バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

中江藤樹の神学がなぜ必要なのか 03 私はどこで中江藤樹を知ったのか 03 内村はなぜ「代表的日本人」を書いたのか  

2022-02-28 04:00:00 | キリストの食卓
私は2月9日に書いたように内村鑑三を通して中江藤樹を知りました。

そして高島市では誰でも知っている清水安三は、中江藤樹はキリシタンであることを証明し、

その著作は高島市図書館で借りることができます。

しかし、このことを認めようとする高島市民はいません。

私は中江藤樹を知ったことが高島市移住の最大要因でした。

今回は、なぜ内村が彼の優れた英文で

世界に日本の旧約としての日本を代表する人物として中江藤樹を選んだのか不思議でした。

作家の童門冬二(注・01)が、「内村鑑三代表的日本人を読む」(PHP文庫)では、

理想的な教育の教師としての中江藤樹像を描こうと選んだのだという主旨でした。

また先回紹介した若松さんは西郷隆盛のルーツを辿っていったら中江藤樹に至ったからだと指摘しています。

さらに「代表的日本人」を岩波書店版で翻訳された鈴木範久さん(注・02)は、

やはりキリスト者であり、

岩波書店から内村鑑三全集の編纂責任者だけあって見解が鋭いのですが、

この本の目的は


1・西洋のキリスト教徒に優るとも劣らない日本人がいたことを紹介しようとした。

2・これらの人々を旧約としてそこに接ぎ木されたのである。

3・5人の歴史的な人物の描写ではなく、内村の理解したキリスト教人物像が投射されている。

4・それは内村独自の人間像となっている。

5・最初の「日本及び日本人」は日清戦争の時代を色濃く反映されているので

西郷隆盛は征韓論を唱えて、在野に下ったことを意識して書かれている。

6・近代の西洋文明とこれを無批判に安易に受容した近代日本への批判と抵抗がベースにある。

7・日蓮と内村は相当オーバーラップしており、内村自身が、

キリスト教の日蓮たらんという志をもっていた。

8・この5人を取り上げたことにより、キリスト教を受容した

内村自身のアイデンィティティの確立がはかられたのである。


と解説に書いておられますが、鈴木さんの指摘が最も正解ではないと私は思います。



(注・01)童門冬二
東京下町にて誕生。東海大学附属旧制中学卒業。海軍少年飛行兵(予科練)の特攻隊に入隊するが、
出撃しないまま終戦を迎える。東京都に入庁し、目黒区役所係員から、
東京都立大学理学部事務長、広報室課長、企画関係部長、知事秘書、広報室長、
企画調整局長、政策室長を歴任した後、1979年に退職、作家活動に専念。都庁在職中は、
美濃部亮吉都政3期12年を知事のスピーチライターとして支え、
都庁首脳として活躍した。美濃部の知事退任と同時に退職し作家専業となった。

(注・02)鈴木範久
日本の宗教史学者、立教大学名誉教授。主として内村鑑三など、近代日本キリスト教を研究する。
愛知県生まれ。東京大学大学院宗教学専攻博士課程満期退学。
1967年立教大学一般教育部助教授、教授、コミュニティ福祉学部教授、2002年定年退任、名誉教授。

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キリスト教のカルト研究をなぜ開始するのか 03 私の体験から 03 「神の国の証人・ブルームハルト父子」との出会い

2022-02-27 04:00:00 | パスカルが私たちに語りかけるもの
しかし、厄介なのは2番目の妻であった智子でした。

彼女がボーダレス(境界性人格障害)であったことに気が付くのに23年間を要したからです。

実に巧妙なカルトを形成していたボーダレスだったことと、こころの暴力、

そして夫婦という密室のカルトであったので、それを正しく認識することがなかなかできなかったのです。

しかし、こうしたカルトが誕生する下地は、日本の聖霊派の指導者、献身者に多いのです。

これも日本教の特色なのです。

23年間所属した無教会は内村教、そして愛農聖書研究会は小谷教、

そして私の妻は智子教を形成していたのです。

いずれも日本教キリスト派無教会、聖霊派の怖さです。

ではどのように私は智子教に引っかかったのかです。

それは洋子と結婚して与えられた長女、真理が中学生になってから

登校拒否になったことから問題は起こります。

1992年の春のことです。

愛農聖書研究会の準備委員会で奈良に家族で向う途中、

奈良県のダイワロイヤルホテルに宿泊したのですが、

チェックイン後、長女の真理の姿が見えなくなり、

探すと私たちのホテルの部屋のクローゼットの片隅で

じっとうずくまっていたのです。

そして顔をみたら能面で、ただならないことだと直感しました。

本人に聞くと学校で陰湿ないじめにあい、しかも主犯格は、同じ村落の同級生で、

その子の父親は私の高校時代の後輩でした。

彼はその数年後に脳内出血で半身不随となるのですが、正直、この出来事は驚きました。

さて、娘は単なる登校拒否ではありませんでした。

すでに私たちが気付いた時点で、強度のうつ状態でしかも幻聴幻覚が起こっていたのですが、

私たち夫婦は全くこのことに気が付かなかったのは、本人がひたすら隠していたからなのです。

しかし、そのホテルで限界に来たようで以後、学校を休ませて、

クラス担任に相談するとまたもや驚きは、

いじめの実態を全く知らなかったこと、更にそれが公になるのを回避したことです。

これで学校不信になり、以後、登校拒否をして、学校にはいかせませんでした。

しかし、娘の能面は全く変わらず、改善しませんでした。

そこでカウンセリングに多くのところに出かけましたが、

何んら解決どころか方向性も見えませんでした。

全くこれは霊的な問題ではないかと思うようになり、

まず私の所属する愛農聖書研究会でそこの講師3人に相談しましたが、まったくダメでした。

私のファイナンシャルプランニングのオフィスが東京・新宿にあり、

毎週、東京で2,3日ほど仕事をしていましたので、

川崎市におられた私の信仰の恩師である高橋三郎先生を尋ねましたが、

同じく解決の方法がありませんでした。

そのような頃、新教出版社から「神の国の証人・ブルームハルト父子」(井上良雄著)が出版され、

東京を往復する新幹線の中で読み進めていくと今まで聞いたことも読んだこともない世界なのです。

しかも霊的なこととは縁遠いはずの聖書学者の井上良雄(注01)さんだから驚きました。

特に父ブルームハルト(注・02)の悪霊との対決、追い出し、その後のリバイバル、

神の癒しなど今まで読んだことのない、聞いたことがない世界なのです。

読み進めていくと、どうも私の娘はこの悪霊に支配下にあるということが分かってきたのです。

そしてこの本を繰り返して読みました。

読みながら、日本ではこのような悪霊の追い出しのできる牧師は果たしているのだろうか、

それをずっと考えるようになりました。

そのことが後に智子教に引っかかった原因となるのです。


(注・01)注井上 良雄
(1907年9月25日 - 2003年6月10日)は、文芸評論家、神学者。東京府生まれ。
東京府立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を経て、
1930年京都帝国大学文学部独文科卒。神保光太郎、北川冬彦らと同人誌『磁場』などで
文芸評論を書く。『磁場』1932年4月に「芥川龍之介と志賀直哉」を発表。
1939年法政大学で教える。1935年治安維持法違反で検挙、不起訴、1936年日本大学講師、
1945年3月東京信濃町教会で洗礼を受ける。1947年東京神学大学専任講師、
1951年教授、1971年定年退任。1997年、これらの功績が認められ、
日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。

(注・02)ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(1805年7月16日 - 1880年2月25日)
ドイツのルーテル派の神学者、牧師。クリストフ・フリードリッヒ・ブルームハルトの父である。
1842年に若い女性から悪霊を追い出した事件から、リバイバルが起こり、神癒もなされた。
その時「イエスは勝利者である」との叫びと共に悪霊が少女から出て行ったという。
そして神癒を求めて多くの人がブルームハルトのもとに集まった。
ブルームハルト父子は体系的な神学を構築しなかったが、牧会的、神学的な大きな運動を引き起こした。
特に神の国、キリスト教終末論に大きく影響を与えた。

(以上、ウィキ)

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日本は韓国からキリスト教を学べ 53 朝鮮総督府の始まり 01 安重根の伊藤博文暗殺事件    

2022-02-26 04:00:00 | キリスト教国の歴史と現在 韓国
韓国では抗日義士として英雄である安重根を讃える記念館「アン・ジュングン(安重根)義士記念館」が、

ソウル市内の南山公園にあります。

ウィキでは彼の詳細な記述がありますが、長文になりますので、

「日本大百科全書(ニッポニカ)」の解説を記載し、最後に死刑前後をウィキから引用しておきます。

・・・大韓帝国(1897~1910。略称、韓国)末期の愛国運動家。現在の北朝鮮黄海南道出身。字は応七(ウンチル)。幼いころから射撃の名手として知られた。1894年、韓国南部で発生した甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)で、父親に従って農民軍の鎮圧に従事。1895年、キリスト教の洗礼を受けた(洗礼名はトーマス)。1905年(明治38)、韓国の外交権を日本に移して韓国を日本の保護国とする第二次日韓協約保護条約)が締結され、伊藤博文が初代統監に就任すると、安重根は救国の方法を探るために、清国の上海に行った。1906年に帰国後は、鎮南浦で三興学校を設立するなど、教育活動を通じた救国運動である愛国啓蒙(けいもう)運動に従事した。1907年、高宗皇帝がオランダのハーグで開かれた平和会議に密使を送ったハーグ密使事件が起きると、伊藤は高宗皇帝を退位させ、純宗皇帝を即位させた。さらに、韓国の内政権を日本が掌握する第三次日韓協約が締結され、韓国軍は解散させられた。このような状況のなか、安重根はロシアのウラジオストクに亡命、そこで日本に抵抗する義兵活動を行った。1909年5月、伊藤は韓国統監を退き、枢密院議長となった。伊藤が、満州のハルビンでロシアの蔵相ココーフツォフと満州・朝鮮問題について会談するとの情報を得た安重根は、1909年10月26日、列車内での会談を終えてハルビン駅のプラットホームに降りた伊藤を狙撃、射殺した。そしてその場でロシア官憲に逮捕されて、日本の司法当局に引き渡され、関東州の旅順監獄に収監された。殺害理由については、伊藤を「大韓独立主権を侵奪した元凶」であり、「東洋平和を乱す者」だからと主張した。獄中で『東洋平和論』を執筆したが未完に終わった。1910年3月26日、旅順監獄で刑の執行。・・・(ニッポニカ)

安重根死刑執行の記録が残されています。

・・・3月26日、刑場に向かう前、弟達との最後の面会が許された。これには水野と鎌田の両弁護士も同席した。 安は弟達に妻子の面倒を頼んだ。また安は熱心な信者で、死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子は聖職者になるようにと書いたという。同日午前9時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑が執行された。立会人には、溝渕孝雄(検察官)、園木末喜(通訳)、栗原貞吉(典獄)、水野吉太郎(弁護士)らが列した。安がキリスト教の祈祷をする猶予が与えられた後、栗原が被告に死刑執行文を読み聞かせ、遺言の有無を尋ねた。安は別に遺言はないが、臨検する諸君が「東洋平和のために御尽力される」ことを願うとだけ言った。9時4分ごろに絞首台に登り、安が最後の黙祷をした後、15分後に絶命した。水野は安の志を尊重して執行後に皆で「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、刑務官に許されなかった。安の遺体は、医師の検死の後、栗原が特別の厚意で事前に用意していた棺に納められて、一時、監獄内の教会堂に安置され、共犯者として同監獄で受刑中の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名で告別式が行われた。弟の安定根・安恭根が安の遺体を貰い受けることを嘆願したが、拒否され、午後1時には旅順共同墓地内に埋葬された。(関連話)安の死から更に5か月後の8月29日に、日韓併合により大韓帝国は消滅した。初代総理大臣の伊藤博文を暗殺した安の死刑を執行した関東都督府の当時の都督大島義昌は、後の総理大臣の安倍晋三の高祖父にあたるという巡り合わせがある。
投獄された旅順監獄の看守で、安重根の監視の担当となった千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになっていった。安は処刑の直前、千葉に向かって「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。
旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も、安に感化された1人で、安の願いを聞き入れ、煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い、助命嘆願をするなど便宜を図っていた。処刑前日には、彼も絹の白装束を安に贈った。また前述のように栗原は安のために厚い松板で拵えた特別な棺を用意していた。死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで、しばらく後に退任して故郷の広島に帰った。安を朝鮮の志士と称した主任弁護士で、高知出身の水野吉太郎も手帳に安重根の親筆を得ていた。前述のように彼は処刑の朝の面会に同席したが、この時に腹を割って話して交感したので、安からキリスト教に改宗するように勧められ、「天国で共に語り合おう」と言われている。
別の看守の八木氏も安の墨書を記念に書いてもらって持ち帰り、2004年、孫の八木正澄氏が韓国に無償で寄贈した。
(ウィキ)
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第1章・花婿としての神 01 「断食ライフスタイル」を始める前に

2022-02-25 04:00:00 | 「聖なる花嫁断食」(マイク・ピックル著)
「断食」と聞いて、クリスチャンの多くはどのように思うでしょう。

昔なら、ほとんどの人が理解や関心を示さずにいたでしょう。

断食は一部の情熱的なグループに限られたもので、信仰生活において、

優先順位の低いものと思われていたようです。

しかし、近年は断食に対する関心がクリスチャンの間で広がっているのが見て取れます。

それは霊的な渇きを覚え、神の愛と力を求める人が増えているからです。

私は、これをキリストのからだなる教会に対する神の恵みだと感じています。

断食に対する関心の高まりは、終わりの時代に訪れる栄光と艱難に備えて、

教会を整える一環であり、神が約束されたことだからです。

イエス様は、父なる神は正しい断食に報いてくださるとはっきり述べています。


マタイによる福音書
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。

6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、

隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。

そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」


イエス様ご自身がこのように語っているのですから、

これはクリスチャンにとって重要なことです。断食の恵みは無視できるものではないのです。

生活に断食を取り入れること、「断食ライフスタイル」を始める前に、

一つ考慮すべきことがあります。

確かに、神は断食に報酬を与えてくださいますが、その報酬は、

私たちが断食したことによって得られるものではないということです。

私たちは神の好意や報酬を得ることのできる存在ではありません。

ただ恵みを受け取る者だけの者なのです。

神は私たちの人生にあふれるほどの報いを与えたいと思っておられますが、

私たちにできることは、それを受け取る位置につくことだけです。

内面的には神を体験すること、

外面的には主によって環境が変化するという報酬があるでしょう。

いや、そればかりではなく、天で受ける報酬もあると考えれば、永遠の報酬とも言えるでしょう。

実に、父が断食する者に与えてくださる報酬は絶大です。

だからこそ、主は今、新約聖書にある祈りと断食の生活を受け入れるように、

世界中の信徒の心を整えているのです。

私たちのジレンマ・神の愛を体験する必要性

人間には、愛され、受け入れられ、そして自分に価値があることを知りたいという欲求があります。

そしてそれが生きるための大きな活力になります。孤独や否定されることに激しい痛みを感じるのも、

人間が神によって愛され、そしてそれに応えて、自らも愛するように創造されているからです。

しかし、私たちは神に愛され、受け入れられているとは頭で認識できたとしても、

それを体験できない場合があります。

認識と体験の大きな隔たり、これがジレンマです。

断食は神の愛を体験するための最も現実的な方法の一つなのです。

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第6章・火を降らせるために 01 ジョン・ウェスレーと弟チャールズ 

2022-02-24 04:00:00 | 「カミング・リバイバル」 ビル・ブライト著
私たちは生まれながらに、最も抵抗の小さい道を選ぼうとする傾向がある。

特に、私たちアメリカ人は、何が何でも苦痛を避けようとすることで悪名高い。

学生たちは、解説書に目を通すことで、読書の課題を手っ取り早く片付ける。

私たちは、あまり汗をかかずにすむような手軽なエクササイズ・プログラムを探す。

私たちはいつも、肥満の原因となるような食物を楽しむ一方で、

体重を簡単に落とせるようなダイエット用の錠剤を探している。

空腹に耐えることも運動をすることもなく、体重を落とす新しい方法が、

毎月のように流行していると思われる。

ドリンク・ダイエット、バナナ・ダイエット、プロティン・ダイエットなど、枚挙にいとまがない。

そのことにかけては、私たちの大半が、大変な思いをしたくないと考えている。

自分が一番関心があると思っているジャンル、

たとえば、勉強や運動、ダイエットのジャンルでさえも、私たちは自分のためになる鍛錬を避けようとする。

断食と祈りという、霊的な訓練に関しては、特にそうである。

私たちは誰も、神との交わりを欠かさないことがいかに重要なことであるかを知っているはずである。

しかし、私が世界各地を旅行し、あちらこちらで話をする中で、自然に祈りたいという気持ちになる、

というクリスチャンに会うことはほとんどない。

訓練の一環として、断食をしている人となると、さらに少なくなる。

それでも、昔から現代に至るまで、神のために力あるわざを行った敬虔な人々は

皆、祈りとを断食の必要性を証している。

18世紀の終わりごろ、大覚醒運動において、神のために世界を揺り動かし、

メソジスト教会の産みの親となったジョン・ウェスレー(注・01)は、

そのような偉大な霊的指導者の典型である。

ジョン・ウェスレーと弟チャールズ(注・02)は、

1732年、オックスフォード大学の学生であった頃、友人の

ジョージ・ホィットフィールド(注・03)を始めとした仲間のクリスチャンたちと共に

断食して祈っていた。

これらの、クリスチャンの「自費学生」たちは、貴族階級の学生たちの嘲笑を受けながら、

勉強し、礼拝していた。

そして、「ホーリー・クラブ」というあだ名をつけられた。

断食と祈りの霊的な力を体験した彼らは、この訓練を、

彼らの歴史的なミニストリー(注・04)にも持ち込んだ。

ジョン・ウェスレーは、この力を固く信じていたので、初期メソジスト教徒たちにも、

毎週水曜日と金曜日に断食をさせた。

週2日、このように断食することに強い導きを感じたウェスレーは、

メソジスト教会の中ではこれに同意する人にしか按手(注・05)をしなかった。


(注・01)ジョン・ウェスレー
1703年6月28日 - 1791年3月2日)は、18世紀のイングランド国教会の司祭で、
その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導した人物。
この運動から生じたのがメソジスト派というプロテスタント教会であり、
アメリカ合衆国・ヨーロッパ、アジアで大きな勢力をもつに至った。
特にアメリカではプロテスタント系で信徒数第2の教派である。

(注・02)チャールズ・ウェスレー
1707年12月18日 - 1788年3月29日)は、
イングランド国教会における信仰覚醒運動であるメソジスト運動の指導者であり、
ジョン・ウェスレーの弟。チャールズは主に、多数の賛美歌を記したことで知られる。

(注・03)ジョージ・ホウィットフィールド
1714年12月16日 - 1770年9月30日)は、
18世紀イギリスと植民地時代アメリカに大きな影響を与えたキリスト教の伝道者、
イングランド国教会の牧師、説教者、メソジスト信仰復興 の指導者である。

(注・04)ミニストリー
Ministry・(キリスト教徒による)宗教活動(◇伝道・信仰に基づく奉仕活動など)

(注・05)按手
キリスト教で、手を人の頭の上に置いて祝福を与え、聖霊の力の付与を祈ること。
キリスト教会が信徒を教会の重要な職務に就かせるとき,
祈りとともにその人の頭に手を置き,霊的な力が与えられるようにした。
これを按手と呼ぶ。
プロテスタント教会では教師(正教師)の資格を与える儀式を,とくに按手礼と呼んだ。

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