バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

信仰生活を生きるには無教会では無理

2020-09-30 04:00:00 | ローマ人への手紙を読み解く
ローマ人への手紙
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、

その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。

この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。


このブログでは修道院の断食について連載をしています。

連載しながらこれまで私が無教会の指導者から常に教えられてきたことが

根本的に間違っていたのだということが次第に分かってきました。

私は無教会時代に買った信仰書を高島市に引っ越した時、大半を処分しました。

引っ越しセンター専用箱で116箱もありました。

そして唯一、残したのが、関根正雄著作集でした。

なぜそうしたかといいますと、もしこれから聖書入門書をブログで連載していく場合、

必ず、24年間も教えを受けてきた無教会と対決することになり、

無教会の中では唯一の本格的神学者である

関根正雄の信仰と比較していくことになると予感していたのです。

そして高島市で古民家ファスティングをオープンして、

来会される方に向けにこのブログを書き始めた時、

関根正雄著作集をベースにして、私との相違を明確にするために

関根正雄著作集にある聖書注解書をたたき台にしたのです。

「創世記講義」、「申命記講義・3巻」、「イザヤ書講義」、「マタイによる福音書講義2巻」、「ロマ書講義2巻」です。

それから3年半になりますが、増々、その相違がますます明確になってきました。

中でも新約聖書に至って明確になってきました。

今回の「ローマ人への手紙」は極めてその差が明確となってきたのです。

関根氏はいいます。上記の「ローマ人への手紙」の注解です。

「われわれがいつでも自分に徹底的に死んでいるということ、

徹底的にキリストに生きていることでなければならない」と6節を注解しておられますが、

それでは具体的なことはどう対応するか、一切、触れられていません。

また「もしそれがなくなればセクリタスになる。

ユダヤ教徒とかカトリックは教義として認められている」とありますが、

これは大きな間違いのもとなのです。

確かに教義にはなっていますが、それは信仰告白としての教義であり、信仰ではありませんから、

各自が神を体験することが基礎になっています。

教義だとユダヤ教徒、カトリックを切り捨てて、

いきなり、「徹底的にキリストに生きていく」ことがどのようなことかを説明していないのは、

大きな片手落ちとしか言いようがありません。

ゆえに無教会の信仰が、日常に具体的に生かされていないのです。
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山上の説教  08 神を体験することなくして、キリスト信仰は存在しない

2020-09-29 04:00:00 | イエス・キリストの生涯  マタイによる福音書
マタイによる福音書
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

塚本訳
ああ幸いだ。心の清い人たち、
(御国に入って)神にまみえるのはその人だから


これは無教会の指導者であった塚本虎二は、意訳で(御国に入って)と挿入していますが、

私はこの解釈は間違いだと思います。

それは「終わりの日にしか神にまみえない」という信仰が基本姿勢にあるからです。

終わりの日にしか神にまみえず、神を体験できないという無教会の信仰だからこそ、

断食を頭から否定し、そして神秘主義、カトリック主義と排除してしまうのです。

これでは神を体験することをベースにしたキリスト教を否定したことになるのです。

神を体験することなくして、キリスト信仰は存在しないのです。

無教会指導者であった関根氏は、

「欲望は創造の恵みのもとにあるのであって禁欲は誤りである」と明言していますが、

これこそ無教会の解釈であり、聖書はそのようなことを語っていません。

人間の欲望を制御することが人間であり、神の恵みとは一言も語っていません。

それが断食をすることになるのです。

断食は食の欲望を断ち切って、神の前に出ることなのです。

そしてそこで神に会いまみえることなのです。

つまり神を体験することであり、神秘主義でもなんでもありません。

クリスチャンとしては当然のことなのです。

2000年の歴史を形成してきたカトリックの教会責任者たちは、常に語っていることですが、

断食が教会にとってもっとも基本的なことであること。

そして教皇ベネディクトは明言しています。

「断食のない教会は、もはや教会ではない。なぜならば断食がない教会は、世俗と変わらないものとなるからだ」。

そうです。

断食が教会にとってもっとも基本的なことだというのは、

食という欲望を断ち切ることを体験しなければ、神を体験できないからです。

神を体験しないキリストを信じる信仰などありえないのです。

ゆえに塚本訳というよりは、無教会の解釈は根本から誤りだということです。

終わりの日にしか神と会いまみえないのでは、信仰は必要ないでしょう。

信仰に日常化は到底、そこには存在しないし、教会も存在しないからです。
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キリストの到来の預言 01 メシア預言の時代背景は

2020-09-28 04:00:00 | 時代を切り開いた預言者たち イザヤ書
イザヤ書
◆ダビデの位
8:23 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/

後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。

9:1 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。

刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。

9:3 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。

9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。

その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。

9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。

王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。



イザヤは誰もが知っているメシア、キリストの到来の預言をしていますが、

イスラエルの歴史を大きく変えたシリア・エフライム戦争の中から生まれたものであるという注解があります。

つまり風前の灯になった北王国に対して、イザヤは北王国に新しい王が即位され、

アッシリアから解放されるという希望の預言をしたのです。

このメシア預言に関する注解は実に多くの解釈があります。

アッシリアが実際に衰退していく中で、ヨシヤが即位したときに再編集されたものではないかという説もあります。

ヨシヤ王への期待は大きかったのでその意味では可能性も大ですが、

9章1節からのメシア預言は、イザヤのものではなく、捕囚時代に申命記史家が書いたのではないかという説もあります。

ヨシヤ王の期待は、預言者エレミヤが新しい契約を提言しましたので、

ヨシヤ王に多くの人々が期待を寄せたことは間違いありません。

ただこれまでイザヤ書を読んできて、新しい段階にイザヤが到達したことは間違いないと解釈すべきです。

そして福音書でイエスの到来こそ、イザヤの預言の実現と告白したのです。

21世紀になった今日でもわれこそキリストであると称する

実にふざけたバカな救世主きどりの新興宗教が後をたちません。

日本の「幸福の科学」などその最たる愚か者です。

メシア・キリストがどのような形で待ち望まれたのかを知れば、軽々しく命名できません。

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申命記の中心思想 14 戒めの上に神がおられる  

2020-09-27 04:00:00 | 聖書の中なかの聖書 申命記
申命記
4:36 主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自分の火を示された。

あなたは火の中からその言葉を聞いた。

4:37 主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、

あなたをエジプトから導き出された。

4:38 神はあなたよりも強大な国々をあなたの前から追い払い、あなたを導いて、

今日のように彼らの土地をあなたの嗣業の土地としてくださった。

4:39 あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、

4:40 今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。

そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。


40節の

「4:40 今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。

そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる」は

申命記の中で何度も繰り返され、申命記どころか聖書の中核なのです。

「わたしが命じる主の掟と戒め」とありますように神が与えた戒めであり、神が戒めを与え、

神が絶対であることをまず、書いています。

戒めは今日ならば法律ですが、その戒めの上に神がおられるのです。

そこを明確にしないと戒めを守ることが実践的な行いにのみなってしまいます。

この戒めの中核が十戒ですが、

残念ながら日本の場合、まず第一戒から破って神との契約を破ってしまったのです。

それは天皇崇拝という偶像を明治政府がキリスト教会に突き付けてきたとき、妥協したのです。

ここでたとえ殉教者が出ても抵抗して、第一戒に立たなければならなかったのです。

もう一度申命記の十戒を刻み込みましょう。


5:6 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

5:7 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

5:8 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、

また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

5:9 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。

わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。

わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

5:10 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。


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サタンの実態 21 誘惑   13 恥と罪は同一なのか  

2020-09-26 04:00:00 | 世界の初めを知ろう 創世記
創世記
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。

アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、

3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」



ユダヤ人は日本人のような恥を知っていると関根氏は言いますが、果たしてそうでしょうか。

私はユダヤ人の旧約聖書には日本人のいう恥は出てこないと思います。

つまり人間の罪の本質と日本人の恥は同一ではないからです。

恥の中に罪は入っていません。

ですからここで男と女が恥で恥部を覆ったのではなく、神の憐みで覆われたのであり、

恥の文化と唯一神の信仰とは全く異なるのです。

また性は恥ではありません。

人間の欲望の一つであり、食欲、性欲、睡眠欲の三欲は、神の憐みであり、

対決でもなく、恥でもなく、罪の自覚でもありません。

さて、「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」とありますが、

何を自覚したから隠れたのかです。

どこで罪の自覚を持ったのかです。罪と格闘したからでしょうか。

神と格闘したからでしょうか。

神と分離したからでしょうか。

いずれも違います。

自分には何もないことが分かったからです。

それを真に自覚するには、まず、神の前にまったく無になって出るしかないのです。

ではどうやってなのか。

私は塵灰を被って断食して神の前に引き出されるしかないのです。

それを一貫して語っているのが預言者なのです。


イザヤ書
58:1 喉をからして叫べ、黙すな/声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを/ヤコブの家に、その罪を告げよ。
58:2 彼らが日々わたしを尋ね求め/わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として/彼らがわたしの正しい裁きを尋ね/神に近くあることを望むように。
58:3 何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。
58:4 見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。
58:5 そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。
58:6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。
58:9 あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら
58:10 飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。
58:11 主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
58:12 人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。

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