バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

逃れの町の意味

2020-11-30 04:00:00 | 聖書の中なかの聖書 申命記
申命記

◆逃れの町
4:41 モーセはその後、ヨルダン川の東側に三つの町を定め、

4:42 意図してでなく、以前から憎しみを抱いていたのでもないのに、隣人を殺してしまった者をそこに逃れさせ、

その町の一つに逃れて生き延びることができるようにした。

4:43 それは、ルベン領の台地の荒れ野にある

ベツェル、ガド領ギレアドのラモト、マナセ領バシャンのゴランである。



逃れの町(のがれのまち)は、旧約聖書で、ユダヤ人の領土に設置するよう神から定められた、

過失で殺人を犯してしまった人が復讐から逃れて安全に住むことを保証された町のことです。

民数記35章には、エジプトから上ってきたユダヤ民族が得るはずの領土において

『ヨルダン川の東側に三つの町、カナン人の土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。

これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、

誤って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる』とあります。

逃れの町に滞在することが認められるのは、敵意や怨恨でなく、故意でもないことが条件であり、

後日改めてイスラエルの共同体による裁判を受け、過失であったことが認められねばならないのです。

逃れの町に避難した人は、その時の大祭司が死ぬまでの間、そこに留まらねばならず、

それまでは元の住所に帰ることはできないのです。

また、逃れの町以外の場所においては、被害者の遺族が直接加害者を殺す血の復讐の権利が認められています。

申命記19章、ヨシュア記20章にも同様の記述があり、

中でも19章では逃れの町に入って生き延びられる条件として、

たとえば隣人と柴刈りに行き、

木を切ろうとして振り上げた斧の頭が外れて死なせたような場合が示されています。

当時のオリエントでは、ハンムラビ法典の影響で「目には目を、歯には歯を」の同等の刑罰を科すのが一般的で、

旧約聖書も同等の報復の権利は認めていますが、

「逃れの町」の規定は過失で人を死に至らしめた人の生存権を

アジール権によって保護するよう明文化しています。

砂漠の生活では人のいのちがどれだけ厳しい危険を含んでいたか、

日本人のような四季豊かな風土では、想像できません。

砂漠は一人では生きていけません。

殺されたらその種族を全部殺すということになりますので、逃れの場所が用意されているのは、

その厳しさを和らげるためなのです。

むしろその厳しさを正しく受け取るためだとも言えます。
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サタンの実態 25 誘惑   17 人に自由を与えられる神 

2020-11-29 04:00:00 | 世界の初めを知ろう 創世記
創世記

3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。

お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」

3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。

お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。

お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」



人が自由を与えられるという、神との深い関係をここから読み取る必要があります。

これは人類史上、極めて重要なことです。

そして預言者たちはここに立脚しているのです。

この創世記の箇所では、正面から神と問答が開始されるのです。

そしていきなり罪の断罪ではなく、問答無用でもありません。

日本の場合の問答無用がまかり通り、自由という概念がまったくありません。

映画「鬼滅の刃」などにも一切ありません。

神の言葉はこのようなことを背景に語られるのです。

そしてここで男はあなたが与えたあの女がというように言います。

2章で男はこのように告白しているにもかかわらずです。

創世記
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。

これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」


つまるところ神との関係はここで完全に破綻しているわけです。

男と女の関係は根本的に大きな問題を含んでいます。

それは男女の関係は神をお互いに信じない関係ですと、

一時的にはうまくいくかもしれませんが、根本的には大きな問題を内包しているということになります。

聖書の男女問題はそこを正しくみているわけです。

これはペシミスティック
(「人生に悲観的なさま」を意味する言葉です。
人生に対して悲観的に捉え、ネガティブな思考に陥ってしまう様子や傾向、
またそういった思考タイプを表す時に使われます)

ではなく、リアリスティック
(対象をあるがままに写そうとするさま。
現実主義的、現実的という意味)


だということです。


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捕囚期以後のイスラエル・ユダヤ教の誕生  24 歴代誌の論文 

2020-11-28 04:00:00 | 聖書入門 新約聖書
「列王記と歴代誌における シリア・エフライム戦争とアハズ王」でこのように書いておられます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

列王記と歴代誌,両者の内容の相違が異なる史料の使用ということによるのでないとすれば、

そのような相違の原因は、主とし  それだけに、

申命記史書と歴代誌の記述内容がしばしば大幅に食い違っているという事実は、いっそう興味を引く。

その申命記史書とは別に、独立した資料を必ずしも豊富に持っていたわけではないということについても、

多く 前者をいわば底本として利用しているということである。

歴代誌とは、

いずれもイスラエル初期王国時代のダビデ王の治世からユダ王国滅亡とバビロン捕囚の始まりは、

周知のように、

細かくて歴代賎家の歴史的関心や神学的歴史観から説明されるべきもの、ということになろう。

これまで歴代誌の歴史記述で登場人物の弁論やその修辞といった要素が指摘されてきた。

歴代誌と申勲記史書の記述内容を比較すると、たしか エルサレム神殿とそこでの祭儀への注昌、

預言者的人物の活躍、王たちの祭儀改革や

建築活動ユダ王国1ーダビデ王朝の正統性の強調、サマリア教団
                             
の危機に遭遇する。歴代誌下一八章では、やはりほぼ底本に即してこの経過が再現された後に、

突然イエフなる人物 は北イスラエル王アハブの対アラム戦争に盟友として参戦するが、

この戦いでアハブは戦死し、ヨシャファトも生命  

これとよく似た例が、ユダ王ヨシャファトについての記事にも見られる。

列王今上二二章によれば、ヨシャファト 災いを予告させている(同719節)。

この政策を「ヤハウェを頼みとしない」不信仰の行為として批難させたうえで、その罰として

「戦争が続く扁という 代誌下一六章!i6節でこの経緯をほぼ底本に即して報告した後に、

独自に「先見者ハナ一こなる人物を登場させ、

王ベン・ハダドと同盟し、パシャの背後を襲わせることによって、

パシャに撤退を余儀なくさせた。

歴代誌家は、ユダ王アサは、北イスラエル王パシャとの国境争いに際して

ダマスコのアラム ている、ということを指摘してきた。

趣旨を理解していただくために、具体的な実例をいくつか挙げよう。
               
歴代誌独特の歴史記述を生む原因の一つになつ 王たちの対外政策、

特に(北王国を含む)外国との条約・同盟政策に対して強い関心と一貫した否定的評価を示して  

これらの諸点に加えて、著者はこれまでいくつかの研究を通じて、歴代誌の著者はその歴史記述において、

ユダの 二 が登場し、「ヤハウェを憎む者の友になるとは何事か」と

ヨシャファト に倣って「自分の子に火の中を通らせ」

(すなわち人身御供)、異教の礼拝をすすんで行ったことが記される(314 にあった」ことが報告され(2節a)、

次にアハズが、邪悪で不敬度な王であったこと(2節b)、

彼が異教徒の慣習  そこでは最初に、曲学記史書の通常の枠組みに従って、

アハズが「二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位  

まず、「底本」である列王記下一六章の記事を見てみよう。

述とは大幅に異なる、ほとんど正反対とでも言えるような歴史記述を展開しているからである。                                          
岡盟ということが二重の意味で重要な役割を演じているからであり、他方では、そこで歴代誌が、

底本の二王記の記 章、歴下二八章)は、二重の意味ではなはだ興味深い。

なぜなら、一つには、列王記下一六章によれば、そこで軍事  このような観点から見るとき、

ユダ王アハズの治世といわゆるシリア・エフライム戦争についての記事

(王下一六 三 アハズ王とシリア・エフライム戦争  

国とのあらゆる協定や同盟に一貫して批判的な評価を下していることは明らかであろう。  

以上の例だけから見ても、歴代誌家がユダの王たちによる外團との条約・演述政策に多大な関心を持ち、

しかも外 和的な交易事業に関連しても、外團との協定や協力関係に異を唱えていることである。

後者の箇所で興味深いのは、歴代誌の著者が、軍事的な同盟政策だけでなく、

平 だとし、またここでもエリエゼルという預言者的人物を登場させて、

まさにこの協定こそが船団の難破の原因だと説 たという。

ところが歴代誌の著者は、出来事の順序を入れ換えたうえで、

ヨシャファトはアハズヤと協定を結んだの 船団が難破して失敗する。

これに対し、北王国の王アハズヤが助力を申し出るが、

ヨシャファトはこの申し出を断っ を諌めるのである。

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アメリカ大統領選挙の背景にあるキリスト教会の存在

2020-11-27 04:00:00 | 聖書の断食
今回のアメリカ大統領選挙で日本人も日本のマスコミもトランプの勝利だと確信していたようです。

しかし、トランプはバイデンに負けました。

それを正しく判断できなかったのは、アメリカのキリスト教会を知らないからです。

また、昨年から韓国への日本の対応でも同様、韓国のキリスト教会を

全く理解していない日本の無様な失態が目に余ります。

トランプが4年前に勝利したのは、対戦相手のヒラリーが

アメリカ歴代で初めての女性大統領誕生を全国民が期待していながらも

今一つ、信頼度に欠けているその隙間を突かれてトランプというホワイトハウスの政治を全く知らない、

猪突猛進のとんでもない実業家が大統領になってしまいました。

安倍首相が世界の首脳のトップを切ってトランプに会いに行ったのは、実に滑稽な事態だったのです。

以後、トランプのハチャメチャな政策にEUなど早く辞めてほしいと決死に願っていたのです。

しかし、日本はそのトランプに拍手喝采していたのですから、

日本は全く世界の流れを知らないバカ丸出しだったのです。

アメリカの大統領選挙は、実に保守キリスト教会と

革新的ラジカル派といわれるキリスト教会の代理戦争のようなもので、

アメリカ建国以来、キリスト教の趨勢をまず正しく判断しないと世界の物笑いとなるのです。

今回も驚くべきことにバイデンと親密な日本の政治家は皆無だということです。

前大統領、オバマの副大統領を8年も務めたバイデンと交流がないとは信じられないことです。

これも日本にアメリカのキリスト教会の人脈が全く築かれていない証拠なのです。

日本にもアメリカのキリスト教神学校に学んだ方はいますが、

日本の政治経済に入り込んでいる方は皆無であり、アメリカのキリスト教会との人脈が全くないのです。

これは韓国との関係でも同じです。

このようなわけで現在、連載しています「アビーファスティング」が終了したら、

パトモス社で発行した「カミング・リバイバル」の電子出版縮刷版を出すための連載を開始する予定でした。

この本は、1994年に発行されたビル・ブライトの「カミング・リバイバル」を

安く日本に提供すべきだと著者であるビル・ブライト先生から

直接、依頼されてわざわざアメリカで発行されている縮刷版まで送っていただいたのを

これまで肌身離さず持っていたのですが、あれからちょうど20年になりますので、

その約束を果たすためにとこのような計画をしていました。

しかし、その前にアメリカのキリスト教会の実態をレポートしていきます。

その手掛かりとなるのは、敬愛する鈴木崇巨先生が

昨年の秋に書かれた「福音派とは何か・アメリカ・ファーストの真実」です。

そして8年前に発行された「韓国はなぜキリスト教国になったのか」も紹介しながら、

あまりにも同盟国アメリカそして日本の唯一の隣国、韓国のキリスト教会を知らなすぎる日本が

せめて聖書を読み始める国になってほしいと思い、連載を開始していきます。

私はこの国は聖書の国になってこそ、ようやく欧米に追いつく一歩を踏み出せると信じます。

しかし、そこに霊的な力が必要です。

それが断食祈祷なのです。
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アビーファスティング 64 断食は最大の富の発見だ 

2020-11-26 04:00:00 | 修道院の断食・医術・ハーブ
ミュラーさんの体験は私の30年前の体験に酷似しています.

それゆえにこうして「アビーファスティング」として題して、「修道院の断食」から学んだことを書いています。

これまで日本のキリスト教会では、「修道院の断食」は一度も取り上げられていません。

その理由は、カトリックだからです。

しかし、断食されたのミュラーさんというルター派のプロテスタントのクリスチャンです。

これまで私自身はカトリックは鬼のようで悪魔のように教えられてきました。

ですから「修道院の断食」は読むことができなかったのです。

しかし、こうして本をこうして紐解いていくと、

これまで読んだいかなる断食祈祷の書物の中で最高のものであることが分かってきました。

さて、ミュラーさんの体験記をさらに続けましょう。


・・・断食のおかげで私は、自分をとりまく財産に以前よりはっきりと気づくようになったのである。

私の人生の意味を新たに、また徹底して把握し始めた。

現代社会において、感覚はますます乏しくなり、聖なるもの、あのまったく異質なもの、

心を揺すぶる神秘的なものへの感性など、ほとんど失われつつある。

そして今、私たちが宗教的で神秘なものに出会うのは、

迷信に属するあやしげな信仰の場面に限られている。

だが断食は違う。

日常的なものを手放すことで、私たちは将来への希望をもつようになる。

私たちはよいことが起きるのを待ち受けるようになる。

だから楽観的になれるのだ。

だから新しい力が湧いてくる。

断食により、私たちは、新しい人生計画を立てられるように、

また自分自身の将来を夢見ることができるようになる。・・・


このミュラーさんの言葉は実に重要なことなのです。

私たちは無限の富を、断食を通して、得ることができからです。

日本は魂の奥深い霊的な聖なるものへの畏敬が全く欠落していますので、

それを回復するのは、断食しかありません。

その聖なる断食を日本ではヨガという悪霊が支配しているのです。

そのことを気づかせないために仕組んだ悪霊が先に手を打っていたのです。

ああ、何たることでしょうか。

最近、断食の普及に大きな役割を果たしている船瀬俊介さんは、

霊的にヨガに立脚し、キリスト教と思想とは真逆のことばかりを書いています。

これは船瀬さんだけではありません。

断食道場のすべてがそうです。

日本を覆っている悪霊の働きに利用されてからなのです。

日本に本物の断食を普及させる使命が私にあります。

ミュラーさんのいう「正しい断食哲学」が必要なのです。

そいてさらにミュラーさんは言います。


・・・現代社会は重大な病気にかかっていることはもはや明らかである。

その名の病気の名は、『希望の喪失』である。

すべての力のうちで最も強く、もしかすると唯一の真の生きる力である、希望が失われているのだ・・・。

修道士誓願の賛美

主よ、お言葉通り、私を受け入れてください。そうすれば私は生きるでしょう。

私の希望を打ち砕かないでください。
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