マタイによる福音書には下記のような記事があり、
ヘロデ王の名前は今や全世界の知るところなりました。
マタイによる福音書
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、
どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、
拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。
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上記3節にあるようにヘロデ大王は猜疑心が強く、
『ユダヤ古代誌』によれば3つの大きな悪事が記されています。
1・ダビデの墓を暴いた
宝目当てにダビデの墓を開けて蓄えられた金はなかったのですが、
いくつかの黄金の装飾品を見つけ、さらにダビデとソロモンの棺を開けようと
した所、火が噴き出し護衛2人が焼死する事件が起きて
気味が悪くなったヘロデは墓を再度封印しました。
2・幼児虐殺
救世主イエス・キリストの誕生を知らされ、
恐れをなして同世代の乳幼児全員を殺しました(マタイによる福音書2章16-18節)。
3・名士たちを集めて強制殉死させようとした(未遂)
ユダヤ地方の名士たちを「来ないと死刑にする」と召喚し、
彼らを競馬場に閉じ込め「自分が死亡したら全員を射殺して
無理やり国民を泣かせる」という事を妹のサロメたちに願ったのです。
彼の名はヘロデ朝の創始者であり、一般的に「ヘロデ大王」といいます。
エドム人アンティパトロスとナバテア人貴族の娘の間に生まれたアラブ人で、
ユダヤ人社会の風習になじんでいました。
父以来ローマの東方進出政策と手を結び、富と政治力を築いたのです。
父子ともユリウス・カエサル、M.アントニウスと友好を保ち、
ローマ市民権を獲得し、前 47年には父はユダヤ総督、
ヘロデはガリラヤの代官となりました。
前 47年には、一時パルティアに追われてローマに亡命しましたが、
ローマ元老院の後ろだてで前 37年ユダヤ王に即位しました。
これを正当化するため、ハスモン (マカベア) 朝の子孫にあたる
マリアムネと結婚します。
また、ローマの内乱では、アントニウスとクレオパトラ7世を支持しましたが、
のちアウグスツスに取り入り、ヨルダン、シリアの領地をも与えられます。
王国内では、専制政治を行ない、10人の妻をめとり、
14人の子供をつくりました。
また、国内の主要都市にローマ風の公共建築物をつくり
(カエサレア、サマリア・セバステなど) 、首都エルサレムには
神殿を再建し、王宮、要塞などを完備しました。
エリコやマサダには離宮を築き、
国外の都市 (ベイルート、ダマスカス、アンチオキア、ロードス島) にも
建造物を寄付しました。
しかしユダヤ人でないため律法学者からは憎まれました。
元来、性格は陰うつで冷酷で、死後、王国は3人の子の間で分割されました。