申命記
6:16 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、
主を試してはならない。
6:17 あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、
6:18 主の目にかなう正しいことを行いなさい。
そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた
良い土地に入って、それを取り、
6:19 主が約束されたとおり、あなたの前から敵を
ことごとく追い払うことができる。
6:20 将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられた
これらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、
6:21 あなたの子にこう答えなさい。
「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、
主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。
6:22 主は我々の目の前で、エジプトとファラオと
その宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、
6:23 我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われた
この土地に導き入れ、それを我々に与えられた。
6:24 主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、
我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、
常に幸いに生きるようにしてくださった。
6:25 我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、
この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」
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信仰とは神から受け取るものであり、そもそも聖書の信仰は、啓示信仰です。
ゆえに神から受け取るからこそ、信仰は真に自由になるのです。
つまり神のものとなるので、私たちのものではなくなるのです。
ところが一番厄介なのは、半分は神のものであり、
半分はこちらからの努力で人間の側のものである
という受け止めをしている方々もいるのです。
真の信仰とは、神からの一方的な無償の恵みを受け取り、
自分を完全に捨てきる事、ただひたすら神の恵みを受け続けていくことです。
しかし、これが半々なると信仰の焦点はボケてしまいます。
少し油断すれば、人間の力の信仰にすり替えられてしまうのです。
これを日常化するには、まず神の前に全身を投げ出す祈りを日々、
積み重ねていく一日一生の歩みをすること。
そして聖書の言葉が日々、突入ることを祈って聖書を真剣に読むことです。
そして聖霊様を私の中にお迎えすることです。
それには主の戒めを守り、神を愛し、人を愛することです。
具体的に教会で礼拝を厳守し、
什一返金をして神のものは神にお返ししなければならならないのです。
ですから16節の「主を試してはならない」なのですが、
唯一、神が「わたしを試せ」言っておられます。
そのみ言葉は、マラキ書に書かれた什一返金なのです。
マラキ書
3:10 十分の一の献げ物をすべて倉に運び/
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/
祝福を限りなく注ぐであろう。