バイブルランドin福井

安田由久が驚くべき聖書の世界をご案内します

総選挙の結果を見てエレミヤの如く、日本に哀歌を捧げる 

2024-10-31 04:00:00 | ゴスペル・エッセイ
日本の今後を決める衆議院総選挙が終わりました。

今回も戦後ワースト3に入る選挙投票率(56%)で、

多くの国民は政治参加を放棄し、無責任国民と成り果てました。

そして国民は、悶々として諸物価が上がる中で

苦しんでいる日々を送っていくのです。

読売新聞は社説で「自公は、2012年の政権復帰以降、

経験したことのない逆風にさらされた。

大幅な議席減は、政治とカネの問題に象徴される、

長期政権の 驕(おご) りや緩みに対する

国民の不信感を反映した結果と言えるのではないか。」

と書いていますが、果たしてそれだけでしょうか。

それよりも深刻なのは日本経済が想像以上に衰退し、

それを止める政治、経済の指導者がいないことの方が深刻です。

つまり決定的な第二の敗戦を迎えていることです。

今回の選挙で明らかになったことは、

与野党の候補者が日本の経済復興や日本の長期ビジョンを

何も語っていないことです。

そして目の前のばらまき、その場しのぎの政策ばかりを提示しているのです。

しかも、太平洋戦争末期と同じく日本の敗戦濃厚なことを

ひたすら隠してきたと同様、

日本経済は深刻な問題を抱えていることを政治家も経済指導者も直視し、

真摯に対応していません。

経済評論家野口氏がそのようなことを

東洋経済誌に連載しておられますのでその一部を紹介します。


・・・1980年代の後半には、日本の1人当たりGDPは、実にアメリカの1.5倍になっていた。これは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われていた時代のことだ。だが、2023年における日本の1人当たりGDPは、アメリカの約7割程度でしかない。いまとなっては、日本がアメリカより豊かであり、しかも5割も豊かであった時代があったことが信じられない。しかし、このような時代は、実際にあったのである。その後、中国の工業化とIT革命という世界経済の大きな変化によって、日本の相対的優位性が崩され、日本とアメリカの1人当たりGDPの比率は低下した。それでも、2000年における値は1を超えていた。2000年は、沖縄でサミットが行われた年だ。日本は、この時、参加国中で最も豊かな国だったのである。ところが、2023年に広島で行われたサミットにおいては、日本の1人当たりGDPは参加国中で最低になってしまった。この20数年の間に、極めて大きな変化があったのだ。しかも、日本の地位の低下は、その後も止まらずに続いている。この状況が続けば、未来の日本は、さまざまな面において、大きな困難に直面せざるをえないだろう。1980年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された日本が、その後、世界における地位を下げたのは、1980年代、1990年代に生じた大きな世界経済の構造変化による。なかでも重要なのは、中国が工業化に成功したことだ。そして、情報関連技術において、IT革命と呼ばれる大きな変化が生じたことだ。このいずれに対しても、日本は適切に対応することができなかった。それに加えて、政府の政策や企業が対応を誤ったのだ。つまり、やりようによっては、中国工業化やIT革命に対して、対応が可能だったはずなのである。それだけでなく、こうした条件変化を利用して、新しい経済成長を実現することができたはずだ。そうした対応に実際に成功した国・地域を、いくつも挙げることができる。アジアにおいては、韓国、台湾、香港、シンガポールがその例だ。それに対して、日本の地位は、この間に低下を続けた。新しい技術も、革新的なビジネスモデルも現れなかった。こうなってしまったのは、円安や金融緩和といった目先の政策に終始して、新しい技術の開発やビジネスモデルの導入、あるいは人材の育成といった問題をなおざりにしたからだ。今回の総選挙においても、アベノミクスの見直しが主要な争点になってしかるべきだった。実際、石破首相は、かねてアベノミクスの再点検が必要だとしていた。しかし、総選挙ではこの問題を封印してしまった。また、不思議なことに、野党からも、この点についての突っ込んだ議論はなされなかった。金融正常化とは金利を引き上げることであり、それは金利負担を重くすることであり、借入人の負担を重くするから望ましくないという考えが支配的だからだ。実は、低い金利を続けることこそが、日本経済にとっての大きな問題なのだ。しかし、そうした議論はまったく行われなかった。つまり、日本経済にとっての最も重要な論点が、今回の総選挙においては論議されなかったことになる。事態はすでに深刻なレベルにまで達している。それにもかかわらず、政治は、この問題から目をそらしている。国民も目を覚まさない。この状態を打破するには、いったいどうしたらいいのだろうか? ・・・・
(東洋経済241027)

私は野口氏の読者への問いかけに対して、旧約聖書の哀歌を想起しました。

南王国ユダが滅んでいく中で預言者エレミヤが歌った哀歌です。


哀歌
4:16 主は御顔を背け/再び目を留めてはくださらない。祭司らは見捨てられ/長老らは顧みられない。

 4:17 今なお、わたしたちの目は/援軍を求めていたずらに疲れ/救ってはくれない
他国をなお見張って待つ。

 4:18 町の広場を歩こうとしても/一歩一歩をうかがうものがある。終りの時が近づき、わたしたちの日は満ちる。まさに、終りの時が来たのだ。


打破する指導者は出ない、というのが哀歌でエレミヤが預言した言葉です。

石破首相は一応、洗礼を受けたクリスチャンです。

この哀歌も読んでおられるはずです。

佐藤優さんが石破首相に期待を寄せた言葉が実現できるように祈るのみです。
(※週刊ダイヤモンド誌に寄稿されていますので、後日、論考します)

そして反石破を組み、石破さんを引きずり下ろし、

再び安倍氏のような愚かな指導者が出れば、

哀歌を歌ったエレミヤの預言は実現し、

おそらく日本の終焉は下記のごとく迎えることでしょう。

歴代誌下
◆ユダの王ゼデキヤとバビロン捕囚
36:11 ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。
36:12 彼は自分の神、主の目に悪とされることを行い、主の言葉を告げる預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。
36:13 彼はまた、神の名にかけて彼に誓わせたネブカドネツァル王に反逆し、強情になってその心をかたくなにし、イスラエルの神、主に立ち帰らなかった。
36:14 祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。
36:15 先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、
36:16 彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。
36:17 主はカルデア人の王を彼らに向かって攻め上らせられた。彼は若者たちを聖所の中で剣にかけて殺し、若者のみならず、おとめも、白髪の老人も容赦しなかった。主はすべての者を彼の手に渡された。
36:18 彼は神殿の大小の祭具のすべて、主の神殿の宝物も、王とその高官たちの宝物も残らずバビロンに持ち去った。
36:19 神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。
36:20 剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。彼らはペルシアの王国に覇権が移るまで、バビロンの王とその王子たちの僕となった。
36:21 こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。


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ハビヤンから貝原益軒へ 06 日本教の継承者誕生 06 日本教の聖書 03 人の道  

2024-10-30 04:00:00 | 日本教から脱出するにはどうするのか
貝原益軒の説く「人の道」を全文紹介したいのですが、

同じことを何度も繰り返していますので私の解釈で要旨をまとめてみます。


天地を仕えるのは(彼の神観)は父母こそ人間の本質であり、

人はこの父母をもって天地とするといいます。

天地につかえること仁(日本教を信じる)は、父母に仕えること


貝原益軒の説く「人の道」は結局、父母を敬え、それが自然の教え、

人間論の原点だというのです。

自然の教え(ナツウラの教え)、人が従うべき宇宙の秩序、

絶対的な基本は父母を敬えであり、

この教えを体系化するために儒教を取り入れたのです。

これが延々と「大和俗訓」に書かれています。

これだけのことなら大した思想ではなかったのですが、

生活の細部に至るまで下記のような訓戒の書を書きました。

『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』、『家道訓』、『初学訓』、

『文訓』、『武訓』、『楽訓』など実に多彩であり、

これらすべてが徳川260年の生き方に決定的な影響を与えました。

そしてそれは『神祇訓』に凝縮されたのです。

この書で、「日本国は天照皇大神を宗源として、それは比類なき国、

神国だ」と規定しました。

そして日本は「神ながらの道」を信じなければならない、

それは「誠心、正直、清浄、従順であり、

朝夕に神祇に奉仕することが、全国民の日課だといいます。

これが「人の道」であり、

そこから明治時代の「教育勅語」が出てきたのです。

つまり日本教の本質が、「教育勅語」として凝縮されて登場し、

明治から今日まで、日本人を縛る日本教の律法として、

今も生きているのです。

これはまさにユダヤ教の律法に相通じるものがあります。

そして絶対性の顕現者としての天皇であり、

それが明治からの近代日本の中核でしたが、

今も日本を支配しているのはいうまでもありません。

NHK朝ドラ「寅の翼」でも描かれた「尊属殺人」が

戦後の憲法14条(注・01)に反しているにも関わらず、

残っていたのも貝原益軒の父母を敬えという「人の道」に反するという

日本教独自の解釈からです。

それは日本にキリストの福音が拡大しない大きな要因となっています。

私はその日本教の恐ろしさをわが身をもって体験したのです。

1993年に私が献身してから父母は完全に私の献身は、

人の道に反する、世間様に顔向けできないことであり、

あいつは死んだ者だという扱いにしてしまったのです。

それが日本教という律法の怖さですが、それが姿かたちを変えて、

日本のキリスト教会に生きて働いています。

それが福音宣教拡大の最大の阻害要因なのです。



憲法14条(注・01)
 第 14 条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分 又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 ② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。 ③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。
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キリストのからだである教会の立ち上げ 06 一難去ってまた一難を克服していく初代教会の刷新に学ぼう 06 七人の選出 

2024-10-29 04:00:00 | 使徒言行録に書かれた聖霊の働き
使徒言行録
◆ステファノたち七人の選出
 6:1 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、

ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。

それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが

軽んじられていたからである。

 6:2 そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。

「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、

食事の世話をするのは好ましくない。

 6:3 それで、兄弟たち、あなたがたの中から、

“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。

彼らにその仕事を任せよう。

 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

 6:5 一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、

ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、

アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、

 6:6 使徒たちの前に立たせた。

使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

 6:7 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数は

エルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして初代教会では、使徒たちが集まり、

「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。

彼らにその仕事を任せよう。」と決議をします。

この背景は、2節あるように「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、

食事の世話をするのは好ましくない。」という判断からでした。

この初代教会の判断は、キリスト教会に役員や長老などが立てられ、

組織化されていった最初の出来事となります。

モーセの時にも同じことが起こりました。

出エジプト記
18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、
 18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。
 18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。
 18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。
 18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」


こうしてモーセの責任を共同体で分担して、担うことになり、

約束の地に進軍していきました。

初代教会も同じことが起こったのです。



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正しい者は一人もいない 12 ユダヤ人は律法を外側から表面的に守ろうとしている 

2024-10-28 04:00:00 | ローマ人への手紙を読み解く
ローマ人への手紙
 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。

全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、

罪の下にあるのです。

 3:10 次のように書いてあるとおりです。

「正しい者はいない。一人もいない。

 3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。

 3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

善を行う者はいない。ただの一人もいない。

 3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/

その唇には蝮の毒がある。

 3:14 口は、呪いと苦味で満ち、

 3:15 足は血を流すのに速く、

 3:16 その道には破壊と悲惨がある。

 3:17 彼らは平和の道を知らない。

 3:18 彼らの目には神への畏れがない。」

 3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、

律法の下にいる人々に向けられています。

それは、すべての人の口がふさがれて、

全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。

 3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、

だれ一人神の前で義とされないからです。

律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

パウロは真に律法に生きろ、と語っているのですが、

律法を与えられたユダヤ人は外側から表面的に守ろうとしていることを

鋭く指摘したのです。

それが20節の「律法を実行すること」だけで汲々としている

ことだというのです。

しかも、それだけではありません。

それを誇っているだけだと指摘しています。

私は日本人としてはめずらしくユダヤ教徒になられた

石角完爾さんの書かれた本を今も紹介していますが、

7年、連載していて気が付いたのは、

パウロが指摘している神の前に誇ることでした。

石角さんはそれに気が付いていないのです。

律法を心の底から律法に従うとは何かを石角さんは分かっていないのです。

ローマ書を読んでおられないからでしょう。

その意味でカール・バルトの「ローマ書講解」は世界に向けて、

このことを問い明けた驚くべき書であると思います。

パウロは19節で「律法の下にいる人々に向けられ」というのは、

実は山上の説教と密接な関係があります。

そこを次回詳しくみていきましょう。


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山上説教 84 人を裁くな 02 裁きとは何か 

2024-10-27 04:00:00 | イエス・キリストの生涯  マタイによる福音書
マタイによる福音書
◆人を裁くな
 7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

 7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、

どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

 7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

そうすれば、はっきり見えるようになって、

兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

 7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。

それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

NHK朝ドラでは珍しい日本で最初の女性裁判官、

三淵 嘉子さんの半生が描かれました。

裁判官はまさに人間が人間を裁くのですが、その根拠はその国の憲法です。

しかし、裁くことも神が裁くという基本的なことはNHKドラマでも

当然、ありません。

また、日本は唯一神がない国なので議論すらなされませんが、

世界はそうではありません。

神の裁きを取り扱う聖書を知らないと

裁きとは何か全く分からないのです。

中でも新約聖書では、中核ともいえる山上の説教は

そのことを真正面にとらえています。

そして山上の説教では、背後に終わりの日に

強烈な裁きのもとにさらけ出されることを前提にしているのです。

でなければここまで厳しい山上の説教に対して、

人間は耐えれるものでありません。

よくクリスチャンの世界であることですが、

この山上の説教によって「絶対、私は人を裁かない」という生活をして、

すべてに優先するのはキリストの愛だと実践する方がおられます。

しかし、それは大きな間違いなのです。

なぜなら本来、人間は裁くことを本能的にしてしまうのです。

人間的な戒めを守ろうとして裁いてはならないというを固守しても

もし何か信じられないことがある、

たとえばそれが敬虔なクリスチャンの妻であった場合、

夫が浮気していたことを知ったならば、修羅場になりましょう。

裁くなということを固守していたとすれば

なおさら惨憺たるものを味わうのです。

裁くの最後は終わりの日に神の前に出た時に問われるものです。

それをパウロはコリントの教会に書き送ったのです。

5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
 5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。
 5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、
 5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
6:2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。


ここで最後の裁きとは何かを次回に述べましょう。

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