ローマ人への手紙
3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、
神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、
それに対して何と言うべきでしょう。
人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、
どうして神は世をお裁きになることができましょう。
3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、
神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として
裁かれねばならないのでしょう。
3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」
とも言えるのではないでしょうか。
わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、
こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
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聖書の中で「神の義」ほど含蓄の深い言葉はないのですが、
どうも私たちは深海よりも深い、そのみ言葉なので、
分かっているようで分かっていないのではないでしょうか。
むしろすり替えられたり、誤解まで生まれてしまっています。
どこがそうなるのでしょうか。
それは神の義が、神の要求される義としてしまうことです。
カトリック修道士であったルターはそこで深い苦しみ、
悩みの中に閉じ込められていたのです。
カトリックもしかりユダヤ教でも調べていくと
行いの蓄積が神の義とすり替えられていたことが分かります。
しかし、ルターは分かったのです。
神の義は神の恵みである
つまり神からの一方的な受動的な義なのだということが分かったので、
ルターは真のコンバージョン(注・01)を経験したのです。
コンバージョン(注・01)
神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す。日本語訳の「回心」はキリスト教の用語として作られた造語である。日本語の回心の語は、日本基督教会の指導者植村正久の福音新報で、英語のコンボルジョンの訳語として、最初に用いられた造語である。旧約聖書では「シューブ」(「向きを変える」「帰る」の意味。)と「ナハーム」(悲しみの感情を伴って悔い改める)というヘブル語が用いられる。新約聖書では「エピストゥレフォー」(方向転換して戻る)と「metanoeo メタノエオー」(悔い改める)というギリシア語が用いられる。名詞形μετάνοια,metanoia「悔い改め」である。
カトリック教会
カトリックにおける回心とは、日本語辞書にある「改心」とは全く異なる。信者が周りを見回す要領で頭を旋回すると、その時点で起こっている事象についての解釈や感じ方が変わることを指す。カトリック信者にとっては、その瞬間に自分の頭を支配しているのがイエス・キリストか、あるいは悪魔かの判断材料となる。頭を回す動きをするため、回す心『回心』と書く。神への回帰とも言える。
プロテスタント
・改革派
回心の二つの要素は悔い改めと信仰であり、聖霊によって新生した者が、回心を自覚するとされ、新生は神の側のことで、回心は人間の側の事であると定義される。また、改革派系では回心は一度限りのことであり、第二の回心はない。
・ウエスレアン・アルミニアン神学
ウエスレアン・アルミニアン神学では形式上の信者が、心から信じるようになる体験(第二の回心)を意味する場合もある。
・正教会
正教会において、回心は神成の始まりであり、死にいたるまで続く新生の涙の感動であると捉えられる。回心は恩寵への入り口として通過されるべき一つの段階ではなく、絶えず続く状態(神との一致)を渇望する者の恒常的態度であり、洗礼後に神から与えられる「第二の誕生」である。回心は、高慢や無知から自身を「恩恵の状態にある」と考える、新約聖書に登場するファリサイ派の心の状態とは全く逆のものである。(ウィキ)