バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

山上説教 75 富をどう処理するか 13 いのちの大切さは断食でしか分からない

2024-04-30 04:00:00 | イエス・キリストの生涯  マタイによる福音書
マタイによる福音書
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、

また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。

命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。

だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、

寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、

注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、

この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、

神はこのように装ってくださる。

まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、

思い悩むな。

 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、

これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。

明日のことは明日自らが思い悩む。

その日の苦労は、その日だけで十分である。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

25節にあるように食べること、飲むことに対して、

私たち人間はいかに執着し、どん欲なことかはかり知り得ません。

これを知るには、断食というリセット以外には分からないのです。

これは私の体験から確信をもっていえることなのです。

私は生まれて初めて韓国で断食祈祷した時、

この聖句の意味がわかりました。

同時にキルケゴールの著作「野の百合空の鳥」で展開されたのは、

まさに私自身の告白だったのです。

彼はいいます。

・・・われわれの真に学ぶべき百合と鳥とをもっと詳細に観察しよう。鳥は黙って待っている。鳥は知っている。あるいはもっと正しくいうならば、鳥は固く信じている。すべてのことが適当な時に起ることを。……そのためには鳥は待っているのである。しかもその時と時刻を知ることは、自己の分ではないことを鳥は知っている。……そのために鳥は沈黙しているのである。きっとすべてのことは適当な時に起るであろうと鳥は言う。いや、そうではない。鳥はそう言わないで黙っている。しかしその沈黙が雄弁なのである。鳥のこの沈黙は、鳥がそれを信じていることを告げている。実際、鳥はそれを信じていればこそ、黙って待っているのである。こうしてその瞬間が訪れるならば、沈黙せる鳥は、これがその瞬間であることを理解し、これを利用して羞らうことが決してないのである。百合もまた同様である。百合は黙って待っている。「いつ春が来るのか」と百合は性急に問いはしない。・・・


鳥も野の花も私たちに語っているのです。

第一とすべきは「いのち」なのだと。

断食してみて分かったのは、いのちの大切さでした。

それを日本に広げないと真の断食は分からないということを

今から30年前に韓国のオサンリ祈祷院(注・01)で示されたのです。

オサンリ祈祷院(注・01)
恵みと奇跡の丘、オサンリ・チェジャシル記念断食祈祷院(以下、祈祷院と省略)は、教派を超えた祈りの丘として 1973年に設立されました。6千名を収容できる大聖殿と2万名の聖徒が同時に礼拝できる12個の付属聖殿があり、 現代的な宿泊施設である愛の家、個人祈祷のための214個の祈祷室、総合厚生館などの施設があります。祈祷院で は延べ1,512名の講師陣が365日、1日4回の礼拝を捧げ、毎週月曜日から土曜日まで超教派講師を招いて特別聖会 を開催しています。祈祷院には教派を超え多くの聖徒が訪問しています。外国人聖徒の訪問も増え続け、毎年2万 名以上の外国人聖徒が訪れて、熱く祈っています。(オフィシャルサイトから)




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イザヤの哀歌 

2024-04-29 04:00:00 | 時代を切り開いた預言者たち イザヤ書
イザヤ書
 22:1 幻の谷についての託宣。どうしたのか、お前たちが皆、屋上にいるのは。

 22:2 騒音に満たされ、どよめく都/喜びに浮かれた町よ。お前の死者たちは、

剣に倒れたのではない/戦って死んだのではない。

 22:3 お前の将校たちはすべて逃げ出したが/弓を引くこともなく捕らえられた。

遠くに逃げた者も皆/見つけられ、共に捕らえられた。

 22:4 それゆえ、わたしは言う。「わたしから目をそらしてくれ。

わたしは激しく泣く。あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ。」

 22:5 混乱と蹂躙と崩壊の日が/万軍の主なる神から来る。

幻の谷に、騒音が響き渡り/山に向かって叫ぶ声がある。

 22:6 エラムは矢筒を取り上げ/戦車には人が乗り、馬がつながれた。

また、キルは盾の覆いをはずした。

  22:7 お前の最も豊かな平野は/戦車と馬で満たされ/彼らは城門の前に陣取り

 22:8 ユダの防備をはぎ取った。その日には、お前たちは/

森の家の武器に目を向けた。

 22:9 また、ダビデの町に破れの多いのを見て/下の池の水を集めた。

 22:10 エルサレムの家を数え/家々を倒して、城壁の破れをふさごうとした。

 22:11 二つの城壁の間に水溜めを造り/古い池の水を入れた。

しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず/

遠い昔に都を形づくられた方を/見ようとしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イザヤはエルサレムの人々に一つの要求を突きつけていました。


22:4 それゆえ、わたしは言う。「わたしから目をそらしてくれ。

わたしは激しく泣く。あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ。」


激しく泣いたイザヤですが、

イザヤの真意をエルサレムの人たちは理解できていません。

これはヨブ記でも展開される問題ですが、

預言者ではエレミヤの哀歌が歌っています。

哀歌
1:1 なにゆえ、独りで座っているのか/人に溢れていたこの都が。

やもめとなってしまったのか/多くの民の女王であったこの都が。

奴隷となってしまったのか/国々の姫君であったこの都が。

 1:2 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、

今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。

 1:3 貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き/異国の民の中に座り、

憩いは得られず/苦難のはざまに追い詰められてしまった。

 1:4 シオンに上る道は嘆く/祭りに集う人がもはやいないのを。

シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、

おとめらは悲しむ。



そして5節でバビロニアがエルサレムに進撃し神殿を破壊して、

指導者たちを連れ去っていくバビロニア捕囚(注・01)の始まりの預言です。


バビロニア捕囚(注・01)
 「バビロン捕囚」または「バビロニア捕囚」(念のため、「補習」ではないので気をつけよう)とは、紀元前586年、ユダ王国の首都イェルサレムが新バビロニアのネブカドネザル王によって征服され、住民のヘブライ人は、囚われの身となってバビロンに連行され、およそ50年の捕囚生活の後、新バビロニアがアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって滅ぼされた前538年に解放されてパレスチナの地に戻ることが許された、という説明でどの教科書にも記載されている。またその歴史的意義としては、この民族的苦難を契機としてユダヤ人としての民族意識を高め、ユダヤ教という民族宗教の体系をつくりあげたことと、その後のユダヤ人の国家喪失、いわゆる「離散」(ディアスポラ)の始まりであったことが取り上げられている。この「捕囚」の記憶は旧約聖書を通じて後のキリスト教世界にも継承され、中世ヨーロッパで1309年に始まる教皇庁の分裂を「教皇のバビロン捕囚」(またはたんに「バビロン捕囚」)と言われているところに、この出来事が重要視されていたことが現れている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主を決して忘れないように 02 満足は誘惑の始まり  

2024-04-28 04:00:00 | 聖書の中なかの聖書 申命記
申命記
6:10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、

あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、

あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、

 6:11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、

自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑と

オリーブ畑を得、食べて満足するとき、

 6:12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された

主を決して忘れないよう注意しなさい。

 6:13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。

 6:14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。

 6:15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。

あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、

地の面から滅ぼされないようにしなさい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これからイスラエルは沃地に入っていきます。

そこで唯一神に従う信仰を確立していきます。

旧約聖書学者、関根正雄氏は「アッシジのフランシス(注・01)は、

沃地の生活をしないが、イスラエルは沃地の生活をしていくように

私たちも沃地の生活の只中で、つまりこの世の生活を

しつかりしなければならない」と注解しておられます。

しかし、この解釈は間違いです。

下記のウィキにあるように彼の伝記を記していますが

長いので一部だけ紹介しましたが、沃地に入らなかったのではなく、

沃地で思う存分、その世界を知り抜いて、神を体験して、

それらすべてを棄てて神に従ったのです。

ですから関根氏の指摘は間違いなのです。

沃地にはいるのは、そこを避けるのと知り抜いて、入っていくのとは

天と地ほどの差があります。

むしろ私たちは避けるのではなく、知り抜いて、

そしてその世界を体験しないと役に立たないのです。

たとえば牧師が社会生活を経験していない方は話になりません。

信徒の機敏な心の動きを把握できないからです。

さて10-11節では、沃地はどのようなものかを述べています。

1・自ら建てたのではない、大きな美しい町々、

2・自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家

3・自ら掘ったのではない貯水池

4・自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑

などです。

このような豊かな沃地のものを与えられると

11節「食べて満足する」ことから誘惑が始まるのです。


アッシジのフランシス(注・01)
(1182年 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、清貧、 悔悛と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている。父親はピエトロ・ディ・ベルナルドーネという裕福な毛織物商、母親はジョアンナもしくはピカという名でフランスの貴族の家の出であるとも伝えられている。この時期の都市に住む平民として、フランチェスコは高度な教育は受けなかったものの、少年期にラテン語の読み書きをサン・ジョルジュ教会の付属学校で学んだ。フランチェスコの青年時代は、富貴を問わず誰に対しても礼儀正しかったが、気前の良い散財家で、享楽的な生活を送っていたとされている。1205年、フランチェスコはイタリア半島南部のプーリア地方の戦争に出征する騎士に同行を申し出た。これは、戦功を立てて騎士に取り立てられることを目論んだもので、装備を整えた上で出立するが、アッシジ近郊のスポレートで彼は突然に引き返す。聖人伝は、このとき彼が幻視したか神の声を聞いたのだとしている。フランチェスコがどのように世俗を離れて神の道に生きることを決意したのかについて、順序関係に曖昧なところを残しながら、聖人伝は様々なことを伝えている。前述したスポレートでの幻視もしくは幻聴もそのひとつであるが、他にも様々なきっかけがあり、フランチェスコの回心は数年間の長いプロセスとして描かれている。ペルージャの捕虜時代であるのか、釈放後なのかは伝記によって異なるが、フランチェスコは大病を得て、そこから快癒して外に出た時、以前のように自然の美しさを楽しめなくなった自分を発見した。友人たちとの放埓な生活にも空しさを覚えるようになり、ときおり洞窟などに籠って祈りや瞑想を行うようになった。あるとき、それまでは近づくことを恐れていたハンセン氏病患者に思い切って近づき、抱擁して接吻した。すると、それまでの恐れが喜びに変わり、それ以後のフランチェスコは病人への奉仕を行うようになった。
ローマに巡礼に出かけて、乞食たちに金銭をばらまき、乞食の一人と衣服を取り換えて、そのまま乞食の群れの中で何日かを過ごしたという伝記もあるが、これは史実かどうか疑わしいとも言われている。アッシジ郊外のサン・ダミアノの聖堂で祈っていたとき、磔のキリスト像から「フランチェスコよ、行って私の教会を建て直しなさい」という声を聞く。これ以降、彼はサン・ダミアノ教会から始めて、方々の教会を修復していった。父の不在中、フランチェスコは商品を持ち出して近隣の町で売り払い、その代金をサン・ダミアノの下級司祭に差し出した。帰宅してそれを知った父親は怒り、家業の商売に背を向けて自分の道を進もうとする息子との間に確執を生むことになる。最後には、アッシジ司教の前で父子は対決するのだが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」として衣服を父に差し出し、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切った。(ウィキの一部)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カインとセツの系図  05 二つの系図 05 なぜイスラエル民族は王国を建設せず町を建てたのか

2024-04-27 04:00:00 | 世界の初めを知ろう 創世記
創世記
4:17 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。

カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

 4:18 エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、

メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。

 4:19 レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。

 4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。

 4:21 その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。

 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。

彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。

トバル・カインの妹はナアマといった。

 4:23 さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。

レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。

わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

 4:24 カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 4:25 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。

カインがアベルを殺したので、

神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 4:26 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。

主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖書の記録を残したイスラエル人は、

周辺の巨大帝国の記録が王国の建設から始まっているのですが、

町の建設から始めているのが特色なのです。

その意味するところは、文化の発生を問題にしているからです。

そして同時に職業文化について問題性を見ていたのです。

カインは農業で、そこから職業が分化していくのです。

創世記2章では、エデンの園の管理を任せられています。

これは農園の管理ではありません。

いずれにせよ神からこのような仕事を任せられたのです。

そして多様な仕事の始まりが17節以降の系図となっています。

そこには王国は一つも出て来ません。

しかも、後にイスラエル民族はカナンに進出しますが、

王国は建設されず、士師たちの支配、各部族の共同体といいますか

連合体が長く続きます。

ようやくサウルが初代の王に選出され、その後、ダビデ、ソロモンと続き、

王政が次第に確立されていきました。

しかし、それもわずか500年間で王国は崩壊します。

周辺に強大な大国が次から次へと誕生し、政治的な圧迫を受け、

北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、

残った南ユダ王国はバビロニア帝国に支配され、

主だった指導者はことごとく捕囚となってしまいます。

それまでに至る記録の始まりが

創世記など長い記録が聖書に収められているのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新約聖書の世界 47 新約聖書時代背景 07 新約時代の幕開け 07 イスラエル王国の命運 06 エルサレム陥落  

2024-04-26 04:00:00 | 聖書入門 新約聖書
紀元66年に起こったユダヤ戦争についてもう少し述べます。

ヘロデ大王の死後は、ユダヤ属州はローマの総督によって支配されていましたが、

ヘロデ大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、

41年にユダヤの統治を委ねられることになります。

このアグリッパ1世が44年に病死すると、

再びユダヤ地方はローマの直轄地となりました。

ローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、

統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策でしたが、

迷信、民間宗教がうごめく多神教文化で、一神教を奉ずるユダヤは

特殊な文化を持った地域でしたから、

その帝国支配に対してユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まっていきました。

ヨセフスのユダヤ戦記によると、「ユダヤ戦争」が勃発した引き金は、

カイサリアにおけるユダヤ人の殺害でした。

当時のユダヤ属州総督フロルスがエルサレムのインフラ整備のための資金として

神殿の宝物を持ち出したのです。

これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こり始めます。

ローマ軍は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとしますが、

逆に反ローマの機運をユダヤ全土に飛び火させてしまいます。

主導権争いと仲間割れを繰り返していたユダヤの各派、反ローマで結束し、

それまで隠遁修行生活をしていたエッセネ派までも反乱に加わります。

総督フロルスはシリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、

反乱軍の前に敗れてしまいます。

事態を重く見たローマ皇帝ネロは、

将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧しようとします。

将軍ウェスパシアヌスは、息子ティトゥスらと共に出動し、

エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、

ユダヤの周辺都市を各個撃破していきました。

そしてユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、

エルサレムを孤立させることに成功したのです。

そしていよいよ紀元68年4月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督であった

ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が発端となって、

同年6月にネロが自殺し、69年には4人のローマ人が次々と

皇帝に即位(「4皇帝の年」)したり、様々な反ローマの反乱が勃発するなどで

ローマ帝国は大混乱に陥って、ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、

ローマへ向かい、ローマ軍の司令官不在のまま、

ユダヤ戦争は一旦、戦線膠着状態となります。

しかし、69年12月にアウルス・ウィテッリウスが殺害され、

唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは

懸案のエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせました。

そして70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って

頑強に抵抗したでのですが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、

エルサレム神殿は、火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落します。

エルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスは

ローマへと凱旋したのです。

このときつくられたのが、フォロ・ロマーノに今も残る

ティトゥスの凱旋門です。

そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれています。

しかし、まだユダヤでは抵抗は続いていました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする