ローマ人への手紙
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。
2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、
また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。
彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、
人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
2:11に「 神は人を分け隔てなさいません。」とありますが、
宗教改革者カルヴァンは「人間は無であって人間には何もないのだ。
けれども全く無に等しい者を全き恩恵から選んで、そして選んだ者に、キリストのみ心を行わせる」と語ります。
イエスラエルの選びがそうであったように何もない一番、小さく、低い奴隷のような中から
神の民として選んだのだということです。
ゆえに神が選ばれたからこそ神の戒めに立つことが求められます。
キリストにあって死ぬというのはそのようなことです。
これは聖人になるための断食による苦行、修行でなるという意味ではなく、
イエスに幼子が母親によりすがるように、すべてをイエスにゆだねることこそ信仰だということなのです。
ここで聖化ということがカルヴァンは指摘していますが、
聖化とは大辞典では「聖霊の働きによって人間が罪から救われ、神の聖性にあずかり、聖なるものとされること。
カトリックでは成聖という。」とあり、
キリストのものとされることです。
それはキリストの新しい戒めに生きることにほかなりません。
そこにはユダヤ教団のような律法は必要としないのです。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。
2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、
また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。
彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、
人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
2:11に「 神は人を分け隔てなさいません。」とありますが、
宗教改革者カルヴァンは「人間は無であって人間には何もないのだ。
けれども全く無に等しい者を全き恩恵から選んで、そして選んだ者に、キリストのみ心を行わせる」と語ります。
イエスラエルの選びがそうであったように何もない一番、小さく、低い奴隷のような中から
神の民として選んだのだということです。
ゆえに神が選ばれたからこそ神の戒めに立つことが求められます。
キリストにあって死ぬというのはそのようなことです。
これは聖人になるための断食による苦行、修行でなるという意味ではなく、
イエスに幼子が母親によりすがるように、すべてをイエスにゆだねることこそ信仰だということなのです。
ここで聖化ということがカルヴァンは指摘していますが、
聖化とは大辞典では「聖霊の働きによって人間が罪から救われ、神の聖性にあずかり、聖なるものとされること。
カトリックでは成聖という。」とあり、
キリストのものとされることです。
それはキリストの新しい戒めに生きることにほかなりません。
そこにはユダヤ教団のような律法は必要としないのです。