パレスチナを中心に東はメソポタミヤから西は、
スペインにおよぶ広域な地域において、ギリシア、
ローマの思想や迷信的な民間宗教が満ち溢れている異教社会で、
異民族を改宗させ、共同体を形成して、数世紀も維持できたのは、
律法を持ち、規範としたユダヤ教あってのことです。
まずユダヤ教の根幹はエルサレム神殿でした。
ヘロデ大王は壮大な神殿を改築し、デアスポラの巡礼者を
世界各地からエルサレムに集め、神殿税を取り込み、神殿では
祭司による多くの儀式、犠牲が祭壇に捧げられました。
そして神殿にはイスラエルの古い通貨でしか通用せず、両替屋もあります。
祭壇の照明、清掃、露天商も並びます。
またシェマの祈りの朗読、アロンの祝祷などの礼拝音楽が盛んでした。
ヨセフスはディアスポラが300万人集まってきたと書いています。
そして神殿には最高法院というサンヘドリンがあり、僧衣をた指導者がいます。
サドカイ人、パリサイ人など民の指導者70名でした。
しかし、ローマ総督府の管理下にあり、民事、刑事の司法が主な仕事でした。
同時に行政も担っていました。
ローマ総督は常時、カイサリヤに滞在し、過ぎ越しの祭りなど
多くの群衆が集う時にエルサレムに治安を目的に来るだけでした。
その過ぎ越し祭りでイエスの審問が行われたのです。
12使徒や使徒パウロも同じ経験をしました。
マルコによる福音書
14:55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。
使徒言行録
5:21 これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた。一方、大祭司とその仲間が集まり、最高法院、すなわちイスラエルの子らの長老会全体を召集し、使徒たちを引き出すために、人を牢に差し向けた。
22:30 翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。
しかし、先回に述べましたようにエルサレム崩壊後は、
地中海海岸のイヤモニに移り、
ラビ(律法学者)たちが運営するようになりました。
そしてユダヤ教勢力が衰退しなかったのは、
ひとえに各地にあったジナゴーグ(注・01)というユダヤ教の会堂です。
ユダヤ人の多く住むところには必ずあり、
当時、150以上はあったようで、このシナゴーグに使徒パウロは行き、
キリストの福音を説きました。
シナゴーグ(注・01)
ユダヤ教の会堂のことである。ギリシャ語のシュナゴゲー(集会所)に由来する。聖書には「会堂」の名で登場し、ユダヤ教会と俗称されることもある。キリスト教の教会の前身であるが、役割はやや異なる。元々は聖書の朗読と解説を行う集会所であった。現在では、祈りの場であると同時に、各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっている。