ローマ人への手紙
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、
その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。
この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
このブログでは修道院の断食について連載をしています。
連載しながらこれまで私が無教会の指導者から常に教えられてきたことが
根本的に間違っていたのだということが次第に分かってきました。
私は無教会時代に買った信仰書を高島市に引っ越した時、大半を処分しました。
引っ越しセンター専用箱で116箱もありました。
そして唯一、残したのが、関根正雄著作集でした。
なぜそうしたかといいますと、もしこれから聖書入門書をブログで連載していく場合、
必ず、24年間も教えを受けてきた無教会と対決することになり、
無教会の中では唯一の本格的神学者である
関根正雄の信仰と比較していくことになると予感していたのです。
そして高島市で古民家ファスティングをオープンして、
来会される方に向けにこのブログを書き始めた時、
関根正雄著作集をベースにして、私との相違を明確にするために
関根正雄著作集にある聖書注解書をたたき台にしたのです。
「創世記講義」、「申命記講義・3巻」、「イザヤ書講義」、「マタイによる福音書講義2巻」、「ロマ書講義2巻」です。
それから3年半になりますが、増々、その相違がますます明確になってきました。
中でも新約聖書に至って明確になってきました。
今回の「ローマ人への手紙」は極めてその差が明確となってきたのです。
関根氏はいいます。上記の「ローマ人への手紙」の注解です。
「われわれがいつでも自分に徹底的に死んでいるということ、
徹底的にキリストに生きていることでなければならない」と6節を注解しておられますが、
それでは具体的なことはどう対応するか、一切、触れられていません。
また「もしそれがなくなればセクリタスになる。
ユダヤ教徒とかカトリックは教義として認められている」とありますが、
これは大きな間違いのもとなのです。
確かに教義にはなっていますが、それは信仰告白としての教義であり、信仰ではありませんから、
各自が神を体験することが基礎になっています。
教義だとユダヤ教徒、カトリックを切り捨てて、
いきなり、「徹底的にキリストに生きていく」ことがどのようなことかを説明していないのは、
大きな片手落ちとしか言いようがありません。
ゆえに無教会の信仰が、日常に具体的に生かされていないのです。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、
その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。
この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
このブログでは修道院の断食について連載をしています。
連載しながらこれまで私が無教会の指導者から常に教えられてきたことが
根本的に間違っていたのだということが次第に分かってきました。
私は無教会時代に買った信仰書を高島市に引っ越した時、大半を処分しました。
引っ越しセンター専用箱で116箱もありました。
そして唯一、残したのが、関根正雄著作集でした。
なぜそうしたかといいますと、もしこれから聖書入門書をブログで連載していく場合、
必ず、24年間も教えを受けてきた無教会と対決することになり、
無教会の中では唯一の本格的神学者である
関根正雄の信仰と比較していくことになると予感していたのです。
そして高島市で古民家ファスティングをオープンして、
来会される方に向けにこのブログを書き始めた時、
関根正雄著作集をベースにして、私との相違を明確にするために
関根正雄著作集にある聖書注解書をたたき台にしたのです。
「創世記講義」、「申命記講義・3巻」、「イザヤ書講義」、「マタイによる福音書講義2巻」、「ロマ書講義2巻」です。
それから3年半になりますが、増々、その相違がますます明確になってきました。
中でも新約聖書に至って明確になってきました。
今回の「ローマ人への手紙」は極めてその差が明確となってきたのです。
関根氏はいいます。上記の「ローマ人への手紙」の注解です。
「われわれがいつでも自分に徹底的に死んでいるということ、
徹底的にキリストに生きていることでなければならない」と6節を注解しておられますが、
それでは具体的なことはどう対応するか、一切、触れられていません。
また「もしそれがなくなればセクリタスになる。
ユダヤ教徒とかカトリックは教義として認められている」とありますが、
これは大きな間違いのもとなのです。
確かに教義にはなっていますが、それは信仰告白としての教義であり、信仰ではありませんから、
各自が神を体験することが基礎になっています。
教義だとユダヤ教徒、カトリックを切り捨てて、
いきなり、「徹底的にキリストに生きていく」ことがどのようなことかを説明していないのは、
大きな片手落ちとしか言いようがありません。
ゆえに無教会の信仰が、日常に具体的に生かされていないのです。