申命記
◆逃れの町
4:41 モーセはその後、ヨルダン川の東側に三つの町を定め、
4:42 意図してでなく、以前から憎しみを抱いていたのでもないのに、隣人を殺してしまった者をそこに逃れさせ、
その町の一つに逃れて生き延びることができるようにした。
4:43 それは、ルベン領の台地の荒れ野にある
ベツェル、ガド領ギレアドのラモト、マナセ領バシャンのゴランである。
逃れの町(のがれのまち)は、旧約聖書で、ユダヤ人の領土に設置するよう神から定められた、
過失で殺人を犯してしまった人が復讐から逃れて安全に住むことを保証された町のことです。
民数記35章には、エジプトから上ってきたユダヤ民族が得るはずの領土において
『ヨルダン川の東側に三つの町、カナン人の土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。
これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、
誤って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる』とあります。
逃れの町に滞在することが認められるのは、敵意や怨恨でなく、故意でもないことが条件であり、
後日改めてイスラエルの共同体による裁判を受け、過失であったことが認められねばならないのです。
逃れの町に避難した人は、その時の大祭司が死ぬまでの間、そこに留まらねばならず、
それまでは元の住所に帰ることはできないのです。
また、逃れの町以外の場所においては、被害者の遺族が直接加害者を殺す血の復讐の権利が認められています。
申命記19章、ヨシュア記20章にも同様の記述があり、
中でも19章では逃れの町に入って生き延びられる条件として、
たとえば隣人と柴刈りに行き、
木を切ろうとして振り上げた斧の頭が外れて死なせたような場合が示されています。
当時のオリエントでは、ハンムラビ法典の影響で「目には目を、歯には歯を」の同等の刑罰を科すのが一般的で、
旧約聖書も同等の報復の権利は認めていますが、
「逃れの町」の規定は過失で人を死に至らしめた人の生存権を
アジール権によって保護するよう明文化しています。
砂漠の生活では人のいのちがどれだけ厳しい危険を含んでいたか、
日本人のような四季豊かな風土では、想像できません。
砂漠は一人では生きていけません。
殺されたらその種族を全部殺すということになりますので、逃れの場所が用意されているのは、
その厳しさを和らげるためなのです。
むしろその厳しさを正しく受け取るためだとも言えます。
◆逃れの町
4:41 モーセはその後、ヨルダン川の東側に三つの町を定め、
4:42 意図してでなく、以前から憎しみを抱いていたのでもないのに、隣人を殺してしまった者をそこに逃れさせ、
その町の一つに逃れて生き延びることができるようにした。
4:43 それは、ルベン領の台地の荒れ野にある
ベツェル、ガド領ギレアドのラモト、マナセ領バシャンのゴランである。
逃れの町(のがれのまち)は、旧約聖書で、ユダヤ人の領土に設置するよう神から定められた、
過失で殺人を犯してしまった人が復讐から逃れて安全に住むことを保証された町のことです。
民数記35章には、エジプトから上ってきたユダヤ民族が得るはずの領土において
『ヨルダン川の東側に三つの町、カナン人の土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。
これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、
誤って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる』とあります。
逃れの町に滞在することが認められるのは、敵意や怨恨でなく、故意でもないことが条件であり、
後日改めてイスラエルの共同体による裁判を受け、過失であったことが認められねばならないのです。
逃れの町に避難した人は、その時の大祭司が死ぬまでの間、そこに留まらねばならず、
それまでは元の住所に帰ることはできないのです。
また、逃れの町以外の場所においては、被害者の遺族が直接加害者を殺す血の復讐の権利が認められています。
申命記19章、ヨシュア記20章にも同様の記述があり、
中でも19章では逃れの町に入って生き延びられる条件として、
たとえば隣人と柴刈りに行き、
木を切ろうとして振り上げた斧の頭が外れて死なせたような場合が示されています。
当時のオリエントでは、ハンムラビ法典の影響で「目には目を、歯には歯を」の同等の刑罰を科すのが一般的で、
旧約聖書も同等の報復の権利は認めていますが、
「逃れの町」の規定は過失で人を死に至らしめた人の生存権を
アジール権によって保護するよう明文化しています。
砂漠の生活では人のいのちがどれだけ厳しい危険を含んでいたか、
日本人のような四季豊かな風土では、想像できません。
砂漠は一人では生きていけません。
殺されたらその種族を全部殺すということになりますので、逃れの場所が用意されているのは、
その厳しさを和らげるためなのです。
むしろその厳しさを正しく受け取るためだとも言えます。