ローマ人への手紙
3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、
その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
洗礼、聖餐も割礼と同じくサクラメントであり、神の言葉の裏付けがなければならないというのが、
ジャン・カルヴァンのいわんとしていたことです。
このところを関根氏は、
「聖書の信仰は言葉の信仰ですが、ただ漠然と何か感情的に思うとか、霊的に示されるとか、
霊的に信仰が生きるいうことではない。
もちろん神の霊が働かなければ生きた言葉にはならないのですが、
問題は言葉でとらえられているかどうか、これが実は旧新約聖書を貫いている信仰なのです」といいます。
しかし、ここで関根氏の問題は
1・神の言葉は霊であるということは聖書の中核であることがない。
2・その神の霊を受けるための断食祈祷、聖別のすすめがない。
3・洗礼、聖餐式のサクラメントは神の子、イエスの厳令であったことです。
4・キリスト教会はその上に成り立ってきた2200年の歴史を刻んできた事実があります。
5・十字架の言は神の言葉でもありますが、
十字架を刻み込むために聖餐式でぶどう酒を教会で飲むこと、
キリストの体なるパンを食することが教会(信仰)生活の基本なのです。
6・生きた言葉は礼拝で洗礼、聖餐式に預かることで毎週、確認し、
そこで罪のゆるしをうけとっていくものです。
上記を鑑みると、いかに洗礼、聖餐式の否定は異端なのか分かります。
教会で洗礼者、救道者向けのテキスト(同盟)には、
洗礼の祝福
1、罪の赦し(使徒22章16節、ヘブル10章22節、使徒2章38節)
2、新生(新しく生れること)(ヨハネ3章5節、テトス3章5~6節)
3、キリストにつながれたこと(ガラテヤ3章27節)
(この結合は、キリストの死・葬り・復活との結合である)(ローマ6章3~5節)
4、父なる神との新しい関係(ガラテヤ3章26節以下)→神の国の正式な相続人となる(ローマ8章17節)
5、聖霊を与えられたこと(コリント人への手紙第一12章13節、使徒2章38節)
6、教会に属するようになったこと(使徒2章41節)
7、救いを頂いたこと(マルコ16章16節、ヨハネ3章5節)
聖餐意味
1、キリストの救いの恵みの記念。(コリント人への手紙第一11章24節)
2、私達罪人のために主キリストが死んで下さったことの象徴。(ルカ22章19節)
3、キリストに対面するために最も有力な恵みの手段。(「恵みの手段」には、普通、
1、祈り、2、みことば、3、聖礼典の3つを普通数えますが、
そのうちでも聖餐式は最も直接的にキリストと直面するというのです)
4、感謝の祭り。(聖餐式は、旧約聖書の「過越の祭」をキリストが成就したものです。
(コリント人への手紙第一5章7節)
5、家族団欒の食事。(旧約で過ぎ越しの祭は家族単位で守られました。私達の霊の家族との団欒です。)
6、現在のみでなく、あらゆる時代のクリスチャン・教会の交わりの時。(見えない教会を覚えましょう)
7、キリストへの誓約を確認する時。(聖礼典を意味するサクラメントはもともと宣誓の意味です。)
8、恵みの契約。(コリント人への手紙第一11章25節)(恵みにより救うという約束を確認する時です。)
9、無言の説教。(コリント人への手紙第一11章26節)(主の死を宣べ伝える、無言にして最大の説教と言われます。)
10、希望の象徴。(マタイ26章29節)(聖餐は未来にも関わります。主が来られる日……天の御国での食事!)
聖餐式にあずかる時、漠然とあずかるのでなく、
聖餐の多様な意味を色々と思い巡らすことはとても有益で感動的なことです。
以上、無教会はやはりこのような洗礼と聖餐を否定すること自体、異端なのです。
3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、
その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
洗礼、聖餐も割礼と同じくサクラメントであり、神の言葉の裏付けがなければならないというのが、
ジャン・カルヴァンのいわんとしていたことです。
このところを関根氏は、
「聖書の信仰は言葉の信仰ですが、ただ漠然と何か感情的に思うとか、霊的に示されるとか、
霊的に信仰が生きるいうことではない。
もちろん神の霊が働かなければ生きた言葉にはならないのですが、
問題は言葉でとらえられているかどうか、これが実は旧新約聖書を貫いている信仰なのです」といいます。
しかし、ここで関根氏の問題は
1・神の言葉は霊であるということは聖書の中核であることがない。
2・その神の霊を受けるための断食祈祷、聖別のすすめがない。
3・洗礼、聖餐式のサクラメントは神の子、イエスの厳令であったことです。
4・キリスト教会はその上に成り立ってきた2200年の歴史を刻んできた事実があります。
5・十字架の言は神の言葉でもありますが、
十字架を刻み込むために聖餐式でぶどう酒を教会で飲むこと、
キリストの体なるパンを食することが教会(信仰)生活の基本なのです。
6・生きた言葉は礼拝で洗礼、聖餐式に預かることで毎週、確認し、
そこで罪のゆるしをうけとっていくものです。
上記を鑑みると、いかに洗礼、聖餐式の否定は異端なのか分かります。
教会で洗礼者、救道者向けのテキスト(同盟)には、
洗礼の祝福
1、罪の赦し(使徒22章16節、ヘブル10章22節、使徒2章38節)
2、新生(新しく生れること)(ヨハネ3章5節、テトス3章5~6節)
3、キリストにつながれたこと(ガラテヤ3章27節)
(この結合は、キリストの死・葬り・復活との結合である)(ローマ6章3~5節)
4、父なる神との新しい関係(ガラテヤ3章26節以下)→神の国の正式な相続人となる(ローマ8章17節)
5、聖霊を与えられたこと(コリント人への手紙第一12章13節、使徒2章38節)
6、教会に属するようになったこと(使徒2章41節)
7、救いを頂いたこと(マルコ16章16節、ヨハネ3章5節)
聖餐意味
1、キリストの救いの恵みの記念。(コリント人への手紙第一11章24節)
2、私達罪人のために主キリストが死んで下さったことの象徴。(ルカ22章19節)
3、キリストに対面するために最も有力な恵みの手段。(「恵みの手段」には、普通、
1、祈り、2、みことば、3、聖礼典の3つを普通数えますが、
そのうちでも聖餐式は最も直接的にキリストと直面するというのです)
4、感謝の祭り。(聖餐式は、旧約聖書の「過越の祭」をキリストが成就したものです。
(コリント人への手紙第一5章7節)
5、家族団欒の食事。(旧約で過ぎ越しの祭は家族単位で守られました。私達の霊の家族との団欒です。)
6、現在のみでなく、あらゆる時代のクリスチャン・教会の交わりの時。(見えない教会を覚えましょう)
7、キリストへの誓約を確認する時。(聖礼典を意味するサクラメントはもともと宣誓の意味です。)
8、恵みの契約。(コリント人への手紙第一11章25節)(恵みにより救うという約束を確認する時です。)
9、無言の説教。(コリント人への手紙第一11章26節)(主の死を宣べ伝える、無言にして最大の説教と言われます。)
10、希望の象徴。(マタイ26章29節)(聖餐は未来にも関わります。主が来られる日……天の御国での食事!)
聖餐式にあずかる時、漠然とあずかるのでなく、
聖餐の多様な意味を色々と思い巡らすことはとても有益で感動的なことです。
以上、無教会はやはりこのような洗礼と聖餐を否定すること自体、異端なのです。