パレスチナに住むユダヤ人と
ローマ帝国の領地に散在して住んだディアスポラのユダヤ人は
区別しがたいのですが、しかし、共通点は
聖都エルサレムが一番重要な地でした。
しかし、パレスチナの中でもサマリヤ(注・01)は
ユダヤ人にとっては異邦の地でした。
つまり礼拝の形式も異なり、感情的に
許せないことが重なっていた辺境の地でした。
またヨルダン川の東側はローマ人の新開地であり、異邦社会でした。
しかし、ローマ帝国は治安を脅かさない範囲においては、
信仰に寛大で、ユダヤ教も官許宗教で、高度の自由を認められていたのです。
たとえばローマ皇帝礼拝も一神教のユダヤ教の人々への強制はなく、
安息日のために兵役や裁判にも便宜があたえられていたのです。
いずれにせよパレスチナに住むユダヤ人と
ディアスポラのユダヤ人が様々な住む環境の相違を越えて、
ユダヤ教の信仰共同体を形成していたのです。
それは2000年後の今日まで至っているのです。
ではイエスの時代以降、つまり新約時代のユダヤ教は
どうだったのでしょうか。
そして初代キリスト教は、このユダヤ教から
分離して誕生したわけですから、まずそこから見ていきましょう。
まずイエスはガリラヤのナザレという村で育ち、
キリスト教の基盤を築いた使徒パウロは
小アジアのディアスポラのユダヤ人が住むタルソ(注・02)でした。
サマリヤ(注・01)
『旧約聖書』の中の地名。イスラエルの北王国の首都(列上16:23-24)。丘の上に位置するという軍事上の利点から,アッシリア人(アッスリヤ人)も3年にわたる包囲の末にようやく占領できたほどである(列下17:5-6)。ヘロデがこれを再建し,セバステと呼んだ。新約の時代には,サマリア(サマリヤ)はヨルダン川西域のパレスチナ中央部全体を指す地名として用いられていた
タルソ(注・02)
パウロはキリキア(毛の国)州のタルソにディアスポラのユダヤ人として生まれ、育ちました。そのようなことから、パウロは小さいときからファリサイ派としてのユダヤ教を熱心に学びました。彼の祖先が、いつ頃からタルソの住んでいたかは分かりません。彼の職業が天幕造りだったことなどを見ますと、父親も天幕を作っていたと考えられ、それなりの生活をしていたと思われます。タルソを含むキリキア州は肥沃で綿花が栽培され、羊毛、山羊の毛の産地と言われています。天幕が作られたのは、このような理由によるものと思われます。パウロはユダヤ教の律法を、どこで学んだのかですが、タルソにユダヤ教のシナゴグ(会堂)があったのかどうか分かりません。パウロの律法に関する知識は、相当なものですが、イエスの時代を含めてシナゴグには併設されていたと言われている「ベ-トはセフェル(律法の初級学校)」、「ベ-ルはミトラッシュ(律法の中級学校)」という学校のようなものがあって、そこで子供たちは律法を学んだと言われています。パウロも、そうだったのかもしれません。その上の学びはラビについて勉強すると言われていますが、もしかしたらパウロも、そうしたかもしれません。また、哲学者キケロは紀元前50年頃にタルソの総督(市長)の任についていますし、アウグストウス帝の先生である哲学者アテノド-ルはタルソ出身と言われています。知識的にも豊かな町であったようです。パウロは、当然その恩恵を受けていました。そのような学びを経てエルサレムに行きガマリエルの門下生になったのでしょう。タルソの町ですが、ペルシャ時代とロ-マの初代皇帝アウグストウスはタルソをキリキア州の首都としました。この町は商業として栄えました。特に、紀元前400年にタウロス山脈の通路「キリキアの峡門」が開かれてからはタルソからアナトリア高原を通って行き来することが出来るようになったこと、さらにキュドヌス川を行き来して地中海に出ることが出来ました。その交易は栄え、人口50万人もあったとのことです。町の人にはアナトリア人、ギリシャ人、ロ-マ人、ユダヤ人がいたと言われています。(日キ新松戸幸谷教会のサイトから)