紀元66年に起こったユダヤ戦争についてもう少し述べます。
ヘロデ大王の死後は、ユダヤ属州はローマの総督によって支配されていましたが、
ヘロデ大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、
41年にユダヤの統治を委ねられることになります。
このアグリッパ1世が44年に病死すると、
再びユダヤ地方はローマの直轄地となりました。
ローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、
統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策でしたが、
迷信、民間宗教がうごめく多神教文化で、一神教を奉ずるユダヤは
特殊な文化を持った地域でしたから、
その帝国支配に対してユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まっていきました。
ヨセフスのユダヤ戦記によると、「ユダヤ戦争」が勃発した引き金は、
カイサリアにおけるユダヤ人の殺害でした。
当時のユダヤ属州総督フロルスがエルサレムのインフラ整備のための資金として
神殿の宝物を持ち出したのです。
これをきっかけにエルサレムで過激派による暴動が起こり始めます。
ローマ軍は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとしますが、
逆に反ローマの機運をユダヤ全土に飛び火させてしまいます。
主導権争いと仲間割れを繰り返していたユダヤの各派、反ローマで結束し、
それまで隠遁修行生活をしていたエッセネ派までも反乱に加わります。
総督フロルスはシリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、
反乱軍の前に敗れてしまいます。
事態を重く見たローマ皇帝ネロは、
将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧しようとします。
将軍ウェスパシアヌスは、息子ティトゥスらと共に出動し、
エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、
ユダヤの周辺都市を各個撃破していきました。
そしてユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、
エルサレムを孤立させることに成功したのです。
そしていよいよ紀元68年4月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督であった
ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が発端となって、
同年6月にネロが自殺し、69年には4人のローマ人が次々と
皇帝に即位(「4皇帝の年」)したり、様々な反ローマの反乱が勃発するなどで
ローマ帝国は大混乱に陥って、ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、
ローマへ向かい、ローマ軍の司令官不在のまま、
ユダヤ戦争は一旦、戦線膠着状態となります。
しかし、69年12月にアウルス・ウィテッリウスが殺害され、
唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは
懸案のエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせました。
そして70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って
頑強に抵抗したでのですが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、
エルサレム神殿は、火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落します。
エルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスは
ローマへと凱旋したのです。
このときつくられたのが、フォロ・ロマーノに今も残る
ティトゥスの凱旋門です。
そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれています。
しかし、まだユダヤでは抵抗は続いていました。