ローマ人への手紙
3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。
全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、
罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。
ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/
その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、
律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口が
ふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
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先回、述べましたようにパウロが指摘した
ガラテヤ人への手紙
2:19 わたしは神に対して生きるために、
律法に対しては律法によって死んだのです。
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
とあったように
律法なくして罪の認識は起こり得ないのです。
律法によって、罪とは何かを私たちの喉元に突き付けられるのです。
もし律法がなかったら、罪はまさにピンボケて、あいまいなものとなり、
罪は正しく認識されません。
そして律法のもとに死ぬとは十字架の体験、つまり神を体験することです。
私の手元にアメリカ南部バプテスト教会指導者、
ヘンリー・ブラックベイ師の「神を体験する」というテキストがあります。
このテキストの中核は、十字架の刻印あり、それを体験することです。
つまり十字架のもとでしか罪の真の姿は見えて来ないし、
そして十字架の罪のゆるしも分からないのです。
その十字架を刻印されるのはどのようになされるのかですが、
それはキリスト教会の礼拝なのです。
教会の礼拝は牧師との人間の関係で示されるのではありません。
牧師も含めて、信徒全員が十字架の元にひれ伏し、
体験するのが、主日礼拝です。
それは十字架の前には「お前は罪人である」という罪を
明確に示され、同時にそれをゆるすために
十字架についてくださった主を仰ぐのです。
それ以外の方法では、
ローマ人への手紙
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
からなのです。
それゆえに神を体験することを毎週の礼拝ごとに神の前に出て、
求めれば、十字架は刻印されるのです。
それが真の礼拝です。
マタイによる福音書
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。