣寺ではアイスを頭を痛くして食べたし
その後行った錦小路でもかき氷をあっという間に食した
夏の京都はアカンな!とその時に実感した
冬の京都は、見物するお寺さんの床がとても冷たくても
靴下は二枚重ねが良いと情報が出回っているので対応できるが
夏の京都は、、勘弁してくれという感じ
ということで、なにか記録に残しておくと
いろいろ思い出すことができるということ
尤も、自分だけしか意味はないかもしれないが
江戸時代の識字率が、思いのほか高かったことが先日の本「江戸の教育力」でわかったが
昨年の大河ドラマ「光る君へ」の時代でも、宮中の女性は文字を読んだり書いたりすることができていた
一体、どのくらいの割合の人びとが文字を理解できていたのか?と疑問に思えたので
真偽は問わずに便利な道具のチャットGPTに聞いてみた
問 奈良時代、平安時代の識字率はどのくらいでしたか
答 チャットGPT
奈良時代(710〜794年)および平安時代(794〜1185年)の識字率については、
正確な統計は存在しませんが、歴史学者たちの研究に基づく推定があります。
◆ 奈良時代の識字率(710~794年)
-
ごく一部の上層階級(貴族・僧侶・官人)のみが読み書きを習得
-
識字率は1%未満と考えられています
-
仏教の経典を扱う僧侶、律令制度の文書を扱う官僚が主に文字を使用
-
農民や庶民には基本的に文字の知識は不要だった
-
◆ 平安時代の識字率(794~1185年)
-
識字層がやや拡大するが、依然として極めて限定的
-
識字率の推定は1〜5%程度
-
貴族階級(貴族女性を含む)は和歌や漢詩を書く文化があった
-
貴族の女性も仮名文字で日記文学などを記す例が増加(『紫式部日記』『枕草子』など)
-
一部の武士や地方豪族も文書作成を始めるが、庶民の識字率は依然としてほぼゼロ
-
◆ 要点まとめ
時代 | 識字率の推定範囲 | 主な識字層 |
---|---|---|
奈良時代 | 1%未満 | 僧侶、貴族、官僚 |
平安時代 | 1〜5%程度 | 貴族、僧侶、一部の武士や女流文学者 |
◆ 補足
-
文字の種類:主に漢字(公式文書)と仮名(和文、文学作品)
-
教育機関:国学(地方の官吏養成機関)や大学寮(中央)などで官人教育が行われていた
識字率はそんなに高くない
でもそこで新たな疑問が浮かんだ
万葉集には識字率が低いとされている庶民の歌も入っている
それは何故なんだろうか?
ということで再度聞いてみると、答は
庶民の歌はどうやって『万葉集』に記録されたのか?
庶民の歌が万葉集に収録された仕組みはこうです:
-
庶民が口頭で歌を詠む(話す)
例:防人が別れの際に詠む歌、または妻が家で詠む歌。 -
それを役人や書記が聞き取って、漢字で記録する
例:防人の徴発の場にいた地方官(国司や郡司)が「防人歌」として筆録。 -
その記録が都に送られ、最終的に『万葉集』の編集者が選び、収録した
つまり、庶民自身が文字を書くのではなく、代筆・聞き取りによって記録されたのです。
◆ 例:巻20「防人歌」
この巻の序文にも、当時の東国から徴発された防人の歌が「書記が記録したもの」である旨が記されています:
「天平勝宝三年に...諸国の防人を...書記して上進せしむ」
◆ まとめ
-
奈良時代の庶民の大半は文字の読み書きができませんでした。
-
彼らの歌は、口述されたものを役人が記録し、それが『万葉集』に収められたのです。
-
これは、文字を持たない人々の声が記録されて残ったという意味で、極めて貴重な文化遺産です。
なるほど、そうなのか、、と少しスッキリした
でもこの時代、口述したものを役人に聞き取らせ、それを文字として記録したというのは
その手間とか、実行力とかを思うと、すごいことだな!と思えてならない
為政者の意欲というか信念みたいなものは、今の時代よりもずっと上だったのかもしれない
ファション売り場は居心地が悪い(自分は)
本屋とオーディオ関係の店ならワクワクして滞在していられるが
ファション関係の売り場からは逃げたくなってしまう
特にブランド品の店はそうだ
ブランドの良さとか流行り具合を全く知らないので
それぞれのブランドの格付けも知らない
店員さんと話すのもビビってしまいそうだ
だが、ある機会があって、百貨店でそれなりの価格の商品を購入した
暦の良い日を選んで着るようになったが
その第一印象は、「良いものは良いな!」「値段だけのことはある」
「この満足感と価格と比べると、価格だけで選ぶのはよくない」
と感じたのだった
満足感を覚えるとそのブランドを覚えておこうという気になって
頭に刻まれたのは無骨なドイツのブランドだった
人がブランド品を身につけるのは何故なんだろう?と考えてみると
持ち物でその人物の品格を判断できる、、ということはあるかもしれない
だからこそ、多くの人がブランド信仰をするわけだ
(もちろん品質の高さが保証されている面もあると思うが)
自分がブランド信仰しているのは「アップル」がそうかもしれない
PCのマック、スマホのiPhoneはその品格、美しさ、使いやすさで満足している
流石に最近のアップル製品は値段が高くなりすぎと思うが
この世界から離れることは多分無いと思う
ということで、久しぶりに購入したブランド品の満足感は
自分の消費スタイルを変えるかもしれないと思ったりした
でも、値段は大事だしなあ、、、と囁く内の声もある
「職業、長嶋茂雄」と自ら答え、ミスターと呼ばれた人が亡くなった
どこもかしこも彼の話題に溢れているのは少し違和感があるが
彼の功績を思えば少し仕方ないのかもしれない
自分には長嶋さんの記憶は2つある
その一つは、高校時代の話で、同級生に野球部のキャプテンがいた
彼は根っからの長嶋ファンだった
彼は興奮気味にあるエピソードを語った
「王がデッドボールを食らって、両チームが入り乱れて乱闘騒ぎに
なりそうになったことがあった
その時、長嶋は一人その中に入らずに何かに集中していた
そして、その直後の打席でうっぷんを晴らすかのように彼はホームランを打った
格好良いだろう、、本当に」
今でもあの時の熱っぽく語る彼の姿を思い出すことができる
もう一つは、どういうわけか野球の開幕戦を後楽園で見たことが2回あったのだが
(そんなに野球ファンではなかったのに)
その2回とも長嶋さんはホームランを打った
いつかホームランは出るものだが、2回とも開幕戦に打つなんて
なんか特別な人なのだ と感じたことを覚えている
試合前のバッティング練習でも長嶋さんと王さんはポンポンとホームランを打っていた
他の人はそういうわけにはいかなかったので、二人は別格だなと実感したが
本番でもそれを実現してしまうとは、、、
話したことも会ったこともない人だが、明るくどこかひょうきんなところのある人で
みんなから好かれたのはなんとなくわかる
未来は今よりもきっと良くなる
そんなことが当たり前のように信じられた時代が生んだヒーロー長嶋茂雄
彼は役目は終えた!と思っているだろうか?と少し気になる
昔、納豆といえば甘納豆しかイメージできなかった頃
朝ご飯に納豆を食べる(地域がある)と聞いて
あんなに甘いものとご飯を一緒に食べるなんて
変な食習慣だなと思ったことがあった
今では発酵食品としての納豆は毎朝食卓に並ぶが
先日NHKの番組で納豆を特集していて
そこで良い情報を聞いた!として実践しているのが
かき混ぜる前に少し水を垂らすことだ
これをすると納豆がよく混ざって、糸が繊細に引くようになる
食してみると、ふわふわでご飯の味が今までと違った感じになる
それはよく泡立てた卵をかけたような感じだ
それがお気に入りとなっているので、先日、埼玉に嫁いだ妹に
メールで情報提供をしてみた
彼女はやってみると返事が来たが、どんな印象を持つだろう
ところで、納豆について変なことを思い出した
確か永六輔のラジオ番組「誰かと何処かで?」の中で
納豆が中国から日本に伝わる時に、納豆と豆腐が間違って伝えられたというのだ
豆腐は豆が腐る、納豆は豆を収めるだから意味としては
豆腐の字のほうが納豆を表していると思えるし
納豆の字は今の豆腐の意味に近いというのだ
なるほど、言われ見ると確かにそんな感じだ
このように間違って伝えられたものは
これ以外にもきっと多くあるんだろうなとフト思う
漢字で書かれたもののみならず、英語でもドイツ語でも
また言葉だけでなく概念も正確な意味で伝わっていないものは
たくさんありそうな気がする
「近代の超克」では日本は西欧の文化を根本から理解できていない人が多い
と口にした人がいたが、確かにそうだろうな、とも思う
食リポはどんなに上手な人のを聞いてもその味を感じることはできない
イメージはわかるが、いまひとつリアリティを持てない分どこか不満が残る
結局は自ら口にしないとわからないということだ
エチオピア
自分の好みのコーヒーはこれだと思うようになった
ちょっとした酸味があって、それをベリー風味というらしいが
それをいつも購入する店ではない専門店で飲んでも
ああエチオピアだ!とわかる
(適切な温度でないとその感じは薄れるが)
同じような酸味がありそうなはケニアとかコロンビアがあるが
時々、比較のために購入してみる
すると、どこか少し違う
その違いを言葉で説明するのは難しい(でも違いはわかる)
なんでもそうだが、慣れるとそれに対する感覚は繊細になってくる
今は毎朝ミルで豆をひいてストレートで飲んでいて
コーヒーは苦いと思っていた昔よりはそれぞれの豆を楽しむことができる
(明らかに昔よりはコーヒの区別ができるようになっている)
同じようなことはワインでもある
素人でも美味しいと思うのはドイツの白ワインのリースリング(甘めのやつ)
だが赤ワインとなると、よくわからない状態が続いていた
でも飲み続けると、カベルネ・ソーヴィニヨンの味はこんな感じだな
とわかるようになってきた
メルローの硬質的なものとはちょいと違う
と言っても、やはり自分の脳の記憶に刻まれたもでしかないが
その道に詳しくなると、以前よりは些細なことに気がつくことが多い
それはこうした食に関することだけでなくて、情報についても同じだ
情報の良し悪し、信じられるものか否かとか、その背景は何か?と
基本的な蓄積が多いと、眼の前にあるものだけで判断することは
少なくなっていく
それは個性の違いと言うよりは、背景知識の差のような気がする
人と面倒な話をしている時少し困るのは、背景知識の差が
どうしても意見の相違として現れて来ることだ
同じ経験をすれば同じ考えにいたるとは限らないが
それでも時々、彼があのことを知っていたらそういう考えにはならないだろうな
と思うことは度々ある
人同士が理解し合うのは思いのほか難しいのかもしれない
と思うこの頃
農家にとって、あるいは消費者にとってお米の適正価格はいくらなのだろう?
と言った本質的な問は一旦横において、生活者として実感すること
買い物は面倒くさい作業だが、自分は食品のそれは大して苦にならない
男に任せると変なものまで買ってくると評判の悪いこともあるが
あまり価格を気にしないで買ってくるから時にはヒット作もある
(最近は新城の特産らしい苺は同行者は購入しないが自分は見た目に負けて
購入してしまうが、それが案外満足感を覚えるものだった)
でも一緒に買い物をするようになると、自ずと商品の価格を覚える
そして価格がいつもより高かったり他店より高いと購入を控えるということはある
価格は頭に入っているから、購入するときはその価格が判断の元になる
お米は以前はセールの時は5キロで2000円以下のものもあった
高くても2500円位で買えた
それがいつの間にか高くなって平気で3000円オーバーとなった
それが今はどうだ
そろそろお米が終わりそうということで、3倍のポイントの付く昨日
水曜日に購入しようとすると、棚にはわずかしかない
しかもその価格は5000円台
いくらこれしか無いと言っても5000円では、、と購入の気持ちが萎える
だがそのお米はその店ではめったに見ることのない魚沼産の米だった
ブランド米だから仕方ない、、と思いつつも
こういうときだけ妙にブランド米の存在感が大きいような気がしてしまった
結局、昨日は地元スーパー、チェーン店、ドラッグストアを回って
気持ちよく変える米を探すことになった
ところが、行動は全く効果がなかった
つまりどこへ言っても価格は5000円台だった
こうなると思い出したのは、お米とうどんとパンのコストパフォーマンスのこと
一食のエネルギー換算をしたときのコストを比べると圧倒的にパンが安いらしい
これじゃ、少なくとも朝はパンにする人は多くなるだろうな
味噌汁を作る手間も省けるし、、
つまりはこうした環境変化でお米の消費量は縮小していきそうな気がしてしまった
お米の価格は複合的な理由から高止まりしているようだ
でも端的には政府はこの状態は結果責任があると思える
いろんな試みをしているが、それらは消費者とか生活者の感覚を考慮しない
あるいは現場の状況を把握できていないからと思えてならない
なんだかな、、こうしたところにも現代のこの国の劣化が見える気がする
それを容認してきたのは確かに我々庶民だが、、
それにしてももう少しまともな人たちはいないのだろうか、、と思う毎日
本当か怪しいかは、じっくり検討しなければならないとしても
生成AIの実力は大したものだ
時々よくわからない言葉や概念について参考のために聞いてみる
少し前まではChatGPTに聞いていたが、今では生成AIも
グーグルのGeminiがあるし、X(旧ツイッター)にもGrokがあるので
お試しに同じような問をこの3つで聞いてみた
大枠は同じような答えが返ってくるが、少しばかり違いがある
個人的な印象ではChatterGPTが一番安定した答えで
上手いことまとめるめるなあ!といつも思う
Grokはまだ情報の収集先が多くないのか、それともX上の
ネタが多いのかわからないが、ちょっと偏った感じがしないでもない
でもその情報源は何々と出てくるのは良い(いつもそうではないが)
GeminiはほぼChatGPTと同じような答えのような印象
文章はこんな感じだが少し前、上高地の河童橋のような絵を描いてくれ
と依頼したことがあった
数秒後、出来上がったものは、とてもヘンテコな絵だった
橋はあるが、それ以外の背景が全く日本的ではなかった
やたらと賑やかくて日本人としてはなんか落ち着かない気分になる
少し変更を依頼してもそのトーンはあまり変わらなかった
情報収集したものを反映するので、いわゆる日本的な光景のデータは
少なかったのかもしれない
今の学生はこうした現実を踏まえて、提出書類は上手くこれらを
利用しているそうだ(今年卒業した甥の話では)
ほんと、すごい時代になっているものだと実感すると同時に
自分の考えはこうと言い切れる何かが必要と思えてならない