バイブルランドin高島

ようこそ高島へ。ここは日本のガリラヤです。安田藤嗣がみなさまをバイブルの世界に案内します。

現代の日本教徒の創始者、内村鑑三と無教会 01 

2022-08-12 04:00:00 | あなたは日本教徒から脱出できますか
私は無教会に23年間もいて、その後、無教会の総本山、東京・今井館の維持会員は

50年間に渡り、支援していますが、7/3と7/23に書きましたようにようやくハビヤンを通して、

無教会こそ日本教の総本山であり、その創始者である内村鑑三が近代日本教の創始者であることが

分かって私なりに把握できるようになりました。

まだその思索は途上の段階ですが、

「元祖・日本教徒、ハビヤンの思想」の中で明らかになっていくと思います。

私が無教会にまだ所属していたら、日本教の総本山が足元の無教会だったと

いうことをおそらく気が付かなかったことでしょう。

そこで私自身が気が付いた点を列挙してみます。


A・日本教の総本山、無教会の創始者、内村鑑三

1・キリスト教の根幹である三位一体の聖霊を軽んじ

2・聖霊の内住(神を体験する)を軽んじた

3・そのため聖霊を求める霊的復興(リバイバル)を蔑(さげ)すむことになった

4・当然、聖霊による癒しを蔑んだばかりか、断食祈祷を軽んじた

5・主日礼拝を聖書研究会にしてしまったため礼拝の奥義を無視した

6・聖書を研究するために集まるために教会の秩序、共同体形成を蔑んだ

7・自分が死んだら聖書研究会を解散させるルールを敷いてしまい、まさに無教会になった

8・当然、信仰の継承も継続もなく、人間的な繋がりで形成された人間教に陥った

9・天皇制を容認し、偶像崇拝との峻別ができなかった

10・個人雑誌を中心に共同体形成をしたため、

個人の死によって長年の共同体は解散するために後継者もなく、

長老的な指導者もなく、路頭に迷う信奉者を生み出した



B・二代目以降の指導者の共通

1・内村鑑三を祭り上げ(神棚)、内村鑑三記念講演会が祭りになった

2・この記念講演会講師がスタートから東京帝国大学卒業生で占められた

3・2代目以降、東京帝国大学を卒業した者が指導者になった

4・2代目以降、無教会を教会と明確に区別し、教会攻撃が激化した

5・内村に倣って、個人責任の聖書研究会は解散することを定着化させた



C・三代名以降
1・指導者の大半が聖書学者および大学教授となり、無教会神学を唱えた

2・内村鑑三記念講演会講師なることがサクラメントのようになり、

講師に選ばれた者が無教会指導者して認められた


3・無教会神学校(あるいは無教会大学)を形成できず、

3つの高校(独立学園、愛真高校、愛農高校)が非公認ながら無教会の学校として認められている


4・したがってこの高校の卒業生が共同体形成をしているが、

無教会指導者ではない(上記の2に該当しないから)



四代目以降
1・三代目の子息を除き、無教会指導者養成がなされていないので集会のメンバーが高齢化している

2・無教会全国集会が崩壊の歯止めになっているが、無教会人の減少を止められない

3・若者が育っていない

4・教会との掛け持ちが増加している

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教会を欺く罪

2022-08-11 04:00:00 | ほんとうのペンテコステ・正しい霊の働き
使徒言行録
◆アナニアとサフィラ
5:1 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、

5:2 妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

5:3 すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、

聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。

5:4 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、

その代金は自分の思いどおりになったのではないか。

どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

5:5 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。

5:6 若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。

5:7 それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。

5:8 ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。

言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。

5:9 ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。

見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」

5:10 すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。

青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。

5:11 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。


アナニアという男は、妻のサフィラの罪は、信仰共同体である教会を欺く罪だったのです。

この箇所をみると、4章32~37節までのところと見事に対照になっているのがわかります。

4章のところには、初代教会が心と思いを一つにして、

だれひとり自分の持ち物を自分のものと言わないで、すべてのものを共有にしていました。

せめて貧しい人がいないようにと、それぞれが心を砕いてささげている中で、

バルナバまでもが自分の畑を売って献金し、教会を支えていきました。

しかし、アナニアと妻のサフィラは、そうではありませんでした。

彼らは教会の人たちと心と思いを一つにしていたのではなく、

夫婦で心を合わせて嘘をついたのです。

2節には「妻も承知のうえで」とありますが、これは「共謀して」という意味なのです。

また、9節には「二人で示し合わせて」とあります。

彼らは神の交わりである教会という枠組みの中で過ごしていたのではなく、

自分たちの勝手な思いの中で動いていたのです。

いわば彼らの罪は、心と思いを一つにしていなかったのです。

教会の中に生活に困っている人がいてもそうしたことに心を閉ざし、心と思いを一つにしないで、

そのような思いとは全く別の方向を向いていたこと、

つまり、クリスチャンの新しいいのちに生きていなかったことが問題だったのです。

ほとんど完璧に見えた教会の交わりにおいて、彼らの私利私欲、ごまかし、偽善といったものは、

そうした教会の交わりを破壊するものであり、神を欺く行為であったのです。
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割礼問題 07 真のバプテスマとは

2022-08-10 04:00:00 | ローマ帝国滅亡の先を見たパウロの生き方
ローマ人への手紙
2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。

2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても

受けた者と見なされるのではないですか。

2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。

あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。

2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。

2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。

その誉れは人からではなく、神から来るのです。



無教会を離れて30年になりますが、そこを離れた最大の理由は、

神を体験する断食祈祷と聖霊のバプテスマを受けることが全く欠如していたからです。

それゆえに聖霊の力で悪霊の働きを阻止するという聖書に何度も出て来るようなことには

全く無関心であり、その霊的な対処はゼロだったからです。

29節にある「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼」が無教会になかったのです。

つまり自分の中に聖霊なるイエス・キリストを迎えていないからなのです。

ですから聖霊に満たされることがクリスチャン生活の要であることを分かっている人は皆無でした。

さて、洗礼は肉なるものを葬り去り、

次に聖霊のバプテスマを受けるために断食祈祷は必然となります。

そして内住してくださるイエス(=生きて働く聖霊様)を日々に賛美し、

そのクリスチャンが集まる教会で礼拝を捧げ、そこに集う人たちと交わり、

恵みを共有することは、当然のことなのです。

イエス・キリストの霊(聖霊)が心に焼き付けられる(割礼)ことこそ

クリスチャンたるゆえんなのです。

また、洗礼を受けることと割礼問題を混同してしまったのも無教会の悲劇です。

25節にある「受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、

律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。」

のこの割礼を洗礼に置き換えて、洗礼を受けても

キリストの教えを守らなければ受けないのと同じというのは、根本的に間違っています。

洗礼をサクラメントとして救う力が洗礼の中にあると考えるべきでしょうか。

サクラメントはラテン語では、「エクス・オペレ・オペラート」といい、

「働かれる働きによって」と訳されますが、

洗礼を授ける資格あるものが授けたら、それ自身が効力があるという意味です。

つまり受ける者はその信仰がなくても効果があるという意味ですが、

キリスト教会では洗礼はそのような軽々しいものではないのはないのです。

無教会三代目の指導者に一人だった、高橋三郎氏にある方が、

洗礼を受けるかどうか迷っていると相談したら、即座に

「洗礼を受けたつもりで風呂場で湯か水をかぶっておけばそれでいいのだ」と言われたとのこと。

これこそ洗礼を軽んじた無教会の指導者の本音なのです。

それはほぼ異端に近いアドバイスであり、あまりにも主を畏れない言葉です。
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山上説教  44 ほんとうの施しとは何か 03 偽善者とは何か

2022-08-09 04:00:00 | マタイが伝えるイエス・キリストの生涯
◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。

さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

6:2 だから、あなたは施しをするときには、

偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、

自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。

はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。

6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。

6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。

そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」


先回、書きましたように今井館の維持献金にも名簿が記載されていますし、

先般、送られてきた愛農高校女子寮の建設に関しても名簿が記載されていましたが、

いずれもイエスの言われた山上の戒めを日常性の中に生かせず、

これは主イエスの新しい戒めへの違反行為なのです。

その原因は、日本教だからです。

日本の神社に行くと寄進された方が板に書かれて掲げられています。

これも日本教なのですが、それと同類なのです。

ではイエスのいわれる「偽善者」とは何か、

それは自分では良いことだと思ってやっていることが自己主張している

(名簿を記載している)ことなのです。

これは自己主張というクリスチャンがやってはならないことなのです。

それは神を侮辱することなのです。

神だけに向けられる事柄(神への献げもの)が、人に向けられてしまうからです。

そして神を利用していることにほかならいからなのです。

私は今井館も愛農高校も名前を記載してほしくなかったし、

絶対にしてはならないと思っていましたが、

今時、郵便料金も印刷費も高額なのに、

最も高いカラー印刷で送られてきたこと自体がナンセンスで、すごく残念に思いましたので、

これから献金リスト記載を止めるように両方に申し入れをしたいと考えています。

そして3節の意味するところは、信仰は自分で自分を知らない、

クリスチャン同士が互いに確信したり、顧みることは全く必要ないということです。

自分が献金したのにリストに記載していないと事務局にクレームをつけてはならないということです。

クリスチャンの献金はお互いを見る必要も確認する全く必要がありません。

ただひたすらイエスだけを仰ぎみることであり、

他人を意識して献金リストを目を皿のようにしてみていること自体が罪なのです。

山上の説教は、ただひたすらイエス・キリストだけを仰ぎ見ることなので、

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」のです。

そうすれば神はあなたを顧みるのだと約束しておられるのです。


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イスラエルは神の民

2022-08-08 04:00:00 | さらなる先を見た預言者たちの言葉を読み解く
イザヤ書
◆ダマスコとエフライムの運命
17:1 ダマスコについての託宣。「見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫の山となる。

17:2 アロエルの町々は見捨てられ/家畜の群れが伏し、脅かすものもない。

17:3 エフライムからは砦が/ダマスコからは王権が絶える。

アラムに残るものは/イスラエルの人々の栄光のようになる」と/万軍の主は言われる。

17:4 「その日が来れば、ヤコブの力は弱まり/その肥えた肉はやせ衰える。

17:5 刈り入れる者の集めた立ち枯れの穂/その腕に集めた落ち穂/レファイムの谷で拾った落ち穂のようになる。

17:6 摘み残りしかないのに/オリーブの木を打つようなものだ。

梢の方に二つ三つの実/豊かに実っている枝でも、四つ五つ」と/イスラエルの神、主は言われる。

17:7 その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。

17:8 もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。

17:9 その日には、彼らの砦の町々は、イスラエルの人々によって見捨てられた木の枝や梢のように、捨てられて廃虚となる。

17:10 お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。

それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。

17:11 ある日、園を造り、成長させ/ある朝、種を蒔き、芽生えさせてみても/

ある日、病といやし難い痛みが臨み/収穫は消えうせる。

◆諸国民のどよめき
17:12 災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。

国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。

17:13 国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。

だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。

17:14 夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。

これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。



7節と8節の最初に「その日」とあります。

アラムの人々は偶像を捨てイスラエルの偉大な主に立ち返るようになるといいます。

悔い改めがイスラエルだけでなく、異邦人であったアラムの人々にも起こるといいます。

これは、異邦人であっても主に信頼して救われ、

しかも残りの民が現れるという希望のメッセージなのです。

そして9節のことばはイスラエルに対して語られています。

「砦の町々」とは、イスラエルが占領したカナンの町々のことです。

エリコの町は、城門が堅く閉ざされた堅固な町で、だれひとり出入りするものがありませんでした。

しかし、たとえそのような堅固な町であっても偶像崇拝を行っていたので、

イスラエルによって滅ぼされています。

そして、今度はそれと同じようなことがイスラエルの身に起こるといいます。

なぜならイスラエルは神の民であり、神との契約を結んでいます。

しかし、神の背き神から離れてしまったので、神の民としての特権を奪われ、

そこは荒れ果てた地になってしまうとイザヤはいいます。

そして10節と11節にその原因をイザヤは指摘します。

それは救いの神を忘れてしまったからです。力の岩を覚えていなかったからです。

非常に重要な警告です。決して犯してはならない過ちです。救いの神を忘れてはなりません。

私たちにとって一番大きな危機は何でしょうか。

この救いの神を忘れてしまうことです。

それによって、私たちの霊的な運命が決まってしまうからです。

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